『 桜ノ森満開ノ上 拾八 』



満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいる。

扉が開くと同時に、孔明は笑顔で振り返る。
「こんばんは、子龍殿」
「ご無沙汰しておりました、軍師殿」
律儀に一礼してから、趙雲は姿勢を正す。
「お邪魔しても?」
「邪魔であろうはずがありません」
返して、孔明は少し身をずらしつつ、笑みを深める。
「遠慮していらっしゃらないのではないかと、心配していたのですよ」
「いえ、そのようなことは。では、失礼を」
再び律儀に礼をしてから、趙雲は隣へと並ぶ。
すぐに、視界には見渡す限りの花弁へと向けられる。
月に照らされ、一面が光を帯びたように、ほの白い。
微かな風に、さらさらと揺れる様子はさざ波のようだ。
この楼が、桜の海に浮かぶ小さな小舟になったかのような錯覚さえ覚える。
「なるほど、これは」
思わずこぼれた言葉に、孔明は頷く。
「ええ」
「実に見事です」
趙雲は、照れた笑みを浮かべる。
「話には聞いておりましたが」
「ですから、行かねば損だ、と?」
悪戯っぽく返され、趙雲の笑みはいくらか困惑したものになる。
「というより」
そこで言いよどむあたりが、らしいところだ。
「命令だ、と?」
的中したのは、その視線が微妙に逸れたことでわかる。
孔明は、変わらず生真面目な勇将へと、うって変わった冷めきった口調で言う。
「なるほど、趙将軍は我が君の命を奉じないと、私の元にはいらっしゃらないのですね」
「いや、断じてそのような!」
勢いよく、手と首を振る趙雲に、孔明は白羽扇の後ろで笑みを殺す。
笑みを浮かべたことはわかったのだろう、趙雲は、ため息をつく。
「軍師殿、お戯れが過ぎます」
「申し訳ありません、久しぶりでしたものですから」
返す孔明の顔をまじまじと見てから、趙雲も笑みを浮かべる。
「そうですね、来て良かった」
「これほどに見事な景色、見逃すのは惜しいですよ」
何か返しかかったように動いた口元は、だが、閉じて景色へと移る。
風が軽く舞い、花弁がひらり、ひらり、と舞う。
「本当に、素晴らしい」
そのまま、続ける。
「他に、いらっしゃいたい方が多いと思っていたので」
「それで、遠慮を?」
「結果的には、そうなります」
やはり、景色の方へと視線をやったまま、孔明が問う。
「ずっと前から、お気付きになっていらっしゃったでしょう?」
「軍師殿には、隠し立て出来ませんね。お邪魔をしたくなかっただけで、他意は無かったのです」
「それは疑ってなどおりません。ただ、子龍殿にお会いしたかった方もいたでしょうに」
趙雲は、孔明の気遣いに笑みを返す。
「大丈夫ですよ」
その言葉の正確な意味を、聡い軍師は間違いなく捉える。
「そうですね」
小さく肩をすくめる。
だが、視線は景色を見やったままだ。
「軍師殿」
雑談の続きのままの趙雲の声にも、
「はい」
と声だけを返す。
「殿からご伝言を預かってまいりました」
「……」
「そろそろ、と」
ふ、と柔らかな笑みが、孔明の顔に浮かぶ。
「では、せっかく子龍殿もおいで下さったことですし」
ひら、と軽く動く白羽扇に、趙雲は目を見開く。
「しかし、軍師殿」
「咲いた花は、いつか散るものです。そろそろ頃合でしょう」
今度は、ふわり、と大きく白羽扇がゆらめく。
と、同時に。
ざ、と音をたてたかと思うと。
ふわり、ゆらり。
ひらり、はらり。
片端から、柔らかな花弁が、風に舞って天に消えていく。
はらり、ゆらり。
ひらり、ふわり。
永久に続くかと思われた一面の白も、やがて消え。
後にはもう、誰もいない。


〜fin.
2010.03.31 Above the full blossom cherry trees XVIII

**************************************************

蛇足
この方を招かずには、終われません。


[ 戻 ]