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望頂

思わず、舌打ちが出ていた。
この天水には、もう自分に敵う者はいない。そう確信している。
武術も、策謀も。
だから、蜀軍が寄せると聞いたとき、本心では嬉しかったのだ。
自分よりも、強い者に逢えるかもしれない、と。
寄せ手の中には、長坂破の英雄、趙子龍がいると聞いていた。
老いてなお、その健在ぶりが知られている。槍術の名手でもある。
武術で手合わせするなら、彼だ。
だから、目前に現れたのが彼だとわかったときは、勇躍した。
たしかに凄い。
年齢をまったく感じさせないし、互角以上に渡り合った。
だが、相手は途中で、あっさりと引いてしまったのだ。
どこか、感心した笑みを浮かべて、名を尋ねてから。
勝負がつくまで、相手になってくれるものと思っていたのに。
だいたい、趙子龍に出会ったのだって、知力戦に勝利したからにほかならない。
天下の名軍師と謳われる諸葛亮の作戦を読みきったのだ。
結果、蜀軍は敗走した。
天水城への帰り道。
若手の将の一人である姜維伯約は、猛烈な脱力感に襲われていた。
若手、とはいえ、その実力を買われて副参謀的な役割を担っているのだが。
漢中での戦いで、曹操でさえも敗走させたという男に、自分は勝ったのだ。
これでは、自分に敵う者などいまい。
どこにも、いるはずなどない。
もちろん、勝負は蜀軍が撤退するまで続く。
それがわからない姜維ではない。
でも、緒戦のこの手ごたえはなんだろう?
まるで、覗き込んだかのように、蜀軍の動きはよめてしまったではないか。
明日、さらに寄せるとすれば。
そんなことを思いつつ、姜維はもういちど舌打ちをする。

陣に帰ったなり、趙雲は央幕に呼ばれた。
破れた戦だというのに、央幕の主は珍しく口元に笑みを浮かべている。
いまは蜀の丞相という立場の、諸葛亮孔明だ。こちらも珍しいことだが、人払いがされている。
すっかり有名となった白羽扇を、ゆるやかに動かして腰掛けるようにと示す。
「天水城の蝶に、直接、会ったそうですね」
趙雲が腰掛けるのを待ってから、そう尋ねる。
「ええ、なかなか見事な槍でした」
彼はうけた手ごたえを思い出したのだろう、にこり、と笑う。
孔明は、頷いてみせる。
趙雲の笑みは、言葉で語るよりも相手の実力を如実に語っているから。
「姜維伯約、あの蝶を捕らえましょう」
微笑んだまま、孔明は言い切る。
「できますか?」
疑ってはいない口調で、趙雲は尋ねる。
この尋ね方はむしろ、方法を問うているのだ。
問われた孔明は、笑んだまま頷く。
「蝶は、甘い水に寄ってくるものですから」
「あの青年は、欲しいものがあるのですか」
「おそらく、喉から手が出るほど」
「それが、お会いになられずともおわかりですか」
孔明は白羽扇でゆるく自分をあおってから、首を軽くかしげた。
「子龍殿には、おわかりになりませんでしたか?」
逆に、尋ね返す。
馬鹿にしているわけではない。趙雲にもわかると思うから、問うているのだ。
「…………」
趙雲は黙して、手合わせしたときのことを思い出す。
おもしろい青年だ、と思った。
自分と互角に戦えるだけの技量の将は、久しぶりだったから。
もう少しで、我を忘れてのめりこむところだったが、引き時を考えた。
負ける、とは思わなかったが、全軍としては、押されているのだ。
ただ、名だけは聞いておきたいと、引き際に尋ねたのだ。
相手は自分の名を聞くと、さもありなんという表情を浮かべた。それから、名を名乗った。
いや、その前にどこかで、眉をひそめた……
眉をひそめたあたりに、意味が隠れていそうだ。
姜維がそれをしたのは、そう、自分が槍をひいたとき、だ。
それまでは、じつに生き生きとして見えたのに。
「ああ、もしかして」
思わず声をあげてから、微笑む。
「では、丞相がお相手して差し上げればさぞかし喜びましょうな」
孔明はただ、笑み崩れた。

数日後。
天水城にはいった連絡は、意外なものだった。
蜀軍は、その進路を変えたという。
しかも、向かった先は。
たしかに、守備は薄かった。でも、それは要所ではないからだ。
蜀軍がそこを狙う理由などわからなかった。
ただ、一箇所でも落とされれば痛いのもあるが、なによりもそこは、母のいる城だ。
自分の中にある衝動を知らないわけではない。
そのためには、こんなところでくすぶっているわけには、いかないことも。
ただ、たった一人で育ててくれた母のことだけが気がかりだった。
気丈だが、いかんせん、もう年だ。
何もいわないが、不安になることもあるだろう。
抑えきれない衝動がある。
でも、一人にするのは忍びなかったのだ。
だから、すぐに戻ることの出来る天水に留まり続けた。
今回も、迷いはなかった。
「私が、守りにいきます」
城主は、先日の読みを高く買ってくれているようだ。すぐに決着をつけてくると思ったのだろう。
すぐに頷いた。
緒戦であまりにもあっさりと蜀軍を追いやったから。
彼らは忘れていた。
なぜ、蜀軍がいきなり、要所でない場所に兵を向けたのかを、考えることを。
その、真の意味を。

さらに数日後。
状況は完全に一変していた。
昨日まで味方だと思っていた者たちが、姜維に向かって牙を剥く。
裏切り者、と呼んで牙を剥く。
嵌められたのだ、ということはわかる。
自分が勝ったと思った男が、見事に嵌めたのだ。
状況を打開したいとは思う。
が、あがけばかがくほど、深みにはまっていっているのは、自分がよくわかっている。
なにをされたのかも、ここまでくれば察することができる。
自分が天水城を離れた隙に、影武者がたてられたのだ。
「母を人質に捕られ、やむなく蜀軍に投降した、おまえたちも投降せよ」
天水城に向かい、そう叫んだではないかと、城主は激昂した。
そう聡い城主だとは思っていなかったが、ものの見事に相手の策に嵌ったものらしい。
この状況から抜け出して見せれば、本当に勝ったことになると思う。
だが、あがけばあがくほど。
そう、まるで相手になっていない。
城主たちが聡くないことも、計算にいれなくてはならなかったのだ。
相手は、まるで赤子の手をひねるように、自分の帰る場所を消してしまった。
絶望感と、焦燥感と。
ないまぜになって、何も考えられなくなっていく自分がいる。
蜀軍にも追われ、味方だったはずの魏軍にも追われ。
逃げ込んだ森で、こうして肩で息をついている。
このまま先に進んだら、いったいなにが待っているのか。
負けたくないと思うのに。
負けたのだと思う。
くすり、と笑みが漏れてくる。
追い詰められているのに、笑いがこみ上げてくる理由は、知っている。
待っていたから。
自分を、負かす者を。
ずっと、待っていた。
諸葛孔明は、それをやってのけたのだ。
たった一人、自分を負かした者。
井の中にいるのだと、わかっていた。
でも、それを実感させる者は周囲にはいなかった。
やっと出会った、自分を負かす者。
出会う前は、負けた先にあるのは死だと思っていた。
でもいまは。
死にたくはなかった。
活路をみつけ、生き延びたかった。
自分を負かした者に、直接会うために。
会って、話をしてみたい。
敵に望むことではない、わかっている。
だが、いま、なによりもそれを望んでいる。
母の無事や、そういうことよりも。

同じ、森の中。
ひそやかに、四輪車が止まっている。
それに腰掛ける者は、静かに先を見つめていた。
ゆるやかに白羽扇が動く。
隣には、騎乗の将が一人。
楽しそうに森の先をみつめている。
「そろそろ、ですかな」
「ええ、そろそろでしょう」
「水に、拠るでしょうか?」
「甘い水ですから」
孔明は、にこり、と笑む。
がさり、と草がなった。



数ヶ月後。
一人の青年が、漢中城の執務室に現れた。
「よろしいでしょうか」
要所を失った責めを負い、右将軍に自ら降格したとはいえ、諸葛孔明はいまだ蜀の最高位にいることには変わりない。
執務室に広げているのは、長安に向かう地図だ。
なにも、諦めてはいない。
そして、いまは。
訪れた彼の、師匠でもある。
軍略のすべてを、伝えよう。
それが、彼に、姜維に、翻意を決意させた言葉だった。
自分よりも優れた者。学ぶことばかりだ。これを望んでいた。
もっともっと、自分を伸ばしたい。
先へと、進みたい。
「なにか、ありましたか?」
「はい、母から、これが」
姜維は、手にしていた小袋を取り出し、中身を手にあけた。
出てきたのは、薬草だ。
にこり、と孔明は微笑む。
「当帰ですね」
「はい、返事には、これを返そうと思うのです」
もう一つの小袋から、別の薬草を取り出す。
孔明はそれをみて、ただ、頷いた。
一礼して、姜維が去った後。
入れ替わるように、趙雲が入ってくる。
「だいぶ、なじんだようですね」
「ええ、すっかり」
確信した口調の孔明に、趙雲は軽く首をかしげる。
「魏に残っている母御より、薬が届いたのですよ」
孔明は口元に笑みを浮かべる。
「当帰が」
「当帰……ですか」
「当(マサ)に、帰るべし」
趙雲は、少し眼を見開いた。
「帰って来いと?」
「おそらく、誰かの強制でしょうが……」
「で、姜維は?」
「遠志を返すそうですよ」
趙雲は、ただ、破願した。
その意味は「志は遠くにあり(魏に帰るつもりは、ないです)」だから。


〜fin.〜
2000.12.22 Phantom scape IV 〜Over the Sky〜

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