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煌ク星 落チ逝ク星

誰よりも、尊敬していたから。
少しでも、役に立ちたかった。
笑顔を見せなくなってしまったから。
微笑んで欲しかった。
特別だったから。
特別に、なりたかった。

敵軍の情報を報告させた後。丞相である諸葛亮は静かな視線を馬謖に向ける。
「ここは、どう出るべきと思うか」
馬謖は、考えられるままを答える。
丞相はかすかに頷き、それから指示を出す。
己の考えと、ほぼたがわぬ指示を。
先帝が崩御してから、しばしば見られる光景だ。北伐が始まった最近では、当然のようになりつつある。
丞相の考えと同じことを考えつけるのは、誇りとしてよいだろう。武将たちも感心した顔つきで見つめている。
神の如き深謀。
そう言われている、丞相の策を言い当てることができるのだから。
丞相の教えは、全て自分に与えられた。
だから、他人が思いつかないような丞相の策も、辿ることができる。
考え付くことができる。
自身で、自負している。
いつか、丞相、諸葛亮の後を継ぐ者が必要となったとき。
選ばれるのは自分だ。
他に誰がいるだろう。
自他ともに、認める事実だと信じていた。
丞相さえもそう思っていると。

その双肩に全てを背負って、なにも言わずこなす丞相を誰よりも尊敬していたから。
だから、特別になりたかった。

敵軍の将である彼に、自軍は敗走を余儀なくされた。
彼の名は姜維。字を伯約。戦場で見た姿からして、己より幼いに違いない。
その彼が、丞相を敗走させたのだ。
正直なところ、驚いた。
敗れることもあるだろうが、これほど完膚なきまでとは。
だが、自陣に帰り着いたとき。
丞相は、いままでに見たことの無い笑みを浮かべていた。
先帝が亡くなってこのかた、笑みすらほとんど浮かべたこと無い丞相が、喜んでいると判断できる笑みを浮かべていたのだ。
翌日。
丞相は馬謖に策を尋ねることなく、指示を出した。
彼を味方に引き入れるための策を。
丞相が本気になったのだ。
二度に渡って破った彼も、太刀打ちできなかった。
追い立てた彼を待ち伏せする為に、丞相は趙雲のみを伴って森に伏せた。
ひそかに後をつけた。
趙雲の槍さえも、かわしてみせたという彼。
間違いがないとは限らない。
そんなことにも思い至らぬとは、丞相らしくないと舌打ちをしながら。
弓の届く距離に、馬謖は伏せた。
時は、静かに流れた。
趙雲が、口を開く。軍儀ではきけぬ、楽しげな様子で。
「そろそろですかな」
「ええ、そろそろでしょう」
軽く頷いてみせた丞相も、楽しんでいることがわかる声だった。
「水に、拠るでしょうか」
趙雲を見上げた横顔が見えた。
微笑んでいる。
「甘い水ですから」
なぜか、どき、と心臓がなるのがわかった。
この静かな森の中で、彼方まで響いたのではないかと思うほど、大きな音で。
笑顔が珍しくて、驚いたのだ。
あまり大きく心臓が鳴ったから、ずきり、と痛いのだ。
そう、言い聞かせた。
それと同じくらいな、がさ、という草の鳴る音がして、疲れきった彼が姿を現した。
彼は、どうしてこうなったのかを、もう知っているようだった。
「完敗です」
むしろ、さっぱりとした口調だった。笑みが浮かんでいるのが見えた。
破れたのに、なぜ、彼は笑っているのだろう。
少なくとも、丞相に斬りかかるような殺気は、ない。
穏やかに答える丞相の声が聞こえた。
「ぜひ、あなたが欲しかったので、少々策を弄しました」
「私を……ですか?」
驚いたのは、彼も同じだったらしい。目をまろくして、聞き返した。
丞相は、あっさりと頷いてみせた。
「私の学んだことの全てを伝えられる相手を、探していたのです」
頭を、何かで殴られたような衝撃があった。
丞相の愛弟子なのだと、任じていた。人も、そう言った。
尊敬している丞相から、一番の信頼を得ていると思っていた。
そうではなかった。
彼の顔が、驚きから喜びに変わるのが見えた。
芝居を見ているような気がした。近いのに遠くて。
そして、現実ではない。
彼は、平伏した。我が軍に、降ったのだ。
「よろしく、ご指導くださいませ」
顔を上げた彼の頬は、紅潮していた。
「それがしの槍も、伝授したいものですな」
脇から、趙雲が言った。丞相が、破願した。
「ほう、趙将軍自ら槍を伝授とは」
やがて、ゆっくりと三人が立ち去った後も。
馬謖はその場を動けなかった。
どうしても、動けなかった。
悪い夢が、現実になってしまう気がして。
でも、これは夢ではない。

選ばれた者だと、思っていた。
いや、彼が現れるまでは。
少なくとも、後を継げるのは、己しかいなかった。
選ばれた者になりたい。
その為に生きてきた。
誰よりも尊敬しているのは、ずっと側にいたのは、自分しかいない。
突然現れた彼に、血を吐くような思いで築き上げた場所を取られたくなどない。
だが、このままでは彼が選ばれてしまう。
選ばれたくば、彼よりも上であることを示さねばならない。

いまや、街亭は命運をかける土地となっていた。
この地に迫りくる司馬懿の軍を、返せるかどうか。
一戦に軍が長安へと翔けるか、漢中への撤退を余儀なくされるかがかかっている。
半ば強引に手にした指揮権は、最大の機会。
丞相は、危ぶむがごとく副将をつけ、そして指示を繰り返した。
「街道に陣を張れ」
いままでは、どういう策をとるのか尋ねられる立場であったのに。
噛んで含めるように言い聞かされた。
指示通りで成功を収めても、己の手柄にはならない。
己の策で、勝利をおさめなくては。
馬謖は大きく息を吸い、そして指示を出す。
「山の上に陣を張れ」
驚いた顔つきになったのは、副将の王平だ。
「丞相は街道に陣を張れとおっしゃいました」
わかっている。嫌というほど聞かされたのだから、忘れるわけがない。
だが、丞相の指示よりも成果を大きくすることが必要なのだ。
同じでは、いけない。
「山の上に陣を張り、敵来たらば下る勢いで蹴散らすのだ」
「しかし……」
「あなたは副将だ、私の指示に従えぬと言われるか?」
絶対の自信がある。
そうでなければ、丞相の指示を違えるなどできない。兵法にもあるではないか。
高キニ拠ッテ低キヲ視ルハ勢イスデニ破竹、と。
王平はしばし馬謖をまっすぐに見つめていたが。
低い声で、だがきっぱりと言った。
「大将のご指示には従えませぬ、私は街道に陣を張りまする」

笑ったのは、司馬懿。
少数とはいえ、王平が街道に陣を張っていたからこそ、全滅の憂き目を免れたのだ。
敗走しながら。
馬の背で、冷や水を浴びたように冷静になっていく。
のぼせ上がっていた。
敵は丞相と互角に戦うことのできる男だったのだ。
丞相が、噛んで含めるように言い聞かせたのは、馬謖が大将であることを危ぶんだからではなかった。
相手が司馬懿だったからだ。
誰が大将であっても、例えそれが、彼であろうとも。
丞相は念を入れた指示を出したのだ。
そして、この敗走が引き起こすであろうことにも思い当たる。
己の軍を後押しする為に兵を割いたために、丞相のいる本陣はかなり手薄なはずだ。
司馬懿がこれに、気付かぬはずはあるまい。
大局を見失ったが為に、自軍を絶体絶命の窮地に陥れたのだ。
己の力量を知り、過信しないこと。
それも、能力であることに気付かぬ己の、いかに小さかったことか。愚かであったことか。

誰よりも尊敬しているから。
だから、役に立ちたかったのだ。
喜んでもらいたかった。
最初は、それだけだったのに。
いつの間に、こんなに自惚れていた。
本当に助けになりたいだけなら。
彼と手を携えることだって、出来たはずなのに。

王平の次に、呼ばれた時。
馬謖は、自ら縛して平伏した。
「軍令を破り、多くの将兵を失い、また要地を捨てざるを得なくした大罪、万死に価します」
愚かであった自分が、唯一できること。
すがりつづけた幻想を、利用すること。
人は、丞相が馬謖に目をかけていたと思っている。それを許さずに斬れば、これ以後の軍律は保たれよう。
丞相の声がする。
「他に、申し開くことはないか」
大きくはないのに、澄んでよく通る声。
馬謖は、ただ首を横に振る。いまさら、何を言っても言い訳にしかならない。
丞相が、平伏した自分を見つめているのがわかる。やがて、静かに告げられた。
「死罪を、申し渡す」
馬謖は顔を上げなかった。いま顔を上げたら、笑みが浮かんでるのが見えてしまう。
己の気持ちをわかってくれていることが、ただ、嬉しかった。
それから、あれほど愚かな敗戦を喫した自分をかばう声をあげてくれる人々がいることが。
刑場に向かう為に立ち上がった時。微かに顰められた瞳と、視線があった。
「すまなかった」
聞き間違いでは、あるまい。低く小さな声であったけれど。
ほんの微かに、首を横に振った。
彼が、唇を噛み締めて立ち尽くしていた。

誰よりも、尊敬していた。
助けになりたかった。
片腕にすら、なれなかったけれど。
最後に、少しは役立てただろうか。
願わくば、彼が。
愚かな真似をすることなく、丞相の助けとなるように。
ただ一人で全てを背負った丞相の、役に立てますように。

宵にかかった刑場の空には。
煌くひとつの星。
そして、その脇を。
薄暗い星が、そっと流れていった。


〜fin.〜
2001.04.27 Phantom scape V 〜A coruscant star and A falling star〜

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