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龍の微笑

灯りに照らされた劉備の顔が、どこか疲れている。
それはそうだろう。十万を越す民衆たちを連れての大逃避行がはじまってから、もうずいぶんになる。
援軍を求めに行った関羽も、戻ってこない。
皆の前にいるときこそ毅然としているが、正直、彼も疲れているに違いなかった。
だからといって、必死の思いでついてきている民衆を見捨てようなどとは夢にも思わない。
考えているのは、どうしたら皆が逃げきれるか、だ。
「やはり、もう一人、行ってもらうしかあるまい」
「それしかありますまいが」
行ってもらう、というのは、援軍を求める使者のことだ。
しかし、誰を?と、相談相手である孔明は無言のうちに問いかける。
武装していない民衆の方が多いのだ。守ろうと思ったら、これ以上人員を割くことは難しい。
「孔明、そなたに行ってもらおう」
劉備は、まったくためらいなくそう言った。
表情のないまま、孔明はほんの微かに首をかしげる。
「軍師である私が、ここを離れるわけには……」
「だが、劉埼どのを説得できるのは、孔明しかいないだろう」
有無をいわせない口調で劉備は付け加える。
「これは、命令だ」
主君としての命令だといわれたら、孔明はなにも言えない。
劉備は、まっすぐな瞳でこちらを見ている。
もしかしたら、全滅を覚悟したのかもしれない。
曹操軍の騎馬隊が迫っているという情報が入ったことを報告したのは、つい先ほどだ。
曹操は、劉備軍を殲滅する気でいる。そのことは、劉備自身がいちばんよく知っていることだ。
だから、劉備はまだ参軍したばかりの孔明を、その全滅から救おうとしているのだ。
数でかかってきた曹操軍を火で翻弄したという事実は、もう世間にも知れている。劉備軍でなくとも引く手はあまただ、と劉備は踏んでいるらしい。
それが、純粋な優しさからだと、孔明は知っている。
だが、裏を返せば信頼関係が薄いということに他ならない。
ほろ苦い思いを飲みこみ、それでも冷静な思考回路をしている自分に、少し嫌気を感じつつ口を開く。
「わかりました、すぐに発ちましょう」
劉備軍を、全滅させるわけにはいかない。
側にいて献策することがかなわぬなら、ほかにも方法はある。
返事と同時に立ち上がった孔明に、劉備が戸惑う。
「いますぐにか?真夜中だぞ?」
「援軍を求めるなら早いほうがいいですし、闇にまぎれたほうが敵軍にも見つかりにくくなります」
いま警戒すべきなのは敵軍であって、夜盗ではない。ややあって、頷いた。
「……そうだな、頼む」
「では」
軽く頭を下げる。劉備は、もういちど頷いてみせた。
「ああ、ではな」
きびすを返す。
出来る限り急がなくてはならない。

孔明は、縛り上げられたまま海賊の目前に引き出されていた。
劉備軍を離れたあと、孔明は無事江夏城につき、さらに関羽と劉埼の連合軍を援軍として発することに成功した。
それに同行せず、孔明はここに来たのだ。
軍を発する際、関羽はあからさまに不信そうな表情を浮かべていた。
最初の戦で、軍師としての実力は認められたとはいえ、まだ、そういう目で見られる立場なのだ。
それは、自身がよく知っている。
が、ここへ来ることは、絶対に必要だった。
劉備軍を、全滅させぬ為に。
なんとしても、援軍は間に合わせなくてはならない。
曹操軍を引き返させなければ、危険が去ったことにはならないのだ。
その為には、劉埼の援軍だけでは事足りない。
孔明は、着いたなり不審な侵入者として縛り上げられた。
海賊の頭目が、馬鹿にしきった笑いを浮かべながら言う。
「へぇ?あんた、この俺に援軍を出せっていうのか?」
「ええ」
まったく感情のこもらない声で答える。
頭目は手にしている短刀で孔明の頬を叩きながら、さらに言う。
「俺は、自由気ままな海賊でねぇ?世間さまで誰が死のうが、関係ないんだよ」
孔明は、まっすぐに頭目を見る。
「でも、劉玄徳は違うはずです」
「なに?」
「あなたの兄上は予州を縄張りとした山賊だったそうですね、兄上が劉玄徳にどのような世話になったか、お忘れではありますまい」
表情のない、顔と声。頭目の顔からは笑いが消えた。孔明は、さらに続ける。
「海賊は、信義を重んじると聞いておりますが」
頭目は、じっと孔明を見すえながら低い声で訊ねた。
「てめぇは、玄徳殿のとこのなのか?」
「そうです」
「たしかに兄貴のやつ、世話になるばっかで玄徳殿には恩を仇で返しやがったが……」
視線をハズしては考え込んでいたが、やがて、もう一度笑みを浮かべた。
「たしかに、心苦しくは思ってるぜ?だが、兄貴は兄貴だ、とも言える」
やおら孔明の方に向き直ると、短刀を孔明の首筋に、ぴたり、とあてた。
孔明は、頭目を見つめたままだ。
「知ってるか?ここ斬ると、血が止まらなくなるんだぜ?」
その台詞にも、返事はない。
短刀が、すぅっと通りすぎ、孔明の首筋に薄く赤いものがにじむ。
孔明は、相変わらず無表情だ。
頭目は嬉しそうな笑みを浮かべる。
「へぇ?身動きひとつしなかったのは、褒めてやるよ」
言いながら、なにか思いついたらしい。
「そうさな、もひとつ度胸試しをしようか?それに合格したら、援軍を出してやるよ」
指を鳴らすと、部下が杯をもって走ってきた。
それを手にすると、孔明の目前につきつける。
「なにか、わかるか?」
白い液体が杯を満たしていた。あるもの特有の匂いが、鼻をつく。
「白毒ですね」
ただ、そこにある事実を述べるだけの声だ。が、それを聞いて頭目は笑みを大きくした。
白毒とは、その配合方法が千差万別であり対応の解毒剤を飲まぬ限り、いつかは死に至るという毒薬だ。しかも、遅効性といっていい効き方をする。
死の恐怖をもって脅迫する際などに用いられる毒だ。
「これを飲んだら、玄徳殿に援軍を出そう」
頭目は、笑顔のまま言う。
命乞いをすると、思っているのだ。誰だって、己の命は惜しい。
それがたとえ、主君の命と引き換えになるとしても。
そう、思っているのだ。
「ほら」
杯が傾く。ゆらり、と白い液体が揺れた。
そして。
中の白い液体は、地に落ちずに孔明の口の中に流れ込んだ。
頭目の顔色が変わった。
孔明の口元に、笑みが浮かぶ。
「援軍を出していただけますね?」
微笑んだまま、そう言った。

曹操軍の追手は、もうすぐそこに迫っている。
軍の末尾のほうから、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がってくる。
逃げ惑う民衆たちと、それを斬り捨てこちらに向かってくる曹操軍の騎馬兵たち。
どうあっても、ここから生きては逃がさないつもりらしい。
劉備も雌雄の双剣を抜きはらい、まわりに群がる敵兵たちをかなりの数を切り捨てた。
が、なにせ多勢に無勢だ。
おされはじめているのが、目に見えてわかる。
「兄貴!逃げてくれっ!」
張飛が叫んでいる。
「殿軍は、俺にまかせろ!!」
まかせて、どこに逃げろというのだろう?後ろは長江の支流で、船無くして渡ることは不可能だ。
それでも、どこかに逃げて欲しいのだろう。劉備が生きてさえすれば、またやり直せる。
ばらばらになっても、生きてさえいれば。
そんな考えが、劉備軍の中にはあるのかもしれなかった。
離散するたびに、幾多の苦難を越えてでも集まってきた。
でも、今回はさすがに逃げ場はない。
最後を覚悟するよりほかない、と思う。
敵のどよめきが、大きくなってくるのがわかる。さらに、敵の後続部隊が到着したのだろう。
目前で切りかかってくる敵を切り伏せる。
ここで死ぬのは、間違いないだろう。
やはり、援軍は間に合わなかったようだ。
こうなるであろうことは予測していた。
孔明を援軍の使者に選んだ時に。
だから、まだやり直しがきく彼を遠ざけたのだ。
彼は気付いただろうか?
いや、気付かぬわけはないだろう。自分よりも、幾手の先を読むことができるのだから。
援軍を呼びに行かずに、遠くへと立ち去ったかもしれない。
それで、かまわない。
あの才能を殺してしまうのは、損失だと思う。
本当は、戦などよりも政治に才能があるのだから。
そこまで考えた時だ。
わっというどよめきが、曹操軍の後方から起こっる。
「?!」
思わず、返り血を浴びた顔を上げる。
動揺した声は、敵方のモノだったからだ。
陸上に現れたのは、遠目にも精鋭とわかる騎馬軍団だ。先頭に立つ武将の髭が、風に揺れる。
「関将軍の旗印ですっ!」
が、すぐに味方からも、動揺のどよめきが上がった。
川面の方にも、大船団が現れたのだ。
関羽が陸上にいるということは、船は敵としか考えられぬ。
完全に退路を絶たれた、と思った瞬間。
船から射掛けられた矢は、曹操軍に向かって飛びはじめた。
と、見る間に、またも船団が現れる。そして、劉備たちに手をふって叫ぶ声が届く。
「叔父上、ただいま参りました!」
劉埼の船だ。
「味方だ!」
「船が来たぞぉ!」
周囲から、歓喜の声が上がる。
優勢だったはずの曹操軍が雪崩のように崩れ出したかと思うと、いっせいに引き始めた。
援軍が、間に合ったのだ。

海賊と共に戻った孔明に、出迎えた諸将は驚いたようだ。
相変わらず、表情のないまま孔明は己の隣の人を紹介する。
「我が君に恩があるとのことで、助けてくださいました」
海賊に恩を売った記憶など、ない。戸惑った表情になる諸将たちとは対象に、劉備は深々と頭を下げる。
「お礼申し上げます、このご恩は忘れません」
「礼を言うのは、俺の方だ」
海賊の頭目は、どう説明したものか考えているのか、一度口をつぐむ。が、結局うまい言葉がみつからなかったらしい。
「あんたは覚えてねぇかもしれねぇが、予州で兄貴が世話になった」
その台詞で、関羽が思わず「あ」と声をあげる。
「あの時の……」
「兄貴は結局、仇で返すような真似しちまったから」
劉備もなにのことを言っているのか、思い当たったらしい。だが、ただ微笑んだ。
「なににせよ、あなたに助けられたことには変わりありません、お礼ができればいいのですが」
「よしてくれよ、借り返しただけなんだから」
そう言ってから、少し首をかしげる。
「じゃ、俺たち流儀で、挨拶させてもらってもいいかな」
「もちろん」
頭目は、劉備の方に歩み寄ったかと思うと、肩をぽんっと叩いてみせる。
そっちに諸将が気を取られている間に、反対の手に小さな袱紗を掴ませた。
「……?」
「白毒の解毒剤だ」
目で問い掛ける劉備に、ぼそ、と告げる。さすがにはっきりと諸将に聞かれるのはまずいとわかっているのだろう。
頭目はちら、と孔明の方を見る。
「どうしても、あんたが大丈夫とわかるまでは飲まないってきかなくてよ」
劉備は、ただ頷いた。どういうことなのか、察しをつけたのだろう。
「あんたのとこの軍師は、たいしたタマだ」
諸将にも聞こえる声でそう告げてから、頭目は部下を引き連れて去っていった。
それを見送ってから。
劉備は、全員を見回す。
「皆、よく戦ってくれた」
覚悟はしていたが、あまりにも犠牲の多い逃避行だった。一騎当千と称される武将たちにもさすがに疲労の色がみえる。
「次をどうするか考えなくてはならぬが、その前に一刻ほど休息としよう」
それから、孔明に向き直る。
「孔明、すまぬが先に相談したいことがある」
言い終えると劉備は身を翻して、船室へと入っていってしまう。
諸将の末尾に控えていた孔明も、静かな足取りで後へと続いた。
この圧倒的情勢から抜け出すには、知恵が必要なことは諸将もわかっている。
軍師である孔明に先に相談するのは、当然のことだろう。
「でも、戻ってくるとは思わなかったなぁ」
ぽつりと呟いた孫乾の言葉を、張飛が聞きとがめる。
「どういう意味だよ?」
「殿が孔明殿を援軍要請の使者にしたのは、我が軍の全滅に巻き込まれないようにするためだったから」
趙雲の言葉に、関羽も頷いた。
「援軍出陣の時、一人別行動というから、それがしもてっきり……」
諸将が劉備の意図を察することが出来るくらいだから、孔明が察せられないはずはあるまい。
だから、孫乾は首を傾げたのだ。
休んで言いといわれているのだし、疲れも感じている。が、諸将はなんとなく、その場を去れずに船室の方を見つめた。

船室に入ってすぐに。
劉備は、頭目に手渡された袱紗を開く。絹に包まれた粉末薬が出てくる。
それを、孔明に差し出す。
「もう、いいだろう?」
「夏口に入るまでは、終わっておりませぬ」
まったくいつもと変わらぬ口調に、劉備は困って眉をよせる。
「だが、その先がある」
孔明は、視線をこころなしか下へ落としたままだ。
「先を共にするに価すると思っていただけるならば、謀りますが」
いつもよりも、少し歯切れの悪い口調だ。
「頼りとしたいと思ったからこそ、三度庵を訪ねたのだ、価しないなどとは……」
言いかかって、己がなにを命じたのかを思い出す。
口をつぐむ。
沈黙が、訪れる。
しばしして、劉備は困った表情を真剣なものへと変えて、孔明をまっすぐに見る。
「孔明、俺は最初から頼りにしているよ、だが、自信が持てなかったのは事実だ……忠節をつくしてもらえるのかどうか」
孔明は、静かな視線を上げる。
「命を賭してくれたこと、どんな言葉でも礼は言い尽くせない」
表情は変わらぬまま、孔明の視線はまた少し、下へと落ちた。
劉備は、続ける。
「これから先も、共に謀って欲しい」
「…………」
なにか答えかかった孔明の額から、つ、と汗がつたった。と同時に、ふらり、とよろめく。
「孔明?!」
慌てて腕を掴んで、ぎくりとする。ひどく熱い。
かなり熱がある。白毒のせいであることは、考えずともわかる。先ほどから視線が落ちていたのも、口調が歯切れ悪かったのも熱のせいだったのだ。
「申し訳ありません」
「謝ることなどない、こんなに熱が出るまで無理してたとは」
「無理などは、しておりません」
少々息苦しそうな声が告げる。
「必要と思っただけです」
劉備は、心配そうな表情を、もう一度、真剣なものへと変える。
「孔明、興る時も敗れ消える時も共にあろう、もう二度とあのような命は出さぬと誓う」
「……薬を、いただけますか?」
劉備は頷いて、かろうじて差し出されている手に水を注いだ杯と薬を手渡してやる。
それを飲み干した孔明は、ゆっくりと顔を上げた。
「敗れ消えることなどないよう、私が謀ります」
笑みが、浮かぶ。いままで見せたことなどない、穏やかな笑みだ。
「これからも、ずっと」


〜fin.〜
2001.12.01 Phantom scape VIII 〜Dragon's smile〜

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