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天翔ケル風 地濡ラス雨

天水近くの、森の中。
出会ったのは、己を負かした者。
我知らず、笑顔が浮かぶ。
彼を見た途端、改めて感じた。完敗だ、と。
素直に、口からそう出た。
「完敗です」
すると、相手は穏やかに微笑んだ。彼の隣に侍する武将も、先日の戦で槍を交わした時とはうって変わって穏やかだ。
「ぜひ、あなたが欲しかったので、少々策を弄しました」
「私を……ですか?」
思わず、問い返す。
この数日、仕えていた天水城の城主たちをも巻き込んだ混乱は、ただ、その一事の為だったというのか?
しかも、得たいのは自分だと言う。
我が耳を疑っても、間違いではないだろう。
彼は、あっさりと頷いた。
「私の学んだことの全てを伝えられる相手を、探していたのです」
まじまじと、見詰め返す。
敗れた、と悟った時。
己を負かした者に会いたい、と望んだ。
捕虜となり、斬られる前に一度でいいから。話をしてみたいと望んだ。
それさえも、大それた望みだと思っていたのに。
彼は、自分を欲しいという。
彼の学んだ全てを、伝えたいという。
これ以上、何を望めと言うのだろう?
抑えきれぬ笑みが溢れてくるのがわかる。
ずっと、望んでいたこと。
井の中の蛙ではなく、天駆けるモノになりたい。
叶えられる機会が、まさか、訪れるとは。
ただ、平伏した。
「よろしく、ご指導くださいませ」
顔を上げると、傍らに控える趙雲が微笑んだ。
「それがしの槍も、伝授したいものですな」
聞いた彼、蜀の丞相である諸葛亮は、破願した。
「ほう、子龍殿自ら槍を伝授とは」
躰が、熱くなるのを感じる。
槍も、認められたのだ。
「よろしくご教授ください」
再度、頭を下げる。
「では、参ろうか」
動き出した四輪車について、歩き出す。
諸葛亮の背後に潜んでいた弓の気配は、結局は全く、身動きすらしなかった。
去る寸前、姜維は、一度だけ振り返る。

諸葛亮と趙雲が蜀の一将として扱うので、すぐに緒将もそう扱ってくれるようになる。
が、降将であるという事実が、消えるわけではない。
対処方法は、ヒトツだけだ。
穏便に、辞を低うすること。
「某、丞相を師と仰ぎ学んでいく所存。皆様もなにかとご指導下さいませ」
そう言われて、悪い気がする者はいない。
親切心を起こしたのか、誰かがこう教えてくれた。
「丞相も、あなたの才を愛でているようですが……荊州攻略時からお側にいる馬謖、字を幼常という者がおり、自他共に認める一番弟子です、お気をつけなさい」
何が言いたいのか、わからぬわけはない。
「ありがとうございます」
頭を下げることだけは、忘れない。
お節介にも近いことを教えた者が去った後。姜維は、ただ微笑む。
先、とか、後、の問題ではない。
ましてや、自認しているというのは全く関係ないことだ。周囲の認識も、同じこと。
いまや師となった、諸葛亮の望むだけの才が己にあるかどうか。
ただ、それだけだ。
馬謖という男が自分以上であるならば、潔く兜を脱ぐだけだ。
だが、もし。
明らかに己以下であるならば。
その時は、彼自身が、自らの手で落ちていくだけ。
最終的に、後を継げる者は一人だけなのだから。
認められていないならば。
これから、認められればよいだけだ。

馬謖と初めて顔を合わせたのは、軍議の席だった。
己よりは年長だが、蜀軍の中では若手の部類だ。
相対する席に座を占めた彼は、その切れ長の瞳でちら、とこちらを見たようだ。
姜維は、ただ丞相、諸葛亮が口を開くのを待つ。
ゆるやかに手にした白羽扇を持ち直してから、静かに告げる。
「では、天水攻略についての軍議をいたす」
それから、その視線を姜維の相対する席に座した馬謖へと向ける。
「幼常、天水城を落とす策はあるか?」
それが、蜀軍軍議の最近の慣わしなのだということも、誰かが教えてくれた。
意見を述べる機会さえあれば問題は無い。
姜維は、静かに馬謖の口元を見詰める。
彼は、いかな作戦を思いつくのだろうか?
同じく丞相を師と仰ぐ者として、最初の見極めとなるのだ。
少し頬を紅潮させた馬謖は、はっきりとした口調で答えてみせる。
「先日までの撹乱策で、城内の戦意は喪失しているに違いありません。いまや城内に良策を立てる将もおらず、全軍攻めかかればほどなくして落ちましょう」
「ふむ、一理ある」
諸葛亮は頷いてみせる。
なるほど、確かにそうだ。
己がいなくなった天水城に、丞相の策を避けるだけの頭脳の持ち主はいない。それに、馬謖の言う通り、戦意も喪失しているだろう。
正攻法であり、間違いではない。
だが、些少とはいえ、犠牲は否めまい。
姜維が蜀の味方となったことを考慮に入れているようで入ってはいない。
真にそれを利用するならば。
上策が、ある。
そんなことを考えていると、諸葛亮の視線が、今度は姜維へと向けられる。
「伯約、そちはどうか」
問われた姜維は、にこり、と笑む。
「一本の矢があれば、事足りましょう」
諸葛亮は、笑んだ。
「では、この矢を与えよう」
傍らにあったそれを、手ずから与える。
姜維は拝命して受け取ると、一筆したためて天水城へと放つ。
矢文だ。
内容は、天水にいるころ友として親交を結んでいた尹賞と梁緒に宛てたもの。
拾うのは、誰でも構わないのだ。
その効果は間違いなく、ヒトツだから。
そして、案の定、城主馬遵と夏候楙はまんまと矢文を信じて尹賞と梁緒を殺めようとし、身の危険を感じた二人は姜維に呼応して城門を開け放った。
蜀軍は犠牲を払うことなく、天水城を手中にしたのだ。
尹賞と梁緒を、手厚く向かえた後。
諸葛亮は、姜維に向かい、破顔する。
「見事であった」
言われた瞬間。
相対する位置に立っていた、彼が。
馬謖が、凄まじい目付きとなったのを、見逃さない。
ほんの、一瞬ではあったけれど。
そして、蜀軍に降ったあの日。
弓を持って潜んでいたのが、誰であったのかを悟る。
それゆえ、彼は微笑んだ。
愚かなことだからだ。
己にない才能に嫉妬している暇があるのならば。
己にしか出来ぬことを、やってのけた方が、ずっとよいのに。
彼は、それに気付かない。
それに気付かぬ限り。
自分の、相手ではない。

そして、馬謖は。
己を見失ったまま、最大の要害であった街亭を失う。
なんということを。
思わず呟く。
師として仰ぐと決めたならば。
なぜ、その言葉に従わなかったのか。
あの地で山に陣張ることが、いかに愚かであるかに、何故気付かなかったのだろう?
しかし、自ら縄打って戻った馬謖の表情は。
いままでに、見たことの無い、もの。
まっすぐに前を見据えて、全てを覚悟し、そして。
いまは、たったヒトツ、己が何が出来るのかを知り、それをやり遂げようとしている。
丞相は。
彼の望み通り、死罪を告げる。
刑場へと向かう彼と、視線があったのは、一瞬。
だが、それで充分だった。
自分は、愚かな真似はしまい。
ただ、丞相の助けとなるよう、働こう。
彼も、微かな笑みを浮かべて。
そして、その後姿は、見えなくなった。


〜fin.〜
2002.04.23 Phantom scape XI 〜latitudinous wind and bound rain〜

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