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霧の中

対峙した男は、にやり、と口の端に笑みを浮かべる。
親兄弟の仇と呼ばれたことが堪えた様子はない。
「自分のしたことを棚に上げて、面白いことを言う」
こころなしか、笑みは大きくなったようだ。
「馬孟起よ、そなたの親兄弟は、そなたの反逆ゆえに処刑されたのだぞ」
対峙している男の名は、曹操孟徳。
言っていることは、間違いなく彼が正しい。自分が蜂起したから、都にいた父も兄弟も処刑されたのだから。
普通に考えれば、それと知っていて蜂起した自分に非があるのだ。
親の仇と呼ばれる覚えはない、と曹操が言ったとて、それは正しいのだ。
だが、やはり、馬超にとって曹操は仇だ。
父にとって討つべき敵であったのだから。だから、子である自分にとっても曹操は討つべき敵だ。
しかし、辺境にある自分たちの兵力は、曹操とは差がありすぎる。精強といわれる騎馬軍団で編成されているとはいっても、だ。
それに、相手は天子を奉じている。
献帝の意思はともかくとして、官軍であるのは、常に曹操なのだ。
それでも、父は曹操を討つことを望んだ。もう何年前になるのかはともかく、献帝がひそかにつかわした勅があるからだ。
そこには、はっきりと書かれている。
『曹操を討て』と。
この勅を奉じたばかりの頃、謀られた暗殺計画は事前に漏れたのだという。網から逃げおおせたのは、父ともう一人、劉備玄徳だけだったと。
常に曹操の攻撃にさらされ、敗走を続けつつも、諦めず完璧に潰されずいた劉備は、とうとう荊州を手に入れた。地盤を得た彼の力は、急速に伸びつつある。
それを知った父は、急に思い出したかのように勅のことを言い出したのだ。
どうあっても、曹操は討たねばならない、と。
劉備が力をつけた今こそが、絶好の機会だ、と。
だが、暗殺は無理だ。
奸智では、曹操には勝てない。
だとすれば、兵を上げるしかない。しかも、奇襲しかない。
そう、父は言い切る。
理論はわかる。だが、涼州から攻め上れば、間違いなく兵が都に達する前に知らせが届くに決まっている。
あの曹操が、万全の備えをしていないわけがない。その上、常に、こちらの動きには目を光らせているはずだ。
首を傾げる自分に、父は顔を寄せる。
「絶対に兵を挙げるわけがない、と曹操が信じきっているときに、兵を挙げるのだ」
こちらを覗き込む瞳に浮かんだ、半ば狂気をはらむ色に、背筋がぞくり、とする。
「いつ、ですか?」
「儂が都に上っている時、だ」
「な……?!」
なにを馬鹿なことを、と言いかかった自分の言葉は、父に遮られる。
「老い先短い儂だけでは、曹操も警戒をとくまいから、馬鉄と馬休もつれて行く」
「父上、正気で仰っておられるのですか?」
かろうじて、口を挟む。
「確かに曹操は涼州に対する警戒を弱めるかもしれませぬが、そんなことをすれば父上や弟たちは……」
「知らせが届くとすぐに、この首刎ねられような」
「そのようなこと、出来ようはずがございません!」
父が、必死の思いで天子の意思を叶えるべく考えたのはわかる。
だが、そこまでの犠牲をしてまでの、ことなのか。
「出来る出来ないではない、やるのだ」
馬騰は、ぎょろりとした視線を、改めてこちらに向ける。
「これは、馬家当主の命だ」
逆らうことは許さぬ、という意味。
「馬岱と韓遂を残す、きっとやり遂げよ」
「……承知いたしました」
承知しなければ、父がなにをするかわからないと思った。
だから、頷いた。
もちろん、すぐに父と兄弟を救う為の手もうった。そこまでは、愚かではない。
絶対に、あってはならないことだ。
たとえ敵を討つ為であっても、家族を犠牲にするなどとは。
万全の手を打ち、そして、挙兵した。
兵を都へと進めるうち、父と弟たちもこちらに戻るはずだったのだ。
だが、戻らなかった。
己のまわした手が、後手だったのではない。
父は、その手を拒否したのだ。
「無用だ」
ただ、その一言のもとに。
翌日には、曹操の手が回ると知っていながら。縛につくことを選んだのだ。
そして、首をうたれた。
もう、いない。
誰よりも尊敬していた父も、可愛がっていた弟たちも。
いま、兵を率いて軍頭に立つ己を支配していたのは、悲しみでも憎しみでも怒りでもなかった。
なぜ、そこまでして父は曹操という男を討ちたかったのか。
どうして、自分の人生の退路をも絶たねばならなかったのか。
そして今、目前に、その曹操が立っている。
馬上から、はっきりとこちらを見据えている。口元に、冷たい笑みを浮かべて。
「馬家の当主は、みな愚かと見ゆるな」
「なに?!」
曹操の言葉に、きっとした視線を向ける。自分はともかく、父を馬鹿にされるのは許せない。
が、その気迫を込めた視線さえ、曹操はなにも感じぬらしい。
「愚かではないか、天も地も見えぬのだから」
ざわり、とする。
曹操という男そのものを取り巻く気が、見えた気がした。
逆巻く焔のようなそれ。
何者も、恐れない。
天をも、恐れない。
これを、父も見たのだ。
そして、何があろうと討たねばならぬと心に決めたのだ。
なぜなら、彼は天に逆らう男だから。
そんな男を、生かしておいてはならぬと決めた。だから、命を賭しても滅ぼそうとしたのだ。
父の望みがそれならば。
そのために、犠牲になった全ての者の為に。
自分は、曹操を滅ぼさねばならない。
何を思ったのか、察しをつけたらしい。
「戦いたいと言うのなら、相手はしてやろう」
曹操の口元の笑みが、大きくなる。
「何を犠牲にして、何を求めるのかよく考えるのだな」
焔がざわりとうごめいた気がした。
あの焔を消し去るか、喰われるか。
戦はまだ、始まったばかり。


〜fin.〜
2002.07.02 Phantom scape XII 〜In the dark〜

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