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双頭の雷龍

突然の突風に、巻き上げられた何かが逆巻きながら天へと消える。
あまりに大きなそれを、誰もが呆然と見上げる間に、雨。
それは、すぐに大粒となり、人を地を濡らし始める。
「にわか雨なら、すぐにも止むだろう。ここで雨宿りだ」
梅林にたわわの実りで美しいんだ、と劉備を誘い出した曹操は、屈託も邪気も無い笑顔を向ける。
確かに、葉の濃い緑と、ふっくらと淡く色付く果実と、それを濡らし落ちていく透明な滴との対比は、美しいと賞賛するに値する、と劉備も思う。
曹操は、この光景を心から愛でているのだ、とも。
門に出迎えて口にした通り、劉備と杯を交わすことだけを楽しみにしていることも、嘘偽り無い。
器の大きな男だ。
どうやって目を凝らしてみても、真の大きさが読めぬほどに。
ありきたりの言葉で表現するのなら、英雄だ。
まさに、天が好みそうな。
いや、そうではない。
劉備の目からしても、この男は天下を治めることの出来る器だ。
今の権力は、ほぼ実力をもってして得てきたものと言いきれる。
だが、諦めるわけにはいかなかった。
民を喰らい、叩き潰してなんとも思わぬ天の自由を、許すわけにはいかないから。
例え、曹操が天下をその手に得たとしても、天はすぐに覆すだろう。
どんな汚い手を用いてでも。
所詮、天下の英雄も天にとっては玩具に過ぎない。今の天は、地が血で染まり続けることを望んでいるのだから。
それを知っているのが自分一人である限り、誰の邪魔と思われても、死ぬつもりは無い。
今日とて、なにか怪しい動きさえあれば、返り討ちにする覚悟で劉備はここにいる。
ふふ、とどこか楽しそうな声に、我に返る。
満面の笑みの曹操と、視線が合う。
「天を刺しそうな顔だ」
考えに気を取られ、天を睨みつけるような視線になっていたらしい。
気をつけねば、と心に言い聞かせつつ、照れ笑いを顔に乗せる。
「いや、そのような」
それを聞き流して、曹操は軽く首を傾げてみせる。
「玄徳殿は、龍とはどのようなものだと思う?」
「龍、ですか?」
唐突にまた、何を言い出したかと劉備が目を瞬かせるのへと、曹操は深く頷いてみせる。
「そうだ、雨の前に舞い上がった風の流れを、龍だと騒ぐ者がいた。なるほど、天に立ち上る様がそう見えぬことも無いし、そうでないと言い切ることも出来ない」
言いながら、曹操は、そろそろ止もうかという空を仰ぐ。
「龍とは、天駆けるときは宇宙をも飛揚するが、潜むときには淵に隠れてさざ波一つすら立てないという」
なるほど、先ほどの大風は不可思議な動きをしていた。
それを龍に見立てたのを否定しないのは、曹操らしい、と言えるかもしれない。毒にも薬にもならぬ話題と判断して、劉備は笑みと共に返す。
「話にはよく聞きますが、私はまだ、この目で龍と確信できるものを見たことがありません」
「そうか?」
曹操は、納得していない表情になる。
「俺は、見ているが」
「そうなのですか?どのようなものですか?」
何を龍と言い出すのか、素直に不思議に思って劉備が問うと、に、と曹操は笑う。
「幻の獣などではなくて、人だ。人こそが龍と思うが、どうだ?」
「なるほど、一理ありますね」
英雄と称される人間を龍と呼ぶというのは相応しかろうし、曹操らしいとも思う。
劉備が頷いたのを見てから、曹操は雨の止んだ庭へと歩き出す。
「玄徳殿は、ほうぼうを旅しているから、様々な御仁をご覧になっておられるはず。玄徳殿から見た当世の英雄とは、誰と思う?」
「いや、お恥ずかしいことに、私は凡眼の身。そのような評は下せません」
まさか目前の貴方と言う訳にもいかず、劉備は困り顔で手を振る。
「ほう?なら世評でもいいから、挙げてみてくれ」
食い下がられて、困惑気味に首を傾げつつ、劉備は答える。
「では、淮南の袁術はどうでしょうか?その地は肥沃で、兵も兵糧も充分あるかと思いますが」
「あれは地の下の白骨だよ、遠からず、俺が生け捕りにしてみせよう」
「となれば、河北の袁紹はどうでしょう?」
はは、と曹操は軽く笑う。
「あれも大局と小利の差が見えない男だ。決断力も無い。話にならんな」
「近頃、その勢いすさまじいと言われる孫策は」
「親の七光りをかさにきているだけの黄嘴児、語るに足る相手で無い」
語るに足りぬとは、と問い返したい気持ちになったが、劉備はかろうじて抑える。
まっすぐに天下を目指していると思うのに、時折、首を傾げたくなるようなことを言う。
もしや、貴方もそうなのでは、と。
天の所業に気付き、許せぬと思っているのではないか、と。
まさか、と内心で首を横に降る。
表向きは首を傾げたまま、さらに名を上げる。
劉表を、劉璋を。
だが、そのことごとくを曹操は否定してしまう。
「劉表は、かつての名声のみ、劉璋はただの番犬」
聞いている者が小気味よく感じるほど、即座かつ明快に。
いつの間にか、曹操の話に釣り込まれていたらしい。
小亭が目前にある。
「今日は、ここで一献傾けようと思ってな。梅林が一望出来る、いい場所だろう?」
「ええ、確かに」
笑みを返すと、曹操は席へと招じる。
すぐに運ばれてきた酒を、劉備の杯へと注ぎながら、曹操は更に尋ねる。
「他にはいないか?英雄といえる人物は?」
「そうですね……張繍、張魯、韓遂などは?」
返しつつ、杯を乾すと、もう次が注がれる。
「だめ、だめ、そんなのは小人でしかない。他には?」
劉備は、質問にも、矢継ぎ早にさされる酒にも、困惑して首を傾げる。
「さて、更には思いつきませんが」
自分の杯を乾し、手酌で満たしてから、曹操は劉備へと向き直る。
「英雄とは、大志を心に抱き、良計を腹に蔵して、期を見るに敏、民の声に聡く、そして」
一つ、大きく息を吸う。
「何者であろうと、悪戯に怯えを持たない者だ」
まっすぐに劉備へと視線を投げながら、言い切る。
一瞬、心臓が跳ねる。
何者とは?
曹操が言う、何者とはどこまでを指すのか、と問いたいのをかろうじて押さえ込む。
酒を持て余すように乾し、困惑の顔つきのまま、劉備は尋ね返す。
「確かに、その通りと思いますが。……そのような人物がおりますか?」
「いるぞ、二人」
「二人?」
「そうだ」
はっきりと頷いてから、曹操は指を、劉備の鼻先へとつきつける。
それから、その指を己の鼻先へと返す。
「玄徳殿と、この俺だ」
びくり、とする。
飲み込まれてはいけない。同じ事を思う人間が、そうそういる訳が無い。
となれば、天下を狙う人間に警戒されることは、致命的だ。だから、そうなるまいと、それだけを心に過ごしてきたというのに。
どう応えるべきか惑った、その時。
かっ、とあたりが白く染まる。
色を失うほどの光は雷、と気付くと同時に、地を割くかというほどの轟音。
地を揺さぶるか、という音の中で、曹操が告げる。
「互いに、天に逆らって戦う者だ」
劉備は、取り落としそうになった杯を、かろうじて掴みなおす。
瞠目して、曹操を見つめる。
曹操は、睨みつけるように劉備を見つめている。
彼は、賭けたのだ。
同じことを志す者ではないかと、問うたのだ。
違えば、己が危うくなるかもしれないのに。
まさか。
「孟徳殿も」
再び、白い光。そして、轟音。
「天の所業が、許せぬと?」
「ああ、許せんな」
耳をつんざくような音の中、奇妙に通る声が返る。
先ほどの雨と同じで、にわかなものだったらしい。すぐに、空の雲は割れていく。
が、劉備は、まだ半ば呆然とした顔つきで曹操を見つめたままだ。
己と同じく、天へ逆らう者があろうとは、にわかには信じ難い。
だが、心によほど強く思っていなければ、そう簡単には口に出来ることでもない。まして、相手もそうだと断じる事など。
相変わらず、ますぐに劉備を見つめたまま、曹操は、に、と笑う。
「俺も、いまさっきまでは確信出来ていなかったんだがな」
「いまさっきまで?」
「そうだ、玄徳殿が、空を睨めつける視線を見るまでは」
言いながら、また杯を勧めてくる。
「ずっと腹立たしかった。天の勝手で人が苦しみ、悶えねばならぬ世界など」
大人しく杯を受けながら、劉備は曹操の語るにまかせることにする。
「最初は、この手で天下を掴めばそれでいいかと思ったが、すぐにそれは破られると気付いた。真に天に逆らおうと思ったら、戦絶やさずに天を引っ掻き回してやらねば」
初めて、曹操の言葉に、心底からの同意の頷きを返す。
誰かの意見に、こうして同意することなど、もしかしたら初めてのことかもしれない。
己の言葉に素直に頷く者は数あれど、誰かの言葉がこれほど素直に己の心と同じであったことはなかったから。
「だが、これを語ることが出来る者がどこにもいなかった。今日、玄徳殿とこうして会うまでは」
「私も……やっと雲が晴れた心持ちです。私も、ずっと探しておりました、己と同じことを想う者を、願う者を」
そこまで言って、劉備は軽く首を横に振る。
「いや、してのけるだけの、意気がある者を」
それから、にこり、と笑う。
「では、お許しいただけますね?」
「無論だ」
曹操の笑みが、邪気の無いものへと変化する。
「機を選ばねばならないが……近いうちに、造反してもらう」
「心得ております」
また、曹操は杯を掲げる。
「乾杯をしよう、本当の乾杯を」
劉備も、素直に杯を上げる。
澄んだ音が、辺りに響く。
天に牙剥く龍が二人。
杯を開けて、笑いあう。


〜fin.〜
2003.03.02 2010.05.12rw. Phantom scape XIII 〜double-headed thunderstorm dragon〜

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