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最後の約束

久しぶりに顔を合わせた、主君は。
見る影もないほどに痩せこけていて、一国を立ち上げた男らしく落ち着いている。
にこり、と微笑む笑顔も、麦城落城の方からこの方見せたことのない、懐かしさを感じさせるほどの明るさで。
だからこそ、ぞっとした。
戸口に立ち尽くしたままでいる孔明を目にした劉備は、人払いをする。
静寂が訪れて。
先に口を開いたのは、劉備の方だった。
「知っていたね?」
それは、問いかけるというよりは、確認だ。
かろうじて平静を装って、孔明は尋ね返す。
「なにをです?」
「俺の寿命を、だよ」
『皇帝』となるその日まで、止めることの無かった磊落な口調で言い、劉備は微笑む。
「孔明、こちらへおいで」
手招かれる。
昔の彼なら。
問いたいことがあるならば、相手の瞳を覗き込みたいならば、自ら大股に近付いてきたろうけれど。
いまは、それは出来ないから。
孔明は、どこか躊躇いがちな歩調で、劉備の枕頭へと歩み寄る。
まっすぐな視線で、彼は彼の瞳を覗く。
「正直に答えてご覧。知っていたろう?俺の寿命を」
「…………」
どうしても、頷くことが出来ずに。
ただ、劉備の瞳を見つめ返す。
星の示す天意を、誰よりも正確に読み解くことが出来る。
人はそれを羨むが、けしてそれが幸せなことではないと、劉備は知っている。
ふ、と劉備が微笑む。
「すまない、答えにくい質問をしたな」
そっと、頬に手が触れる。
かつて、天に反感を抱くことしか出来ずにいる自分を、反逆して見せようぞと引き出した手は。
見る影も無く、痩せ衰えている。
「孔明のおかげで、ここまで来ることが出来た。感謝してるよ」
ただ、首を横に振る。
口を開けば、自分が何を言うかわからなかった。感情を抑えているのがやっとのことで。
天意など、知らない。
知りたくもない。
いままで何度でも、天意を裏切ってきた。
なのに、今度は。
それが出来なかった。
ずっと、兄弟として共に歩んできた関羽張飛の仇を討つという劉備を、止めることが出来なかった。
悪意ある天意で無く。
それが、真実、与えられた寿命なのだと、天が告げたから。
だから、思いのままに。
国を背負うなら、それはしてはならぬこと。
痛いほどに知りながら、それが出来なかった。
敗北が、主君をこれほどまでに苦しませると、知っていたはずなのに。
それでも、兄弟たちを思って患うくらいなら、と思ったのだ。
一国の民を背負う立場にある自分が。
たった一人の人間の感情が、満足すればそれでいいと、そう思った。
それは、主君が望んだことではない。
知りすぎるほど、知っているのに。
眼を見開いたまま、ただ、見つめ続ける孔明の頬を、もう一度、劉備は優しくなでてやる。
「孔明、ありがとう。おかげで、俺は俺らしく生き抜くことが出来たよ」
自分の瞳が揺れるのを感じて、慌てて孔明は視線を逸らせる。
微かに、首が横に振られる。
「ただな、孔明……ただヒトツだけ、悔やまれることがある」
「なにをです?」
驚いたようにこちらに視線を戻す孔明に、劉備の微笑みは大きくなる。
「たった一人、孔明を残すことになることだよ……天に刃向かうとはっきりと決めたのを知るのは俺とお前しかいないのに」
今度は、孔明の顔に微かな笑みが浮かぶ。
「大丈夫でございます。必ず、してのけましょう」
「だから、心配なんじゃないか」
また、手が頬に触れる。
「相手にも、悟る者がいるといいが……だが、きっとしてのけようとするのだろうね、なにがあろうと、俺たちがしようとしたことを、最後まで」
ただ、柔らかな笑みが孔明の顔に浮かぶ。
「ええ、止めても無駄です」
くすり、と劉備は笑う。
「強情だな、人のことは言えないけれど」
それから、真顔へと戻る。
「でもね、やはり心配なんだよ。たった一人残すのが。お前は、本当に一人、身を細らせるだろうから」
なんと返事を返していいかわからず、孔明は笑みを消して、劉備を見つめる。
にこり、と劉備は微笑む。
「だから、約束をしよう」
「約束、ですか?」
「最後の日にはね、俺が迎えに来るよ」
孔明は、首を微かに傾げる。
「それは、私の最後の日、という意味ですか?」
「そうだ、お前が一人にならぬように」
頬に触れていた手が、枕頭にあった手にそっと重ねられる。
「いいか?自分の信じるままに歩んでいい。だけど、一人ではないんだよ?」
静かに言葉が重ねられる。
「いつも、俺が側にいると忘れてはいけないよ?必ず、迎えに来るからな」
ふ、と笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。忘れますまい」
静かに、主君の手を掛け物の下へと納める。
「我が君、しばしお休み下さい」
陛下、ではなく、そう呼びたくて呼んだ。劉備も、ただ、微笑む。
「我が君、私は我が君にお仕えすることが出来て、幸せです」
ゆるやかに、劉備が微笑む。
「ありがとう、孔明……」
静かに、瞼が閉じる。
眠りに落ちたのだろう。
孔明は立ち上がると、静かに室外へと出る。
いつの間にか、外は雨が降り出している。
誘われるように、欄干へと歩み寄る。
つ、と冷たい雫以外のものが、自分の頬を流れるのを感じる。
必死で、声を抑える。
わかっていた。
わかっている。
なにをしようが、どうあがこうが、止められないものがあると。
この城で、劉備は命を終える。
わかっているのに、それなのに。
止めたい、と思っている自分がいる。
それから、一人にするまい、という言葉にほっとしている自分がいる。
止められぬ感情の波が、とめどなく頬を伝う。
きっと、これが最後だと知っている。
自分の感情を揺らすのは、一人しかいないから。
だから、彼のために生きよう。
それが、正しかろうと、正しくなかろうと。
己が望んだことで、彼が望んでくれるなら。
彼が、また、自分の元を訪れるその日まで。


〜fin.〜
2003.03.16 Phantom scape XIV 〜A last promise〜

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