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秋の風

天幕を覗いた姜維の目が、見開かれる。
そこに臥しているはずの人の姿が無い。
身に染みるような風が吹いているというのに。
どうやら、上着を着ることさえせずに、外へと出たらしい。
きちんとたたまれたまま、置いてあるのを手にして、姜維は外へと急ぎ足に出る。
慌てた様子を見せれば、周囲が動揺する。だから、走り回るわけにはいかない。
だが、この寒空の下に歩み出てしまった人のことは、心配だ。
病が篤い、という状態になってから、幾日が過ぎたろう?
日に日に痩せていくばかりなのを、もう、どうすることも出来ぬのだと、誰もが覚っている。
先日、成都からの使者も訪れた。
それを機会に、天幕の主は己の命が消えた後のことを、全て伝え終えている。
あと、何日もつのか。
陣中で病を知る者は、皆、そう思っている。
そんな躰で、いったい、どこへ行ったのか。
あまり、遠くには行けぬはず、と周囲を軽く歩くが、姿は見えない。
慌ててはならぬ、と心に言い聞かせるのに、足はだんだんと速くなる。
やっと、見つけた細い影は。
木に寄りかかるようにして、空を見上げていた。
さすがに、こんなところまで歩いてきたので、己の足だけで立つのは、しんどいのに違いない。
自分勝手な我侭と知りつつも、一日でも、一刻でも、長く生きて欲しいと思う。
だから、無理はして欲しくは無い。
自然、咎めるような声が出る。
「丞相」
ゆるやかにこちらへと、顔が向くのがわかる。
「伯約か」
のんびりとしている、とさえ感じる、穏やかな声。
姜維は、大股に歩み寄る。
「こんなところで、なにをしておいでです?風邪でもひかれたら、いかがなさいます」
ほんの微かだが、相手が笑う気配がする。
「丞相?」
声が、つり上がる。
笑った意味は、わかっている。もう、あと幾日持つのかわからぬ人間に、風邪の心配をするのがおかしかったのだろう。
腕を突き出すように、手にしてきた上着を差し出す。
「これ、お召しになってください」
「心遣いは感謝するが」
静かな声で、やわり、と拒絶される。
「なにを言っておいでです、これだけ冷え込んでいるのに……」
風が吹き、雲が切れ。
そして、樹の下に立つ相手の顔が、やっとはっきりと見える。
微笑んでいた。
姜維が初めて見る、穏やかな表情で。
どこか、嬉しそうにさえ、見える。
この夜の闇の暗さのせいだろうか。顔色の悪さは、どこかへと消えうせている。
「……丞相、いったい、どうしてここへ?」
ふ、と基本的な疑問へと、立ち返る。
こんなに近くにいるのに、ひどく遠く感じて。
「待っているところです」
にこり、と明らかにわかる笑みを浮かべる。
「なにをです?」
「迎えに来て下さるのを」
己の背が、ぞくり、とするのを感じる。
だが、問わずにはいられなかった。声をかけ続けなくては、消えてしまう、そんな思いにせかされて。
「誰が、ですか?」
「我が君が……」
ごく自然に、その尊称は口へと乗せられる。
それが、現皇帝である劉禅へと向けられたものではないと、姜維は感覚で覚る。
だとすれば、かつて三顧の礼で迎えたという、先主のこと。
きっと、皇帝となる前は。
その尊称で、呼んでいたのだろう。
そして、彼は、とうにこの世の人ではない。
意味するところは、明らかだ。
「丞相、そのような……」
怒りたいのと泣きたいのと、ないまぜな気持ちになる。いつかは、誰にも訪れるとわかっていることなのに。
なのに、その死に魅入られるようにしているのが、もどかしい。
あと数日もつかもたぬかなのだから、自然であろうことなのに。
視線が、ふ、と、遠くへと投げられる。
つられるようにして、姜維もそちらへと視線をやる。
「約束して下さいましたから」
姜維の言葉が耳に入っているのかいないのか、相変わらず穏やかな口調のままだ。
「約束?」
少し驚いて、首を傾げる。
「最後の日には」
ふ、と言葉が途切れる。
「丞相?!」
いつの間にか、誰かに手をとられているかのように、ふわりと右手が持ち上がっている。
首が、横に振られる。
「約束をお忘れになることは、ないと思っておりましたから」
その言葉も視線も、姜維に向けられているものではない。
誰に、それを言っているのか。
どんなに目を凝らしても、姜維の視線の先には一人しかいない。
口元の笑みが、微かに大きくなるのが見える。
「はい、参りましょう、我が君」
「丞相ッ!」
慌てて肩を掴もうとしたのと、ふ、と躰から力が抜けたのは同時で。
かろうじて、抱き寄せる。
「丞相?」
返事は無い。
顔を覗き込んでも、静かで穏やかな笑みが浮かんでいるばかりで、その瞼は閉ざされたままだ。
まるで、穏やかな眠りの中にいるような。
「丞相……?」
もう一度、そっと名を呼んでみる。
ひらり。
なにかが視界の端にうつって、顔を上げる。
それは、抱き寄せた躰に舞い落ちる。
なんなのかを理解する前に、もう一枚。
目にしているのが信じられなくて、思わず口にする。
「桃の……花びら?」
この季節に、あるはずの無いもの。
つい、先ほどまで。
いままでにない、穏やかな視線を向けていた方から。
それは、ひらひらと舞い落ちてくる。
桃に、縁深い方でした。
いつだったか、聞いたことがある。
きっと、死に行く日には迎えに行くと、そう約束したのだ。
そして、約束どおり、迎えに来たのだろう。
桃の花と共に。
花びらは、まるで姜維を慰めるかのように、舞うようにしていつまでも落ちてくる。
きゅ、と唇を噛み締める。
「ご安心下さい、丞相。後のことは、姜維が承りました」
いま、舞い落ちた花びらを一枚、手にする。
「ですから丞相、私が逝く時には、この花びらを標に下さい」
さぁ、と風が吹く。
やわらかに散っていた花びらが、舞い上がり、消えていく。
そして、後には。
ただ静寂が残った。


〜fin.〜
2003.04.27 Phantom scape XV 〜Anemo in Autumn〜

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