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虚ろな箱

目前まで来て、まっすぐに見つめ、そして静かに言う。
「そろそろ、頃合いでしょう」
曹操は顔を上げ、そして眉を寄せる。
「なんのだ」
「おや、もう痴呆が始まりましたか、いけませんね」
端正な顔の表情は、ぴくり、とさえ動かない。
「文若、無表情でそういう冗談を言うのはやめて欲しいんだが」
「冗談ではございません、語るに足らぬとなったら、それ相応の対処というものが必要です」
ますます、曹操の眉間の皺は深まる。
「冗談でなければ、嫌味か」
「先程から、事実を申し上げております。それとも、本当に繰り返さねば思い出していただけませんでしょうか?」
そこまで言ってのけてから、付け加える。
「奉孝がいたら、これでは済みませんよ」
「ああ、全くもって言うとおりだよ」
こめかみを押さえつつ、曹操は答える。
「ったく、奉孝といい文若といい仲徳といい、容赦のない」
「殿とやっていこうと思ったら、誰でもこうなります」
「俺は、口うるさい参謀製造機か」
「まったくもって」
何を言ったところで、切り替えされまくるのが落ちと悟る。
そして、一つ、ため息をつく。
「どうしても、やらねばならぬか」
「往生際が悪いですね、喧嘩を売ると決めたのは殿でございましょう」
曹操は、むっつりと口をつぐむ。
言われるとおりだ、わかっている。
出仕したての頃は、知らなかったはずだ。
ただ、純粋に漢王室の復興を目指しているだけであったはずだったのに。
いつの間にか、それは彼の中で表向きの名目に変化していた。
自分が、天に逆らう者と知っているのは、参謀では三人。
一人は、もうすでにこの世の者ではない。
己の為に、風土病にさらされてもなお、献策し続けた男。
最後の最後まで、死の目前まで笑っていた。
前に行くのが似合うから。
そう言って、笑顔のまま逝った。
自分よりも年若く、後事を託すのは彼と決めていたのに。
「自分で決めたこととはいえ」
ぽつり、と呟く。
「犠牲が、多いな」
「それも、覚悟の上でございましょうに」
「ああ、そうだな」
なんとも表現しがたい笑みが浮かぶ。
「頭ではわかっていても、現実として理解するのはなかなか難しいということだな。愚かしいといえば愚かしい」
笑みは、皮肉なものへと取って代わる。
「せいぜい、まだ夢を見ているバカな連中が腰抜かすほどには驚かせてやらんとな」
「そうこなくては」
にこり、と破願する。
「続く愚か者がいるかもしれませんが、そのような者は切り捨てて刀の錆にしてやるくらいがちょうどよろしいかと。抱え込んでいても腐臭を放つばかりですから、この際選別するのがよろしいでしょう」
いつも穏やかな笑みを浮かべている彼の口から、このように容赦ない言葉が出てくると知るのは、ほんの一握り。
そして、その言葉はいつも正しい。
曹操の皮肉な笑みは、どこか楽しげな笑みへと取って代わる。
「大掃除というわけだな」
「やるからには、中途半端では意味がありません」
「肝に銘じておこう」
楽しげな笑みは、ふ、と消える。
「……いつからだ」
「なにがです?」
相変わらず笑みを残したまま、彼は首を傾げる。
「いつから、俺が逆らえる者だと気付いたかと問うている」
「ああ、さて……いつの間にか、ですね」
首を傾げたまま、彼は答える。
く、と押し殺した声で、曹操は笑う。
なにか、らしい気がして。
気付いた上で、どう思ったのかは、問わずともわかっている。
「なぜ、趣旨変えした?」
「趣旨変えなど、しておりません。手段を変えただけのこと」
鮮やかな笑みが浮かぶ。
「殿も奉孝も、そして私も……ほぼ、似たようなところを目指しているだけのこと」
笑みが、眩しいような気がして、曹操は目を細める。
なぜ、こんなに鮮やかに笑むことが出来るのだろう。
曹操とて、死を覚悟したことは幾度もある。
だが、こんな風に笑うような気分には、到底なれなかった。
前に行け。
かつて自分にそう告げた時、郭嘉も笑っていた。
いままで見せた、どの笑顔よりも鮮やかに。
「なぜ、笑える?」
彼の口からは、くすり、と笑いが漏れる。
「さて、いつか殿にもわかりましょう」
鮮やかな笑みを残したまま、彼は背を向ける。

建安十七年、五月。
届いた空の箱の中に入っているのがなにか、知るのは、ただ二人。


〜fin.〜
2003.07.15 Phantom scape XVIII 〜In the box〜

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