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最初の約束

江夏城入場の翌日。
家族や生活の術や糧を失った民衆たちへの対処を終え、集合した劉備軍麾下の誰もの表情は皆、硬いものだ。
話の口火を切ったのは、劉備その人。
「さて、江夏へは入ったが、曹操がこのまま諦めることはあるまい。今後の状況をどう読み、どう対処するかだが」
視線を受けて、白皙の軍師が後を引き取る。
「さすれば、民の慰撫に努めるのが第一と存じます。曹操の視線は、今しばらくは此方には向きません」
「やはり、江東へ向いますか」
はっきりと言い切った孔明の言葉を受けたのは孫乾。張飛の酷く怪訝そうな表情に、苦笑を浮かべる。
「こちらから仕掛ける余裕はないだろう」
「でもさ、だとしたら確実に潰しにかかるってことはないのか?」
張飛の純粋な疑問に、孔明が明確な答えを返す。
「江東が支配下へと落ちれば、我らを滅ぼすのは赤子の手を捻るよりも簡単になります。今、あえて労力をかける必要はありません」
冷徹過ぎるほどの客観性だが、皆、納得して頷く。
「では、孫権がいかに動くかが、我らの命運を握るというわけだな」
「その通りです」
はっきりと頷いて、孔明はゆっくりと皆を見回しながら言い切る。
「ここは、どうあっても曹操と孫権を戦わせなくてはなりません」
「おっしゃる通りかと思いますが、言葉で言うほど簡単ではありますまい」
孫乾が首を傾げる。その言葉にも、孔明は頷き返す。
「そうですね。江東は元々、豪族たちの集合体と言って良いですから土地さえ守ればいいと考える者たちも少なくはありません。文官らを中心に支配者が入れ替わっても構わないと思っている勢力は大きいです」
「となると、ますますおっしゃることは難しくはありますまいか」
遠慮がちに口を開いた趙雲に、孔明は薄い笑みを向ける。
「申し上げたのは臣下たちの勢力図です。孫権自身は、けして降伏を望んではおりません」
「今握っている権力を失いたくはない、か」
孫乾の言葉に、頷いてみせたのは劉備。
「ここで降れば、天下を望むことは二度とあり得ない」
「でもよ、一人で思ってったってしょうがないじゃねぇか。皆が降伏って言うんなら、やっぱそうなっちまうんじゃねぇの?」
張飛は、つまらなそうに口を尖らせる。
それまで黙っていた関羽が、静かな視線を動かしたのはその時だ。
「軍師殿には、なにか考えがあると見えるが?」
「対外政策の要を動かせば良いのです。武将の中にも血気盛んな者もおりますし、なによりも孫権自身が戦を望んでいますから」
関羽と張飛が、どちらからともなく顔を見合わせる。
孫乾が、軽く首を傾げる。
「周公瑾、ですね。先代孫策の義兄弟であることから、かなりの影響力を持っているのは確実ですが、傑物です」
「虚報には惑わされないでしょうが、いかんせん手持ちの情報が少なすぎます。確実に、情報を得ようと動きます」
碁石がぴたり、と打たれたかのように、誰からとも無く視線が合う。
孔明が何を言おうとしているのか、見えてきたのだ。
「江東では、ここ数年大きな戦はない」
「ましてや、曹操軍と戦ったことなどない」
「情報を持つ者に使者を出す?」
結論に自信が持てないのは、無理は無い。
「でも、江東と荊州がそう簡単に使者を出すような関係ではない」
「孫堅の仇だもんな」
「使者を送る理由をつければいい」
さらり、と言ってのけたのは劉備。にこり、と笑って孔明を見やる。
「そうだろう?」
孔明も、薄い笑みを返す。その笑みに、孫乾が合点したように手を打つ。
「ああ、劉表殿の弔問」
「今更ですか?」
「しかも親の仇に?」
趙雲と張飛が、思わず口々に言ったのに、孔明が静かに返す。
「情報を得たいのですから、背に腹は返られますまい。必ず来ます」
戦をして、勝つ可能性が有るや否や。
可能性が無い戦をするのは愚かだ。
「使者が着て、俺たちが知ってることを教えてやるってか?」
「無論、隠す理由もありません」
孔明は、さらり、と言ってのける。
「こちらの情報で、勝てると思っていただかねばなりません」
「敵に与える情報はないですよね?」
「無論、同盟が前提です」
孫乾の問いに、答えはすぐ返る。
関羽が、軽く眉を寄せる。
「でも、それは孫権側とっては厚かましいと思うのでは」
「戦う気があるのならば少しでも兵力は欲しいところです。数字の上では、曹操軍と孫権軍には大差がありますから」
孔明の言葉に、劉備も頷く。
「あちらの意思がどこにあるのかはともかく、こちらは同盟前提を狙うしかないわけだな」
「と、なると、話はこちらへ使者が来ただけでは終わらないな」
半ば独り言のように孫乾が言う。
「返礼の使者がたたねばならない」
「そしてその人間が江東を動かします」
冷えた笑みを浮かべたまま、孔明は言い切る。
笑みで、覚る。
返礼の使者が、誰なのか、を。
「護衛は、誰がつくのですか?」
すぐに趙雲が返す。
相変わらず冷えた笑みのまま、孔明は返す。
「護衛がついては警戒されます」
「江東が味方になるという保証はないんですよ?」
趙雲の眉が寄る。大きく頷いたのは、孫乾もだ。
「現状の勢力図の中に、一人は危険すぎる」
「無茶言ってるって、わかってるのかよ?」
張飛の言葉に、冷えた笑みがいくらか大きくなる。
「いいえ、無茶ではありません」
そう、無茶などではない。劉備軍にとって、失敗は滅亡を意味することになる。
真すぐに、皆を見つめる。
「絶対にしてのけます」
浮かんだのは、柔らかな笑み。
今まで、一度も浮かんだことなど無かった、はっきりとした笑み。
一瞬の、間の後。
「詐欺だ!」
劉備に食ってかかったのは、張飛。
笑顔で劉備は首を傾げる。
「なぜ?」
「だって、こりゃ、詐欺だろ、おい!」
苦笑に近い笑みを浮かべて顔を見合わせた孫乾と趙雲は、どちらからともなく笑顔になる。
「まぁ、翼徳の気持ちはわからないでもないね」
「そうですね、でも譲らねばならないことは確かのようです」
関羽が、張飛の肩を叩く。
「俺らが追い詰められて、誰かが殿に立たねばならないとして、だ」
「ああ?」
不機嫌に振り返った張飛に、関羽も笑みを浮かべる。
「残る自分はちょっと危ないかと思ったとして、どんな顔で皆を見送る?」
「決まってんだろ、笑って……」
言いかかって、大きく舌打ちする。
「わかってるよ、同じだってんだろ、ちっくしょ!」
やり場のない何かを、思いっきり床を蹴り付けてぶつけてから。
「でも無茶なもんは無茶だ、やるしかねぇのはわかったけどッ」
「言うべきなのは、そんなことじゃないだろう」
静かに張飛に言ってのけてから、劉備は孔明へと向き直る。
「必ず、ここへ帰って来るということを約して欲しい」
「約さねば、信じられませんか」
穏やかに返したのに、苦笑を浮かべる。
「そうだな、また、黙って白毒を飲むようなことをされるのは困る」
言いながら、己の腰の剣から玉をひとつ、ほどく。
「だから、これを預ける」
「それはいい。預かり物があれば、慎重になる」
「そうだな。しかし兄者、いくらかぬるい」
孫乾と関羽が、口々に言う。
くすり、と劉備は笑う。
「絶対に、孔明自身が持って返ってくるのが条件だ。そうでなければ、使者は別の者を選ぶ」
いくらか困ったような笑みを浮かべて、孔明は劉備の手から玉を受け取る。
「そこまでおっしゃられては、約束するよりありませんね」
「ったりめーだ、ったくやっぱヤバいこと考えてただろ!」
半ば食ってかかるように言って、自分の勢いに気付いたのだろう。張飛は口をつぐんで、少し視線を落とす。
「……そのさ、今はその……」
その様子に、劉備の笑みが大きくなる。
趙雲と孫乾が、また顔を見合わせて、それから孫乾が口を開く。
「我らが軍師は一人しかいないと思ってる」
「ああ」
関羽も、頷く。
趙雲も、静かに付け加える。
「危ないとなれば、すぐに使者をいただきたい」
「というわけだから、己の身を守ることを忘れないように」
劉備の言葉に、孔明の顔に浮かんだ笑みは面映そうになる。
同じ望みを持つ者がいて。
帰る場所があって、待っている人たちがいて。
笑みは、実に軍師らしく変じる。
必ず成功するという強さを秘めた笑みに。
「はい、必ずやここに帰って参ります」


〜fin.〜
2004.04.29 Phantom scape XX 〜the first promise〜

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