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未知なる者

回廊の方から笑い声が響いたのに、汐姫は眉を寄せる。
すぐに様子を伺いに出た侍女が、報告の為に膝をつく。
「皇叔が、剣を佩いた侍女達に怯えたようでございます」
「そう」
それだけ返した彼女の眉間の皺はますます深くなる。
これは、大方の侍女達が言う通り、会うような価値のある男ではなかったようだ。
一人の言った、「姫様を餌に騙し討ちにしなくてはならぬほどの人物なのでは」という説は、母の「一代の英雄」という評価に合っているのではと期待したが、無駄だったようだ。
よくよく考えてみれば、この作戦は周公瑾が思いついたのに違いない。長兄が亡くなった後、何を急ぐのか手段を選ばぬところが出てきた。今回の件も、その一環であろう。
あとの楽しみは、せいぜい不意打ちでも喰らわせて慌てる様を皆であざ笑うくらいしかなさそうだ。剣を刷いているくらいで怯えるならば、ことによったら腰くらい抜かすかもしれない。
あれだけ貧相な兵力なのに曹操がこだわり続けるのだから、相当に侮れないのではとも期待していたのだが。
いくら考えても、事実はひっくり返りはしない。
もしも期待通りであったのならば、婿になる可能性とてあったと思う。
だからこそ、正式な式典の前に会いたいとワガママを通したのに。
思わず深いため息を吐いたところで侍女が告げる。
「皇叔が参られます」
「わかった」
ひっそりと袖の中に隠し持った物を握り直す。
扉が開いて。
姿を現したと同時に、大きく踏み込む。
が、その足元は見事にたたらを踏む。
「?!」
「危ないなぁ」
のんびりとした声と共に、自分の利き腕が掴みあげられていることに気付く。
「そんな勢い良く飛び出したら、怪我させてしまうよ」
声の方へと顔を上げると、人の良さそうな瞳が苦笑しているのと視線が合う。
が、汐姫は目を見開いたままだ。
それをどうとったか、劉備は短刀を取り上げてから、ひねり上げていた手を開放する。
「とっさで力の加減が出来なかったけど、痕になったりしてないかな?」
言われて利き腕を見る。ひねり上げた痕跡など、どこにもない。
とっさで、などと言いながら、劉備は加減してのけた、ということだ。
「痕はないわ」
その言葉に、にこり、と素直な笑みが浮かぶ。
「そう、それは良かった」
が、汐姫の方は、納得も理解も出来ない状況に笑う気になど到底なれない。あからさまに眉が寄る。
「どういうこと?」
「なにがかな?」
笑顔で首を傾げてみせたので、誤魔化す気かと余計に汐姫はいきり立つ。
「廊下に来たときには、侍女たちの佩いている剣に怯えたと報告があったのに、今のは何かって訊いてるの!」
「ああ、あれか。過剰に刃物があったら、驚くのが普通だろ?礼儀かと思ったんだけど、違ったかな?その為にいるんだろう?」
ということは、この男は汐姫の意図を読み取った上で、誰もが信じるほどに怯えてみせた、ということになる。
「馬鹿にしてるの?!」
「敬意を表しただけなんだけどな」
本気で汐姫の瞳に殺気が宿ってきたのを見て、劉備は苦笑を浮かべて肩をすくめる。
「本当のところは、君があまりにムキになって突っ込んできたものだから、止めざるを得なかったんだ」
「どういう意味?」
手にしていた汐姫の得物を柄の方を差し出しながら返しつつ、彼はもう一度肩をすくめる。
「君の無茶で全部おじゃんになったってことだよ。まぁ、目の前で侍女殺しやられるよりはマシだけど」
「私の側にいる者たちは避けるくらいの身のこなしは出来る!」
劉備の口の端が、一瞬、ほんの微かに歪んで見えた気がした。
「避けて君が怪我をしないのならね。あんな突っ込み方で転んだら、自分の喉をかき切ってるよ」
かあっと汐姫の頬が上気する。確かに力んで踏み込んでしまった。だが、それは、それまでに入っていた劉備に関する報告にイラついていたからだ。
しかも、その報告内容による行動は、自分に敬意をはらったからとは。
馬鹿にしている。
喉元まで、出てけ、という単語が出かかったのを、かろうじて押し留める。大きく肩で息をする。
「それで?何がおじゃんになったっていうの?」
「嫌いだろ?刀が林立してたら怖いとかいうの」
汐姫は、軽く眉を上げる。
「私の方から縁談を断らせたい、というわけね?」
「そう、それが唯一穏便に済む方法だからね」
あっさりと頷き、劉備は口元に笑みを浮かべる。
「そうかしら?はなから断っていれば、この国に来る必要だってなかったんじゃないの?気付いてないわけじゃないわよね」
呉国太に会うまでも、さんざ命を狙われていたはずだ。
先ほどの力みすぎた一撃のようにわかりやすくなくとも、この男は気付いているという確信はある。
劉備の口元の笑みが、苦笑へと変じる。
「一度機会をあげておかないと、公瑾殿は諦めてくれなさそうだからねぇ」
とうに、今回の婚姻話を誰が考え出したのかもお見通し、というわけだ。その上、わざわざ来たのは周瑜に諦めさせるためでもあるとうそぶくとは。
「へぇ、随分な自信なのね。かなり腕に覚えがあるというわけ?」
「まさか、戦々恐々としているよ。どうしても必要じゃないのなら来ないな」
どう見ても戦々恐々などという顔つきではないが。それを取り沙汰するよりも内容の方が気になる。
「命を危険にさらしてでも来なくてはならないほどの、どうしても、というの?」
「お互い、表立って争うのは得策では無いと思うけどね」
汐姫は意地悪く視線を細める。
「あなた方が、ではないの?」
「比較論は無意味だよ」
反論すれば、自分の不利を認めなければならなくなる。それが嫌で話を逸らしたのだと思った汐姫の口元に、意地の悪い笑みが浮かぶ。
「ああ、そう。それで取り繕いに来たわけね」
「憐れと思っていただければありがたい」
あっさりと劉備に頭を下げられ、勝ち誇ったような気持ちは、腹立たしさと取って代わる。
「随分と簡単に頭を下げるのね」
苦笑とは違う、かといって素直に笑っているのでもない、不可思議な笑みが劉備の顔に浮かぶ。
「まぁ、こんな男のところに嫁ぐ気にはなれんでしょう?仲謀殿にお話して、この話は無かったことにしてもらうのがいい」
表情から考えが読めないことに苛立ち、汐姫は声を荒げる。
「そうさせてもらうわ。せいぜい、命を大事にすることね」
話は終わった、と判断したのは劉備の方だ。
「では、話が済んだところで、失礼させていただく」
ごくあっさりとした言葉と共に、丁寧に頭を下げる。
眼を丸くしたのは汐姫だ。
顔を上げた劉備は、不可思議そうに眉を上げる。
「私との縁談を断って、生きて帰れると本気で思っているの?」
「思っているんじゃない、帰るんだよ」
その瞬間の瞳は、傲慢で自信しかなく、揺ぎ無いモノ。
この男は英雄なのか、それともどうしようもなく情けない男なのか。
なぜ、これほどまでに兄や公瑾は恐れるのか。伯母は認めるのか。婚姻話が自分の手元に来て以来、延々と堂々巡りを繰り返してきた答えは、更にわからなくなっている。
見極めようと見つめ直した瞬間には、穏やかな笑みへと取って代わる。
「と、なるよう、努力するってところだね」
どうあってもこの男は、自分になにも掴ませるつもりはないらしい。
背を向けようとするのを、慌てて袖を引いて止める。
「待って!」
視線だけが、何事か、と問う。
「努力だけでどうにかなると思ってるわけ?兄の兵力を馬鹿にしてるの?」
「まさか」
劉備の顔には、再び苦笑が浮かぶ。
「そうそう簡単には出してはもらえないと覚悟している。今の公瑾殿はなにを差し向けてくるかわからないから、姫君もこれ以後は俺に関わらない方がいい」
自身、汐姫に関わる気はないらしい。断固とした背中を向けられる。
別に、強い言葉をかけたわけでもないのに、汐姫の刃から守られたまま平伏していた侍女が扉を開ける。
「子龍、待たせたな」
「いえ」
いつの間に通ったのか、見覚えの無い将が立っている。汐姫には気配を感じさせなかったのに廊を守る侍女たちが威圧されているのがわかる。
腰に刷いた剣は抜いていないし、名手と謳われる槍も手にしていないのに。
彼らは、確かに敵地にいると、はっきりと意識している。
それでいて、死ぬ気など毛頭ない。
汐姫に情けない男と思われようがなにしようが、劉備には関係ないのだ、と気付く。他人がどう思おうが、なんの意味も成さない。
最終的に、意図した方向に事が進めばいいと、割り切っている。
その為ならば、他人に頭を下げることさえ安いものなのだろう。
でも、そこまでしてなにをしようとしているのかまでは、見えない。
「お待ちなさい」
歩み去ろうとしていた、動きだけが止まる。
「この私に関わっといて、事が思い通りに行くなんて思わないことね」
なにもかも劉備の思うがままなど、あまりに業腹だ。
馬鹿にされっぱなしなど、絶対に許せない。
「明日、兄にこの婚儀承知したと伝えるわ」
「おや、これはありがたいことだね、子龍」
振り返らず、劉備は少し後ろに控えた将へと声をかける。
「荊州へと戻るのが、楽になるよ」
「御意」
主従共に、全く動じた様子はない。
「まぁ、最低一晩はしっかりと考えるのをお勧めするが。短慮は後悔の元となる」
その一言を残し、彼は去っていく。
汐姫は、唇を噛み締める。
今まで、思い通りにならなかったことは人の命くらいのことだ。これからだって、そうしてみせる。
あの得体の知れない男の正体を見極めてみせる。


〜fin.〜
2004.08.01 Phantom scape XXII 〜the unknown〜

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