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炎に想う

戦場が一望出来る物見台へと向いつつ、劉備が苦笑を浮かべる。
「随分とまた、厳しい約をしたものだな?」
先ほどの軍議のことだ。
赤壁の火攻めに追われて逃げてくるであろう曹軍をいかように追い詰めるか、孔明は趙雲、張飛、劉封にと指示をしたのに、関羽にだけはなにも命じなかった。
なぜ、と詰め寄る関羽に、孔明は涼しい顔で告げたのだ。
「あなたは、かつて曹孟徳に恩を受けたことがおありでしょう。今、彼は赤壁の火攻めであらかたの将士を失い、途中で子龍殿、翼徳殿に討たれます。雲長殿が向えば、その首を取ることは容易いでしょう。ですが、彼の窮状を目にしたなら、きっと旧恩を思い出して見逃すに違いありません」
聞いた関羽は、心外極まりない、という顔つきになった。
「その恩ならば、白馬で顔良、文醜を討ち果たすことで返している。出陣を命じていただければ、必ずや首を上げてご覧に入れる」
「五関を破ったことも、それで返したと仰るのならば」
さらに返され、関羽は少々傷ついた顔つきになる。
「軍師は、それがしの忠誠をお疑いになられるか」
「いえ、随一と存じております」
「しからば……」
孔明は、その涼やかな表情を崩そうとはしなかった。それを目にして、関羽は言葉に詰まってしまったらしい。
それとこれとは別、と言外に言われてしまった気がしたのだろう。
劉備は、関羽と孔明の顔を見比べ、静かに口を挟む。
「今まで関羽が留守居をしたというのは例が無い。世上への聞こえも悪かろう」
「我が君がおっしゃるのであれば仕方ありますまい」
孔明は微かに肩をすくめてから、関羽へと向き直る。
「誓紙を出していただけるのでしたら、一軍を預けましょう」
「承知した」
関羽は、すぐに誓紙をしたためた。
そして、華容道にかかった曹操の首を上げよ、と命じられたのだ。
皆の出陣を見届けてから、劉備と孔明はこうして物見可能な場所へと向っている。
誓紙まで出させた当人たる孔明は、やはり涼しい顔つきだ。
振り返った劉備へと、笑みを向ける。
「まさか、曹孟徳を見逃せ、と指示を出すわけにもいかないでしょう」
劉備は軽く眼を見開いてから、苦笑する。
「それは、出来ないな」
敵を見逃せ、など、真の事情を知る人間にしか理解出来ない。
少なくとも、公の場で口には出来ない。
この国を手に入れたいという野望の為に天下を狙っているわけでは無いということは、劉備軍に属していればだいたい知っている。
人同士で無益に争う気は無いということも。
が、人を滅ぼさん勢いの天に逆らっているということまでも、はっきりと認識している人間は二人だけだろう。
相争わせ、肉を裂き、血を流させ、自壊するのを待っている天に目に物見せようとしているだけだということを。
そして、曹操は同じ事を思う者だということも。
同士を、失うわけにはいかない。
それをはっきりと告げるわけにもいかない。
「だが、孟徳を殺すな、という代わりにしては矛盾していないか?」
関羽に出させた誓紙は、「絶対に曹操を討ち取る」と誓わせたものなのだから。
「いえ、それは違います」
孔明は、静かに首を横に振る。
「雲長殿は、我が君の君命とあらば己の感情を殺すことの出来るお方です。なにも言わないままに華容道を塞ぐことを命ずれば、間違いなく孟徳殿の首級を持ち帰ったでしょう」
「なるほど、わざと雲長に旧情を思い出させたわけか」
軍議での一事の意味が、劉備にも理解出来たらしい。笑みが浮かぶ。
「誓紙があることが念頭にあればあるほどに、過去の出来事は鮮明に思い出される、というわけか」
劉備は軽く首を傾げる。
「そうだな、五関を破ったことに関しましてはしては未だに孟徳への借りとなっているし、首級を挙げてから旧情を思い起こすよりは、死を覚悟して恩を返す方がいいか。どちらにしろ、雲長の首を切るわけではないからな」
孔明が、静かに言う。
「我が君には、一芝居お願いしなくてはなりません」
誓紙を破って戻るのだ。それを出させた孔明には、最初からは許すという言葉を口にすることは出来ない。
取り成すのは、当然劉備の役目、ということになる。
くすり、と劉備は笑う。
「人二人の命が救われるなら、お安い御用だ」
もう、目前には夜空を焦がす炎の端が、見え始めている。
劉備は、足を早め始める。
「あの炎で、孟徳が我に返れば良いが」
「聡明な方と存じ上げます。必ずや」
孔明の声に、劉備は振り返る。珍しく、どこか切なそうな笑みが浮かんでいる。
「ああ、そうだな」
視線は、また炎へと戻っていく。
「俺の勝手なのだろうが、やっと見つけた同じことを願って行動する者同士だから……大事な友人のような気がしててな。本気で滅ぼさねばならぬ相手になるのは、正直しんどい」
「孟徳殿も、同じ事をお考えと存じます」
問われる前に、孔明は続ける。
「そうでなければ、長坂破で我等の命は残ってはおりますまい」
「いくらか正気が残っていた、か」
劉備は、軽く首を横に振る。
「あの時は、とうとう孟徳も天に喰われたかと思ったが。そうだな、そうかもしれない」
遠く見える炎は、ますますその勢いを増していく。
曹軍は、もうとうに敗走を始めているに違いない。
「今度戦場でまみえる時は、共に天をからかってやりたいものだよ」
「必ずや」
孔明が答え、劉備が振り返る。
共に、にこり、と微笑む。


〜fin.〜
2004.08.01 Phantom scape XXIII 〜flamboyant〜

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