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出逢う前に

孫乾の報告に、驚いた顔つきをしなかった者はいない。
張飛などはあからさまに目を丸くしていたし、関羽も軽く眉を寄せている。
「何の為にですか?」
趙雲が、困惑気に孔明へと問いを発する。
「準備が整うまでの安定剤のつもりでしょう」
あっさりと孔明が答える。張飛たちが口を開く前に、孫乾が付け加える。
「準備というのは、当然巴蜀攻撃の為の、だな」
「赤壁で相当な打撃を与えたとはいえ、現状の実力で北へ攻め上がるのは無理ですから、まずは荊州、巴蜀をおさえるのは妥当な考えです」
孔明の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「にしても、孫仲謀の妹を娶ってくれとは、随分とまた血も涙も無いことを言い出したもんだな」
劉備が、軽く眉を寄せる。珍しく、不機嫌さが見え隠れしている。
その顔つきを見ながら、関羽が低い声で訊ねる。
「孫権の妹とは、どのような人物だ?」
「汐姫といい、孫仲謀のすぐ下の妹になるようです。とても大事に育てられたようで、孫伯符に随分と懐いていた他、家族思いの御方と見受けましたが」
皆の視線が、ごく自然に孔明へと集まる。
見受けた、ということは。
「会ったことがあるのか?!」
張飛の唾が飛びそうな勢いの質問に、孔明はあっさりと頷く。
「ええ、曹孟徳と開戦の折の使者に立ちました時に。武芸をたしなまれるのがご趣味とか」
ぽかん、と開いた口を孫乾は慌てて直す。
「ご趣味って」
「ちら、と目に入ったところではとても実戦には役立たぬかと」
冷静な口調に、孫乾が手をぶんぶんと横に振る。
「いやいやいやいやいや、そういう問題じゃないと思う。他軍の使者の前に主君の妹が、仮にも姫とかって呼ばれてる人物が出てくるっていうのはどうかと」
何かと使者にたつ機会の多い孫乾も、姫君が堂々と現れるなどという経験は無いらしい。
孔明の口元には、薄い笑みが乗る。
「城の中はどこもかしこも彼女の庭なのでしょう」
ようは、そのように振舞っても咎める人間がいない、ということだ。
揚州の主として立っている兄に敵がいることは知識としては知っているだろう。だが、実際に敵対するということがなんなのかすら、きっとまだ理解してはいない。
もしも、孫権に「友好の為だ」と教えられれば、それなりにそれを信じ込むに違いない。
「安定剤の有効期間は何年だ?」
「周公瑾健在ならば一年、そうでなければ二年でしょう」
劉備の問いに、孔明は明確な答えを返す。周瑜が健在ならば一年後には巴蜀攻めと称して荊州へ孫軍の兵が来る。そうすればこの婚儀は破綻するし、彼が来なかったとしても更に一年後には劉備たちが巴蜀への兵を起こすことになる。巴蜀を狙う者同士、やはり婚儀は破綻する。
どちらにしろ、先は見えた話だ。
彼女は、自分の存在などちっぽけなものに過ぎず、同じモノを狙う者同士を結ぶ為のなんにもなりはしないという残酷な現実をつきつけられ、傷つくことになる。
「ったく、先が無いとはいえ、周瑜とは反りが合いそうに無いな」
劉備が珍しく舌打ちするのに、孔明は苦笑で答える。孫乾も肩をすくめる。
周瑜が死病に取り付かれていることは調べがついている。それでも、彼は竹馬の友たる孫策に託された夢を最後まで諦める気は無いのだろう。
その為ならば、なんであれ利用する気でいることは、この一事を見ても明らかだ。
相対するこちらとしては、差し向けてくるものを出来る限り、上手く避けるより他無い。
「ともかく、こちらから断るのは得策じゃない。周公瑾に口実を与えることになる」
孫乾の言葉に、孔明も頷く。
「ええ、こちらは承諾して、あちらから断っていただけるようにもっていくのが上策です」
「でも、話は孫権の方からきている」
趙雲の困惑気な声に、孔明はいくらか悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「策を考えたのは周公瑾、承諾したのは孫仲謀であって、汐姫ではありません」
「なるほど、汐姫が俺を気に入らなければ、この話は無かったことになる、か」
納得した劉備の顔にも、笑みが浮かぶ。
「って、出来るのかよ?」
一本気な張飛には、話はわかったが無理なことに思えたようだ。劉備は、笑顔のまま頷く。
「孔明が会っているのなら、だいたいの人物はわかるだろう」
「では、返礼の使者を立てねばなりますまい」
孔明の視線を受けて、孫乾が笑みを浮かべる。
「公佑が戻り次第、立つことになるな」
「護衛は誰が?」
「子龍が」
す、と無言のまま、趙雲が頭を下げる。
「な、孔明。もしも……」
話がこのまま終わりそうなのを察知して、慌てたように張飛が口を挟む。
「もしも、ついて来たらどうすんだ?」
「出来る限り、あっさりと帰れるようにするしかありますまい。当人の思惑はともかく、周囲は大人しくはしていて下さらないでしょうし」
嫌そうに孫乾が眉をしかめる。
「雰囲気悪くなるなぁ、それは。避けたいもんだよ」
「しかし汐姫の情が移れば、後に辛いことになる」
関羽の静かな声に、誰もが頷きあう。勝手な都合で振り回された挙句、身を引きちぎられるような思いをするのでは、あまりにあまりだ。
はたから見て、はっきりとわかるほどに肩を落としたのは張飛だ。
「うわー、じゃ、俺、近寄らねぇようにしねぇと」
なんだかんだで、粗暴だが面倒見がいいのだ。ぱっと見が怖いはずなのに、基本的に誰からも嫌われないのはそのせいだろう。
「大丈夫だって翼徳。汐姫は来ないよ」
「でもさ、来ねぇってことは、兄ぃが嫌われてくるってことだろ?」
それはそれで納得がいかないらしい。
孫乾はいくらか眉を寄せる。
「それで済むならいいけどな」
張飛がどういうことかと尋ねる前に、関羽が問う。
「ただ命を狙われるだけならまだ良いが?」
孔明の口元に薄い笑みが浮かぶ。
「周公瑾が考えていることなら読めます。私は留守居いたしますが、ご一緒にあると思っていただけるよう準備を整えておきましょう」
「話は決まりだな」
決然と劉備が言い切る。

返礼の使者に孫乾がたつのは、翌日のこと。


〜fin.〜
2004.09.01 Phantom scape XXV 〜Before Contact〜

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