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幼星が笑う時

この荊州城の奥には、質素ながらも過不足無いものが揃っている。
唯一、無いものは人だ。
汐姫が健業から連れてきた侍女らの方が多いくらいかもしれない。
ずっと共にあったという二人の妻がいなくなったせいもあるのだろうが、元々人は少なかったらしい。跡継ぎであるはずの阿斗にさえ、あまり人はついていない。
「私が刃を向けるかもしれないとは思っていないのかしら」
腹立たしげに呟いた言葉に、不可思議そうに阿斗は首を傾げる。
「なんで?汐姫様は僕を殺しに来たの?」
無邪気に問われて、苛立ちが収まるどころか、なにやら意地悪な心持ちになる。
「そういうことになるかもって言ってるの」
ずい、と上から顔を近付け、孫権配下の歴戦の将らも一歩引く、冷たい笑みを浮かべてやる。
「玄徳殿の出方次第ではね」
「そうなの」
阿斗は瞳を煌かせたまま頷く。
状況をわかってないのではと首をひねりつつ、更に尋ねてみる。
「私に殺されるかもしれないのに、怖くないわけ?」
「今、殺そうとしてるわけではないもの」
言って、にこり、と笑う。なるほど、真理だ。
こんな子供に一本取られるとは、と、また面白くない気持ちになる。
「貴方、海を見たことが無かったわね」
「河はあるけれど、海は見たことが無いよ」
こっくりと子供らしい頷きを返してから、阿斗は小首を傾げる。意地悪な口調であったことには、全く気付いていないらしい。
「汐姫様の汐とは、海の満ち引きのことなんでしょ。海をご覧になったことがあるの?」
幼い子供が己の名の由来を知っていることに驚いて目をいくらか開きつつ、頷く。
「そうよ、孫家に生まれた者たちは水のあるところ、どこでも自由なの」
自慢気に言ってやると、子供の眼は素直に輝く。
「海って、どんなところ?」
「海は、江よりもずっと広いところよ。波だって、比べ物にならないほどに大きいものよ。これよりもずっとずっと大きなものだってあるわ」
手で大きさを示してやると、阿斗は目を丸くする。
「すごい!でも、怖くないの?」
素直な感嘆の声に、子供相手にいつまで不機嫌なのも大人気ない気がしてくる。
あまりに素直で毒気が抜かれたのかもしれない。
「怖くなんてないわ、ちゃんと海を知っていれば大丈夫」
汐姫は、にこりと笑みを浮かべる。

その日から、しばしば阿斗を相手に、海をはじめとする故郷の話をよくするようになった。
舟の操り方や、なぜ、女だてらに弓馬に精を出すのかまで。
これだけのおしゃべりは、兄たちともしたことがなかったように思う。
健業脱出以来、劉備たち始め、主だった者は誰一人として顔を出さなかったことも一因だろう。
ようするに、話し相手になりそうなのは侍女の他には阿斗くらいだったから。
でも、それ以上に、この子供は聞き上手だった。
時に目を輝かせ、怯える時には涙さえ浮かぶ。
ただ一つの違和感以外には、これ以上の聞き手に恵まれたことは無い。
どんなに面白い話をしたとしても、阿斗は声を立てて笑うことをしない。
瞳は輝いているし、驚くし、時に慄くことさえある。
でも、おかしくて笑うということが無い。
幼い頃に親を失ったからだろうか。
ただ、失ったのではない。
阿斗は、義理とはいえいつも側にいてくれた母が、足手まといになるからと目前で身を投げるのを見ているのだ。
それだけでは無い。
目前で、幾人もの人間が斬られ、死んでいく様を目の当たりにしている。
そんな経験が、まるで感情の一角が枯れてしまったかのような性格にしてしまったのだろうか。
だというのに、この子の周囲はこんなに人が少ない場に放ってあるのだろうか。
時折、呼ばれてどこかに行くこともあったようだが、誰かが尋ねてくるというのは知らない。
あまりに、哀れではないか。
いつの頃からか、汐姫はつとめて面白い話を聞かせるようになった。
だが、やはり阿斗が声を立てて笑うことは無かった。

そうこうしているうちに、二年近い歳月が経ったろうか。
珍しく、汐姫の顔から血の気が引いている。
「周善、それは本当のことなの?母君が、ご危篤というのは?」
「ともかくも、急ぎご帰国下さいませ。国太様のお望みは、ただただ姫様に一目お会いしたいと、それのみなのでございます」
深く頭を下げる懐かしい顔に、すぐにでも故郷へ飛んで帰りたい気持ちになる。
だが、こうなってみて初めて、己の置かれている状況に気付く。
確かに、奥に人はいない。
それは、この荊州城に人がいないということを意味するのではない。むしろ、感じさせぬよう、しっかりと見張っているということに他ならないのではないか。
今、劉備自身は益州攻略中でこの地に無いが、返って留守を預かる諸葛亮の方が綿密に守っているのは知っている。
だからこそ、こうして周善も周囲をはばかるようにしてこの場に平伏しているのだから。
「軍師殿は、私が留守に帰国することをお許しあるまい」
唇を噛み締めるのへ、周善は取りすがるようににじり寄る。
「事は一刻を争っております。早舟を用意してございますから、すぐにでも。玄徳殿始め、荊州城の面々には後ほど殿から失礼をお詫び申し上げればよろしいのですから」
どうせ、この城に入ってから顔も見せぬ人々だ。挨拶する間が無かったのだと言われ、文句のつけられようはずがない。
それよりも、明日をも知れぬ母のことが気になる。
「ええ、そうするわ」
決めれば早い。
汐姫はすぐにも、身支度を整える。
その後姿を拝みつつ、周善はさらにの一言を付け加える。
「国太様には、前々より劉予州に幼い一子があるということを聞かれて、一目会いたいものとおっしゃられておりました。この折にお連れになれば、お元気を取り戻すやもしれませぬぞ」
心はすでに故郷へと飛んでいるとはいえ、母の病が気になって仕方ないとはいえ、周善の言葉の意味に気付かぬほど愚かではない。
劉備のたった一人の跡継ぎと知って連れて行くのは、人質にするのだというのと同意だ。
一瞬、汐姫の手が止まる。
だが、この荊州城で誰にも相手にされずにいるよりは、自分と一緒に来た方が、幸せではないだろうか。
母も会いたいと望んでいるのならば、酷い扱いを受けることはあるまい。
いや、自分がいるからには、そんなことはさせない。
「阿斗様、阿斗様!」
呼べば、幼い子はすぐに顔を出す。
「汐姫様、なにか、ご用?」
「一緒に、海を見に行きましょう。さ、いらっしゃい」
有無も言わさず腕を取られたのに、阿斗は全く顔色を変えない。
「海を?僕も?」
「そうよ、話ばかりでは本当のことはわからないわ」
早口に言いながら、周善の後をついて、早足に歩く。
もつれそうになりながらも、阿斗もよく付いてくる。
裏道のような場所をいくつもすり抜け、ようやく早舟に身を移して息をついた瞬間。
「その舟、待たれよ!」
待っていたかのように、陸地に騎馬の人々が現れる。
声を上げたのが誰なのか、すぐにわかる。
「趙、子龍……」
汐姫の呟いた名に、舟の人々が慄く。
あの長坂破を一人駆け抜けて阿斗を守り抜いた武勇の持ち主であり、槍だけでなく、弓も得手とすることは誰もが知っている。
慌しい声が響き、舟はぐんぐんと岸を離れていく。その速度に全く置いてかれることなく、趙雲の馬は併走して追って来る。
陸にあるうちはとたかをくくっていたが、途中の岸にあった小船に馬から直に飛び移っているのが目に映る。
「早く、もっと早く!」
漕ぎ手の兵たちを周善が叱咤する声が響くが、小舟はあっという間に追いついてくる。
周善が舌打ちをしたかと思うと、汐姫がしっかりと手を握っていた阿斗を引き寄せる。
「趙子龍、大人しく引き返せ!さもなくば!」
「なんてことを!」
何が起こってるかに気付いて、声を上げたのは汐姫だ。幼い子供に、周善は剣を突きつけている。
「お放しなさい!」
「それは出来ませぬ。こうしておれば、無事に国太様の元へと帰れましょう!あちらとて、手は出せぬはず。お子に傷がつくことはございません」
早口に言い返し、周善はしっかりと趙雲を見据える。
「さぁさぁ、これが目に入らんのか?!」
趙雲の目に、入っていないわけは無い。いや、確実に入っているのが、その視線でわかる。
先ほどまでは、ただ留めようというだけの顔だったのが、今や本気になっている。
が、己の乗った舟を止めよとは、一言も口にしない。
雨のように降らせる矢を物ともせずに、激突しそうな勢いで突っ込んでくる。
周善らの舟から放たれる矢を払っていた槍を一気に船腹へと突き刺し、それを足がかりに一気に飛び込んでくる。
「阿斗様!」
声と合わせるかのように、それまで棒のように突っ立っていた阿斗が、小さな猫のように背を丸める。
同時に、趙雲の手にした剣の柄で周善は吹き飛ばされて汐姫の足元に転がる。
身を起こした阿斗は、剣を抜き払った趙雲の、反対の手へとその小さな手を伸ばす。
「子龍の叔父上!」
「!」
汐姫の目は、足元に倒れこんだ自国の武将よりも、阿斗へと釘付けになっている。
どんな面白い話をしたとしても、一度も心からの笑みを浮かべたことの無かった子なのに。
今、この殺伐とした場で、満面の笑みを浮かべて趙雲を見上げている。
趙雲も、にこりと笑んで阿斗を見やってから、汐姫たちへと視線を戻しつつ答える。
「阿斗様、なかなかに良い身のこなしでございました」
「本当?子龍の叔父上のお邪魔にならなかった?」
頬を紅潮させて、阿斗は一生懸命に尋ねている。
「なりませんとも、おかげで殺さずに済みました」
「良かった!殺しちゃったら、戦になってしまうものね」
こちらを睨み据えているというのに、趙雲は口元にまた、笑みを浮かべる。
「その通りでございますとも。必要以上にことを荒立てる必要はありません」
が、その笑みは、すぐにかき消える。
汐姫を見つめる視線は、阿斗を見つめた時とはまるで違う。凍りそうな、厳しいものだ。
「汐姫様、随分とお慌しい出立と見受けますが、我らに一言も無しとはどのようなご了見でございましょうか?」
それまでの阿斗へとの態度との、あまりの差に生来の勝気が、怒りを覚える。
「母上が病というので、急ぎ見舞いに参ろうとしただけよ!その方らこそ、この無体はどういうこと?!」
「こちらも望んでこのようなことをしたわけではございません。阿斗様は玄徳様の一粒種。お連れなさるのはご遠慮願いたい」
言葉の内容に、更にかちん、とくる。
荊州城で、延々とその幼い一粒種を放って置いたのは誰だったのか。
「よくも言えたものね、いつも城ではこの子を一人にしてたじゃないの」
「一人じゃないよ、叔父上たちがいない時には、汐姫様がいらっしゃったもの」
きょとん、とした顔つきをしているのは、他ならぬ阿斗だ。
「海のお話をたくさん聞いたよ」
と、趙雲を見上げている。
「他にもね、いっぱい楽しいお話聞かせてくれたの。汐姫様は、とても故郷を大事になさってるの」
「そうですね」
趙雲も、笑顔を向ける。
「とても大事にしておられます。ですから」
こくり、と阿斗は頷いてから、汐姫へと向き直る。
「汐姫様、良かったね、帰れて」
向けられたのは、満面の笑み。
今まで、どんな話をしても見せなかった笑みが、自分へと向いている。
「阿斗様?」
ぽつりと呟く声が聞こえたのかいないのか、趙雲の隣で、阿斗はにこにこと笑っている。
「いつもいつもなんだかお寂しそうな顔で故郷のお話ばかりされていたから、早くお帰りになりたいんだろうなって、ずっと思ってたの。だから、良かったねぇ」
上手く、言葉が出てこない。
阿斗が笑わなかったのは、自分の話が面白くないからではなくて。
自分が、寂しそうな顔をしていたのか。
その顔に反応して、この子は笑わなかったのか。
「あのね、汐姫様」
ふ、と子供の顔から笑みが消える。
子供らしからぬ、真剣な視線が汐姫を見つめている。
「僕もね、父上も、叔父上たちのことも、大好きなの。だからね、海、見に行けないの」
頭が、ぺこりと下がる。
「ごめんなさい」
答えられずにいるうちに、上流から、また新たな声が聞こえてくる。
「おおい、子龍!阿斗様はご無事か?!迎えに来たぞ!」
遠くからもよく通る声は、張飛のものだ。
趙雲と違い、大人しく渡さねば、この舟の者たちの命が無くなるだろう。すわ、と事を構えようとする周善たちを、目で抑える。
「お止めなさい!」
「しかし!」
いつもの汐姫らしい、強気の視線で睨み返す。
「私だけが、帰ります。それでよろしいでしょ」
視線が合い、趙雲は、ただ深く頭を下げる。
汐姫は、ふ、と笑みを浮かべる。
「阿斗様、たくさんお話を聞いてくれて、お礼を言うわ」
「ううん、お話、とっても楽しかったよ。ありがとう」
子供らしい笑みが、ひょいと上へ移る。趙雲が、抱え上げたのだ。
「阿斗様、参りましょう」
言葉少なだが、阿斗にはそれで充分らしい。
「うん、子龍の叔父上、帰ろ!」
「では、ご健勝で」
深く頭を下げると、趙雲は身軽に舟の縁へと足をかける。抱っこされた阿斗が、にこにこと手を振る。
「お元気でね、汐姫様!」
言葉が終わると同時に、ひら、と姿は消える。
船べりへと汐姫が駆け寄ると、全く危なげなく小舟へと乗り移った趙雲が見える。そして、今度は張飛の肩へと移されて、楽しそうに笑う阿斗がいる。
汐姫が見下ろしているのに気付いて、大きく手を振っている。
すぐに、趙雲と張飛の二人も気付き、視線を上げる。
その隣には、白い羽扇を手にした人もいることに、汐姫は目を丸くする。
「孔明殿?!」
これでは、まるで、今日のこのことを全て知っていたようではないか。
静かに見上げている孔明は、薄い笑みを浮かべる。彼だけではない。趙雲も、張飛も、ついぞ見せたことの無い、柔らかな笑みで汐姫を見つめている。
趙雲が上手く飛び移った時点で、舟を止めたのだろう。
彼らの姿は、みるみる遠ざかっていく。
阿斗は、ずっと手を振っている。
す、と張飛の手が上がる。続いて、趙雲の手も。大きく、静かに振られている。
孔明が、深く頭を下げる。
微かに阿斗の声が届く。
汐姫様、今度は、お幸せになってね。
今度は。
そんな言葉が、子供の口から出るはずがない。周囲の大人たちが、阿斗の口を借りたに違いない。
今、やっと、初めて気付く。
なぜ、嫁に来ることを断れと劉備が言ったのか。
汐姫が、故郷と劉備たちの間で、胸が引き裂かれるようなことにはならぬように。
強引に荊州城に入った後も、主だった者は誰一人として顔を出さなかったのも。
いつか来る、この日の為に。
なんの迷いもためらいも無く、故郷へと帰れるように。
戦の修羅ばかりを潜り抜けている彼らは、大事となった者と引き裂かれることの辛さを誰よりも知っているから。
だからこそ、自分たちがそういう大事な者とならぬよう、距離を取り続けていたのだ。
避けられぬこの日があると、知っていたから。
思い切り、手を振り返す。
もう二度と会わないであろう彼らの姿を目に焼き付けようと必死でこらしながら、手を振り続ける。
言葉に込めた意味が届きますようにと、祈りながら叫ぶ。
「阿斗様も、お幸せにね!」
四人の姿は、なぜか霞むように見えなっていく。


〜fin.〜
2005.04.17 Phantom scape XXVI 〜When litte star smiling〜

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