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雨宿る

「わかったのならば、とっととひそませてある者共を払え!」
季恢は、腹の底から声を上げる。
馬超に視線で行けと命じられ、息を飲んだまま硬直していた兵らは、ほっとしたように散って行く。
それを見届けてから、馬超は季恢へと苦笑を向ける。
「気持ち良さそうだな」
「説客の醍醐味はこれだろ?」
悪戯っぽく笑う顔は、先ほどまで劉備と相争うことの愚かさを説いていたのとは全く違う、憎めないものだ。
自然、馬超の顔に残っていた硬さも消える。
「徳昴の話を聞いて、やっと、もやもやとしてたものが晴れたよ」
はっきりと口にはしないが、李恢にはどういうことなのか飲み込める。
人に言われずとも、己が最も討ちたいのは曹操なのだ。
父の方から仕掛けたとはいえ、弟たちまでも手にかけた相手。
憎むまいとて、憎まずにはいられぬ仇なのだから。
だが、弔い合戦は己の敗北と終わり、やむなく身を寄せた張魯たちにはいいようにあしらわれている状態だ。
なんせ、劉璋の援軍に行けと言ったかと思えば、なにも決着がつく前に引けと言う。何があったのかは知らぬが、理由も無くこれでは意味がわからない。
深いため息に、李恢は苦笑する。が、馬超の方はいくらか不満げな顔つきになる。
「本当に、安堵したのだぞ」
「わかっているよ。ただ、あんまり俺の説得で安堵されてもなぁ、と思ってな」
言って、立ち上がる。
「ここであまり時間を食うのは得策ではないな。この先は道々話そう」
確かに、投降すると決めたまではいいが、連れてきた兵たち全てが馬超直下の者というわけではない。張魯たちへと事の次第を告げに行く者は絶対にいる。
のんびりとする間は無い。
「わかった、ともかく玄徳殿の元へ、向おう」
馬超も、決然とした仕草で立ち上がる。

留守を預ける馬岱へと過不足ない指示を与えて、馬超と李恢は馬上の人となる。
会話の妨げにならぬほどの速度に調整して、馬超は隣をなんなくついてくる李恢へと視線を向ける。
「で、どういう意味だ?」
出立前に、李恢が言った言葉のことだ。
己が向けた剣を見て怯えるどころか、にやり、と笑って「自分の首を刎ねることにならぬと良いが」などと言ってのけ、「自分の真の仇すら見失ったのか」などと大仰に説得してのけたくせに、それで安堵されては困る、と言う。
「うむ、なんというかな。一言で言えば、劉玄徳という御方は、見えぬのよ」
「見えぬ?」
そんな言葉では、馬超にはさっぱり話しの方が見えぬ。
「一筋縄ではいかぬ、とか、まぁそんな言葉もあるだろうが、最も合うのは見えぬ、だな。見せぬ、かもしれないが」
いくらか首をひねりながら、李恢は言う。
馬超には、やはり理解不能だ。
「もう少し、わかりやすく話してくれんか」
「む、そうだな。そもそもから話すとするか」
頷くと、李恢は、に、と口元に笑みを浮かべる。
「俺はな、元々は劉璋に仕えていたのだ」
「は?」
ぽかん、と口が開く。それが何故、その劉璋と対峙している男の為の説客として現れたのか。
それを見ているのかいないのか、口元に笑みを浮かべたまま李恢は続ける。
「でな、劉玄徳をこの国に招き入れてはならぬと説得したのだよ」
「な?」
今度こそ、馬超の顎が外れそうになる。
予測通りの反応を横目で見て、李恢の笑みが大きくなる。が、すぐに苦味を含んだものへと変わる。
「が、全くお聞き入れ下さらなくてな。元々賢きお方とは思うてなかったが、これほどまでとはと落胆したよ。益州も遅かれ他人の者となろう、とな。で、考えた。下手な者が来て、苦しむのは民だ」
言葉を切ると、まだいくらか呆然とした顔つきのままではあったが、馬超はこくり、と頷く。
「で、誰が良いかと見回してみれば、劉玄徳殿だったのだ。曹孟徳も確かに優れた男だが、すでに中原を抑えている。益州を抑えたとて、地方としか見るまい。江東の豪族を地盤にしている孫権は話にならんし、張魯はもっといかん」
ここで、顔を馬超へと向ける。
「この国に迎えれれば、劉璋が国を追われる。すなわち、劉玄徳殿の方がずっと優れているからだ。だとすれば、これからの益州の為にも劉玄徳殿に仕えるのが良いと決めた」
に、とまた笑みが浮かぶ。
「だから、劉玄徳殿の元へと行ったのだ」
「で、玄徳殿は?」
迷いの無い笑みに、いくらか羨ましさを感じつつ馬超が返すと、李恢の笑みは大きくなる。
「孟起を説得してみせよう、と言ったら、劉璋殿を諌めた方と伺ったが、と返されたよ。不信に思われたのではなく、試されたのだな」
「なんと返したのだ?」
李恢の弁舌が立つのは知っている。が、興味は引かれる。
「良禽は木を選ぶ」
「ははぁ」
選ばれる木も良いが、選んだ自分も良いとは。李恢らしいと言えばそうかもしれないが、馬超にはとても口に出来ない。
「次に、なんと説得するつもりか、と問われたから、孟起に言ったとおりのことを伝えた。そうしたら、玄徳殿は頷いてな、軍師を務められている孔明殿と顔を見合わせた」
一息置いて、李恢は続ける。
「さて、どうする?」と、劉備が尋ねると、孔明も笑みを返し、「そうですね、どちらにしろこのまま立ちふさがられるのでは除外するより他無くなりますし、お願いするのが良いのではないですか」と応じた。
「するとな、そうだな、後の話はその後だ、と玄徳殿が返して、話は決まった、というわけだ」
馬超は、なんと返していいのかわからず、口の中で唸るような声を出す。
除外するより他無いなどと、直裁に伝えられて返せようはずが無い。
少なくとも理解出来たのは、劉備も、自分と相争い続けることを望んでいない、という一点のみだ。
父は、共に曹操を討つ同士と信じていたようだが、まるで今の話では。
なるほど、李恢が馬超をせかしたのは、その「後の話」とやらが気になったから、というのもあったわけらしい。
どちらからともなく顔を見合わせると、無言のまま、馬に鞭を入れる。

劉備軍陣営に到着した馬超を、劉備は陣営の表まで迎えに出た。
「やぁ、よく来て下さった」
向けられた笑みは、昨日まで戦をしていた人間に向けるものではない、暖かさのあるものだ。
いくらか戸惑いつつ、差し出された手を素直に取る。包み込まれた手の、ほっとする暖かさに、余計戸惑う。
「この度は、その」
言葉に詰まってしまった馬超を、劉備は肩を押すようにして幕の中へと誘う。
「大きな決心を下されたこと、感謝しております。戦のことは過去のこと。さぁ、まずはゆっくりと疲れを取っていただくとしよう。お父上の思い出話なぞ、させていただきながら」
さり気ない言葉で、周囲の人を払ってしまったことに気付く。
幕に入ってきたのは、本当に劉備と馬超の二人きりだ。
前へと腰を下した劉備の顔つきで、馬騰の思い出話のために人を払ったのではないと悟る。
李恢の言うところの、後の話、とやらかもしれない。
いくらか緊張の面持ちで、相対する位置に腰を下すと、にこり、と、また笑みかけられる。
「いろいろと、ご苦労が多かったでしょう」
先ほど父のことを言い出されたせいもあり、なんと返事をしていいかわからずにいると、言葉を重ねられる。
「孟徳に、かなり手酷くあたられたから」
孟徳、というのは曹操の字だ。ずっと相争っているはずの相手を字で呼ぶことに、戸惑いが重なる。やはり、李恢の言うとおり、不可思議さがある人物だ。
向けられている笑みも、先ほど取られていた手の暖かさも確かで、父が信頼に足ると判断しただけの人物だと思うのに。
顔に戸惑いが浮かんでいるはずなのだが、劉備は相変わらず笑んだままで続ける。
「どうやら、戦だけではなかったようだ。孟徳になにか言われたのでしょう?そうだな、天も地も見えぬ、とか」
さらりと言ってのけられた言葉に、びくり、とする。
それは、確かに曹操に言われた言葉そのものだ。
馬家の当主は皆愚かだ、天も地も見えぬのだから。
忘れようとて、忘れられるものではない。
浮かんだ表情で、当たったのだと判断したのだろう、劉備は苦笑を浮かべる。
「いらついていたとはいえ、不用意なことを言う男だな」
半ば独り言のようだったが、内容が気になって問い返す。
「いらついていた?」
まるで、曹操の気持ちがわかっているようではないか。
劉備は、馬超の問いにあっさりと頷く。
「孟徳だって、不必要な戦も殺生も好まない。馬騰殿がもう少し考えた行動をされておれば、あのような殺し方をせずとも済んだと、さぞ不機嫌だったろう」
「…………」
言われたことを飲み込むのに、しばしかかってしまう。
が、理解出来てくると、なんとも言えぬものが込み上げてくる。李恢の話を聞いた時から、もしやとは思ってはいたが。
姿勢を正し、まっすぐに劉備を見つめる。
「玄徳殿、はっきりとお聞かせ願えませんか?貴方と曹操との関係は、一体」
「今のところは、同志というのが最も相応しいな」
間髪入れず、最も恐れていた答えが返る。
大きく目を見開いたまま、馬超は言葉が見つからず、劉備を見つめる。
だとしたら、漢帝国をないがしろにする曹操を排除する仲間として信頼した父の思いは。
わななく唇を、噛み締める。
馬超の表情を見つめる劉備の顔に、いくらか苦いものが浮かぶ。
「これだけ率直に話させていただいたのは、必要なことであったとはいえ、結果的にお父上を騙すことになってしまったからだ」
はっきりと口にされ、必死で拳を握り締める。そうでないと、今の自分が何をするかわからない。
「我らの敵は、人ではないと思うている」
静かに重ねられた言葉に、はっと顔を上げる。
に、と先ほどまでとは異質の笑みを浮かべた顔が、そこにはある。その周囲には、全てを飲み込もうとするような奔流が。
ああ、これが、劉備の気だ。
思う間に、それはかき消える。
迎えてくれた時と同じ暖かい笑みへと変わると同時に、周囲の気も柔らかなものへと変じる。
「急にこんな話をされても、飲み込めなかろう。悪いようにはせぬから、しばし我が軍に身を置かれるが良い」
しばし、の意味は、さすがに考えずともわかる。
「玄徳殿」
困惑しきった顔の馬超の肩に、ほっとする温もりの手が置かれる。
「自分の考えを押し付けようとは思っていないよ。合わぬと思えば、好きになさるがいい。そうとなったからといって、命を狙うような真似はしない。その点は信用してもらいたい」
笑みが、肩から伝わるぬくもりが、言葉の真実を教えている。
不意に、泣きたいような気持ちになってくる。
そうだ、曹操も己が簡単には立ち上がれぬように叩きはしたが、命は奪わなかった。劉備も同じだ。
父は、それに気付いていなかった。
「俺は」
喉に詰まった声で言いかかったのを、そっと留められる。
「こういうことは、答えを急ぐものではないよ。ゆっくりと考えるといい。雨宿りでもする気分でな」
馬超はただ、頭を下げる。
「さ、今日は歓迎させていただくよ。明日からは翼徳の訓練の相手などさせられるかもしれないな」
楽しそうに言うと、劉備は手を叩く。呼ばれた者が平伏すると、慣れた調子で宴の準備を言いつけている。
前後するように、ぞろぞろと入ってきた人々の中から、そっと李恢が近付いてくる。
目線での問いに、こくり、と一つ頷く。
「確かに、見えぬ。だが、見ているものを見たくなったよ」
馬超の答えに、李恢は笑みを浮かべる。
「そうか、良かった。俺も同じなんだ」
その言葉に、馬超も笑む。
久しぶりに、心から。


〜fin.〜
2005.07.03 Phantom scape XXVII 〜Taking cover from a shower〜

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