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琴の音

趙雲が顔を出すと、孔明は軽く頭を下げる。
「夜分遅くに申し訳ございません」
「いえ」
律儀な性分の武将は首を横に振ってから、傾げてみせる。
「何か、火急のことが?」
「明朝には皆に知れますから、先に、と思いまして」
口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「仲達が呼び戻されました」
趙雲の片眉が上がる。
司馬懿、字は仲達。こちらの策略で簒奪の疑いありという噂を流して表舞台から引きずり降ろした男だ。
厄介な人間が出戻って来たはずなのに、孔明の顔には笑みがある。しかも、けして穏やかなものではない。
かつて、見慣れていたものだ。ただ一人の主と決めた男が息を引き取る前までのことだから、もう随分になるが。
それに気付いて、趙雲の顔にも笑みが浮かぶ。
「さて、どうなりましょうか?」
「まず、孟達は駄目ですね」
至極あっさりと孔明は肩をすくめてみせる。
「なるほど、司馬懿はそう動きますか」
趙雲も、そんな短時間で孟達のいる宛城まで仲達の軍が到達するなどあり得ないなどという愚かな反論はしない。必要とあらば、先ずは洛陽へ上って印をいただいてから、などという本来踏むべき形式など無視することは容易に想像出来る。
仲達という男は後の咎めなど恐れもせずにやってのける器量を持ち合わせている。
そうでなければ、策謀でもって追いやる価値など無い。
が、孟達にそれはわかるまい。すなわち、備えが遅れて自ら滅びる、ということだ。
「となると、街亭が危うくなりますね」
「出来うれば守り通したいところですが」
街亭を押さえておけば、天水などの一帯を手にしたままでいられる。長安への足がかりを握っていれば均衡が取りやすくなる。
孔明は、手にした白羽扇を軽く揺らす。
「難しいですね」
二人が学んだこと全てを伝える相手として選んだ姜維は、まだ別働隊を任せられるほどには日が経っていない。彼が軍を率いれば、余計な波風を立てる人間が出ないとは限らない。
趙雲の名を上げない理由は、自身もわかっている。
大軍である魏軍と対峙するには、街亭への一軍のみでは危うい可能性がある。後詰めを置くなら箕谷だろうが、万が一、街亭を落とされた場合、孤立することになる。
下手な将が率いれば、全滅の浮き目を見るだろう。
だから、こちらを率いるのが趙雲だ。
趙雲、姜維が選択肢から外れるとなると、確かに孔明が言う通り、かなり難しい。
灯へと落とされた視線の先で、炎がゆらり、と揺れる。いつの間にか孔明の顔からは笑みが消えている。笑みだけでなく、感情を伺わせるものは何一つ浮かんでいない。
「この機会に、試すことにしましょう」
「試す?」
返してから、思い当たる。
「幼常ですね」
無表情のまま、孔明は頷く。
「ことが見えぬなら見えぬなりの分をわきまえていれば良いのですが、そうでないのならば先には厄介な存在となります。自分に力があるように見せることには妙に長けていますから」
先、とは実力を知り、御する者たる孔明たちがいなくなって後、ということだ。実力以上を過信する者が上に立つのは悲劇でしかない。無駄に命を散らすことになるのは、無数の兵達だ。それは、最もあってはならぬこと。
人の命はいつかは果てるものだから、最後を担う者は全ての後始末を終えておかねばならない。
時に、残酷という言葉でも足りぬようなことであろうと。
孔明は全てを知っていて引き受けたのだと、趙雲もわかっている。己に出来ることは、命ある限りは理解者であり協力者であることだ。
孔明が、微かに首を傾げる。
「子龍殿が街亭を守るならば、いかがされますか?」
問われ、地形を思い描く。
「街道を押さえます」
浅く頷き、軽く眉を寄せる。
「あの地形で、幼常にそれが出来るかどうか。それで話は決まります」
趙雲は、深く頷く。
孔明とて、犠牲を望むわけではない。
願わくは、最悪の選択などせずに済むよう、無言で祈る。



報告を受けた仲達は、不機嫌に眉を寄せる。
「しかとその眼で見届けたのか?間違いは無いか?」
斥候として相手の陣中を伺ってきた兵は、念を押されたのだと思ったらしい。言葉を重ねる。
「は、この眼で確かに。蜀軍の主力は、皆、山の上に陣取っております。街道にも兵はおりますが、少数です」
「ふぅむ?」
納得のいっていないのが、ありありと出ている呟きを漏らしてから、仲達は黙り込む。
口は閉ざしてしまったが、思考の方は返って忙しく働いている。
街亭にすでに蜀兵がいるとの一報が入った時には、見込み通りの男だと思った。
男、とは無論、蜀軍を率いている孔明のことだ。
印を受けずに実際的に動くことを読める相手がいるとしたら、彼しかない。
その上、街亭の重要度を知り、自分の動きを読むほどだ。
もっと賢い男だと思っていたが。
誰よりも早く、己を危険視するだけの情報収集と解析をしてのけるだけの相手と対峙するのを、実のところ楽しみにしていたというのに、これは一体、どういうことなのか。
まるで、踏み破れと言わんばかりではないか。
無論、相手にならぬようなら話は簡単だ。つまらぬものに時間をかけるほど無駄なことは無い。
「陣を指揮している者は誰だ?」
視線だけが上がっての問いに、兵はいくらか身を縮めて返答する。
「は、馬謖だそうで」
ほんの微か、誰にもわからぬほどに仲達の眉が上がる。
「ご苦労。下がれ」
必要最低限の言葉だけを吐き、また黙り込む。
今の相手は、孔明その人では無い。この愚かな布陣は彼の指示では無いという可能性もあるということだ。
そして、仲達の知っている孔明という男は、こんな愚かな布陣はしない。
ならば、街亭を踏みにじって先へと進むしかあるまい。
孔明が目前に現れるまで。
決然とした瞳を上げる。
一言、告げる。
「街亭を、攻め落とす」
立ち上がった視線は、ただ、真すぐに一点を射抜く。



街亭で大敗の報は、箕谷の趙雲の元にも届く。
馬謖が街亭でどのような布陣としたのかを知った時から、兵達には一歩たりとも動くな、と告げてある。それを変える気は無い。
今、趙雲の軍が奔れば、孔明率いる本隊は備える間無く叩かれることになる。
それだけは避けねばならない。
司馬懿が動く、と告げた時、孔明は懐かしい顔をしていた。いかにも軍師らしい、というべきだろうか。
厄介な相手が動くこととなったのに、それを楽しんでいるかのようにさえ映った。
あの表情を見せたのは、孔明だけではない。
趙雲が、ただ一人の主君と決めた男もそうだった。
とある人物と戦う時には、いつもどこか楽しげだった。実際、彼は楽しんでもいたのだろう。
自分と同じ視線の男と、対峙することを。
だが、今、蜀軍に迫ろうとしている男はどうだろうか。
孔明と同じ視線であるだろうか?
蜀軍本隊は、総退却の筋道を整えながら、西城の兵糧を運び出すという段取りとなるだろう。
趙雲が箕谷を離れないとしても、かなり手薄の軍へと殺到するに違いない。
普通に対峙すれば、間違いなく蜀軍は殲滅されるだろう。
街亭が踏み破られた場合の状況も、孔明は予測していたろう。
だが、この圧倒的な兵数の差を、どうするつもりなのだろうか。
そこまで考えて、はた、と膝を打つ。
孔明は、文字通り、顔をつき合わせる気だ。
主君と男のように、膝つき合わせて語らう場は存在しないから。
見えてしまえば、完全に肝は座る。
元々、主君の遺志を継いだ孔明に、全て預ける覚悟は出来ている。
己の役割りを果たすだけだ。
「本隊の退却を確認するまでは、動かん」
厳然と告げられ、兵は深々と頭を下げる。



蜀軍総退却の報が届く前に、仲達は動きはじめていた。
だからこそ、今、西城へと到達しようとしている。
孔明は、魏軍が到達する前に兵糧を運び出し終え、主力は追いつけぬ場に避けているつもりだったのだろう。
そうでなくては、こんな小城に小勢で拠るわけがない。そもそもの規模が小さく、いかに備えるとしたとて多寡は知れている。
街亭と同様、踏みにじることになるだろう。正直、それはありがたい状況では無いのだが。
勝ち過ぎたくは無いのだ。
だが、今の状況はそうせざるを得ない。半ば諦めつつも考えていた仲達は、報告を受けて軽く眉を上げる。
「なに?楼閣の上で、琴を弾いている者がいる?」
「は、四方の門は全て開け放たれ、掃き清められております。周囲には人影もございません」
唯一浮かんだ疑問は、孔明が何を考えているのか、ということだ。
報告を耳にしてすぐに、空城の計という単語が脳裏に浮かんだ。
本来、守り固めるはずの城を開け放って見せ、寄せ手の猜疑心を煽るという作戦だ。確かに、周囲の将たちの顔には戸惑いが浮かんでいる。
だが、肝心の自分は騙されてはいない。
攻め寄せれば確実に落とせると、確信がある。
今、西城とその周辺には主だった将さえいない。
余人ならいざ知らず、この仲達がこのような術にかかる、と本気で孔明が考えているとは信じ難い。
そうでなければ、自分を嵌めて故郷へと追いやるような真似をしようはずがない。
あの時、自国の者たちは欠片すらそんなことを考えてはいなかった。
彼が最も、自分という人間を知る者だと思う。
仲達が、勝ち過ぎたくはないと考えていることを読んでいるのだろうか。だとすれば、周囲の将たちと同様に惑ったふりをして引けば良い。それ自体は、簡単なことだ。
だが、そうだとすれば、最初から街亭を固めてくれていた方が話は早い。
無論、馬謖が勝手をしたという可能性も否めなくは無いが。
可能性ばかりで、どうにも掴めない。
何を考えて、楼閣で琴など奏でているのか。
踏み破ることは、容易だ。
ならば、この眼で確かめてからでも遅くはあるまい。
そう結論して、立ち上がる。
「馬を引け」
楼の上で琴を奏でているのは孔明に違いない。
唯一わかっているのは、それだけだ。

なるほど、戦場だということを忘れれば、風雅と表現したくなる景色だ。
城のみならず、周囲まで見事なまでに掃き清められ、見える兵といえば、形ばかりの門兵のみだ。
楼の上の人物も平服であるのが見て取れる。
何よりも見事と思ったのは、その音だ。
確かに腕はいい。
名手のうちに入るだろう。
だが、仲達が感心したのはそのことではない。
音に、なんの緊張も無いのだ。
心より楽しんで奏でているのが、わかる。
伝わる。
やはり、あの楼の上の人物こそ、いかな者よと考え続けていた諸葛孔明その人だ。
いくらか眼を細め、楼の上を望む。
こちらの動向など知らぬ気に、彼の人は琴を奏で続ける。
ふ、と袖が翻る。
その動きが、天を指したかに見えて、仲達は視線を上げる。
抜けるような蒼い空に、真白の雲。
見慣れているはずのそれに、何か違和感を感じて、軽く眉を寄せる。
もう一度、彼の人を見やる。
距離は充分に取っているのに、視線が合うのがわかる。
それだけでは無い。
にこり、と彼は破顔した。
一瞬、眼を見開いてしまう。
が、すぐに、こちらも笑みを浮かべる。
彼の人へも、充分に通じたようだ。微かに頷いて見せ、また琴へと視線を落としてしまう。
それだけで、仲達にも充分だった。
思った通りの人間だった。
いや、それ以上だ。
全く、なんということだろう?
あの一瞬で、孔明は語ってみせた。
おかわりですね、貴方ならば、と。
ああ、わかった。それはもう、十二分に。
仲達の口元に、苦笑が浮かぶ。
見上げた天へと感じた違和感と、彼の人の笑みと。
意味を覚れなかったら、ここまでのことをしてのけた彼に申し訳が立たぬ。
思った通りの人物ならば、勝ち過ぎたくは無いという点は伝えたいと思っていた。大きな駆け引きを持ちかけるのは、自分の方なのだと信じていた。
なのに、どうだろう?
相手の方がずっと大きなことを考えていたではないか。
自分たちの立場なぞ、些細だと彼は言う。
そんなもの、どうでも良いと彼は言う。
それよりも、天をも欺く戦をしようではないか、とは。
声を立てて笑いたくなるのを必死で堪える。
思っていたよりも、何倍も大きな男だった。
ああ、こんな男に会いたいと思っていたのだ。
同志がいるのならば、天に反逆するのも悪くない。やれるところまでやってやろうではないか。
自分と彼の命がある限りは、完璧にしてのけてやろうではないか。
馬首を返した仲達の顔には、苦虫を噛み潰したような渋い表情が浮かんでいる。
「これは孔明の罠だ!引け!」
総大将の腹の底からの声は、楼の上まで響いたろう。



西城から蜀軍が無傷で引いた、との報に、趙雲の顔にも笑みが浮かぶ。
「では、我らもゆるゆると引くとしよう亅
ほどなく、孔明と生きて顔を合わすことが出来るだろう。


〜fin.〜
2005.10.13 Phantom scape XXVIII 〜Tones of a ch'in〜

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