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河伯へ言付ける

ため息を吐きそうになるのを堪えて、孔明は繰り返す。
「何度も申し上げたらご理解いただけるのか計りかねますが、護衛は必要ありません」
「何度おっしゃろうが、承服いたしかねます」
ぴくりと表情を変えることも無く、趙雲が返す。
「先日の刺客は、間違いなく軍師殿を狙っておりました。一度の失敗で諦めるなどありえませんのに、お一人で視察など言語道断です」
「最低限の護身は出来ますし、軍師が一人で出歩いているとは思わないでしょう」
「ご自分を過小評価し過ぎです。背は高いし肌は白いし目立つんですよ」
「それは服装の問題ですよ。このくらい白いのはいくらでもいます」
更に趙雲が返す前に、伝家の宝刀を抜く。
「我が君にもお許しをいただいております」
さすがに言葉を失ったか、と思ったのは早計だ。面白そうに成り行きを眺めていた劉備へと、きっと視線を振り向ける。
「殿!」
「うん、許可したよ。まぁ実際のところ……」
答えかかった劉備は、ふ、と口をつぐんで視線を明後日へとやる。下手なことを言えば、自分へと飛び火すると気付いたのだ。
「そうだなぁ、まぁ話は自分たちでつけてもらうとしようかな」
「我が君」
返す視線は謝っているが、これ以上の助け舟は期待出来そうに無い。
とうとう、ため息が出る。
「わかりました、子龍殿」
頷かれて、ほっとした表情が浮かぶ。
「ですが、条件があります。絶対に護衛とはばれないこと。私にも、です」
「軍師殿」
「こちらも譲歩しました。子龍殿も譲ってくださらねば」
少々意地が悪い条件を出したとはわかっているが、軍師だとばれないように視察することに意味があるという信条を邪魔されるのは嬉しくない。申し出が暖かいものだとわかってはいても、その点は譲れない。
「決まりだな」
まだ承服しかねると言い出しそうな子龍の口を塞いだのは劉備だ。
にこり、と微笑んで、趙雲の肩を叩く。
「頑張って市井に紛れろよ」
それから、孔明の顔を悪戯っぽく覗く。
「白毒の一件が効いてるんだよ、その点は諦めないと」
「わざわざ話す、人の悪い方がいらっしゃるようですね」
肩をすくめてやると、声をたてて笑う。
「そう言うなよ」
明るく言うと、にやりと二人を見やる。
「報告、楽しみにしてるから」
「人事と思ってらっしゃるでしょう」
劉備は意に介さず、笑みを大きくする。
「面白いことがあるといいな」
「さて、ご期待に添えますかどうか」
孔明は苦笑を返しつつ、もう一度肩をすくめる。

視察開始から数日後。
旅の剣客ということにした趙雲は、名のある武将と知れずに孔明の後をつけることが出来ている。
出立した日は、書生風の姿で人ごみに紛れてしまった孔明を探すのに難儀したが、ようやく見失うことも無くなった。
今のところは刺客の気配も無いので、周囲に視線を配る余裕も出てきた。おかげで、孔明がなぜ、頑なに護衛を拒否したのか、なんとなくわかりつつある。
少々、こちらも頑固だったろうかと思わないでもないが、やはり今回に限っては心配なことに変わりはない。言いはしなかったが、個人的ではなく武将たちの総意だから、途中で放棄するつもりも無い。
それよりも気になるのは、孔明には気になっていることがあるらしいことだ。
町を巡るたびに、憂慮の色が濃くなっていっている。
趙雲の見たところ、新たな領主である劉備への民衆の意識は悪くないし、聞いていた通り豊かな土地だ。
ここに拠っていれば、間違いなく飛躍的に劉備軍の総力は伸びる。そのはずなのに、なぜ、と少々考えに気を取られていると、だ。
「旦那、ちょいと話を聞いてやってくれませんかね」
「え?」
不意に目前に現れた人物は人当りのいい笑みを浮かべている。負っている荷物からして、商人に違いない。
「ぶしつけを許して下さいよ、仕官先を探して旅してると踏んだんですが、間違ってますかい?」
「ああ、そうだが……」
そういうことにしているので、一応は頷く。が、視線は漂う。うっかりしていると、孔明を見失ってしまう。
さほど目立っていないつもりだったのに、困ったことになった。
が、商人は趙雲の視線を辿って、意外なことを口にする。
「旦那も、あの書生さんが気になってるんでしょ?易を心得てるそうでね、ほら、この見事なの見て下さいよ。これを買ってくれたら士官も上手くいくし、こちらも幸せになれるってね、あの書生さんが」
確かに、先ほどまで何やら話してはいたが、商人の言葉を丸飲みにするほど世間知らずではない。
「上物ですよ、書生さんも買っていきなさったし」
まだ、趙雲の視線が孔明を追ってるのを見ながら、相手はたたみ掛けてくる。
言われてみれば、確かに孔明の荷が増えている。それに、今しているのは間違いなく馬を借りる交渉だ。
自分がどこにいるかに気付いていたのはともかくとして、何かをしようとしているらしいことは確かなようだ。
視線を商人に戻して、尋ねてみる。
「いくらなんだ?残念ながら、こっちは仕官前だからすかんぴんだぞ」
「こっちにも福が来るってからなぁ、これでどうです?」
指の数を見て、軽く首をひねると、相手はさらに本数を減らす。交渉にあまり時間をかけているわけにはいかないし、物の状態からしてかなり良心的な値にはなっているだろう。
「買おう、その福とやらも一緒に」
商人の顔が、目に見えて明るくなる。
「やあ、話のわかる方だ。では」
物を受け取り、急ぎ足で孔明が馬を調達していたところへと顔を出す。
「おや、旦那も馬ですかい?」
「ああ、頼む」
どう話が通っていたのかはわからないが、ごくあっさりと馬が差し出される。
礼を言い、慣れた身のこなしで馬上の人となると、鞭を入れる。
人気がほぼ切れたあたりで、馬をゆっくりと進めている孔明へと並ぶ。
視線が会うと、にこり、と微笑んだ。
「余計な散財をさせてしまい、申し訳ありません」
同じ商人から買ったらしい、彼にしては鮮やかな色の着物を羽織った姿は、書生ではなく軍師だ。
「何があるんですか?」
馬から降りないままに買ってきた着物を羽織りながら尋ねる。
「河伯への祭礼ですよ」
どこか冷えた笑みが浮かぶ。
「どこかで聞いたことがあるような話なんですけれどね。場所と状況を追っているうちに城に引き返したのでは間に合わないことがわかったので、申し訳ないのですがご協力いただくことにしたんです」
「私でお役に立つようなことでしたら、いくらでも。ですが?」
河伯の祭礼と、孔明がわざわざ役人然とした格好をしたのと、自分を呼び寄せたのと、話が繋がらない。
「この先の村では、河伯を祭るのに娘を捧げています。しかも、巫女の一党と三老と村役人たちは祭礼の費用を必要以上に村人から集めて私腹を肥やしています」
「!」
そこまで言われれば、なぜこんな展開になっているのかは理解出来る。
「その祭礼が、もうすぐ行われるんですね?」
「はい」
「止めるんですね?」
冷えていた笑みが、不可思議な形に歪む。
「いえ、見学させていただくことにしようかと。少々、参加させていただくのもいいかもしれません」
「軍師?」
どういうことかと尋ねようとした声は、いきなり孔明が鞭を入れた音にかき消される。

劉備直臣の視察と剣を佩いた武将に告げられてしまえば、村人たちに否やは無い。
河伯に捧げる娘に会いたいと言われ、唯々諾々と控えの場へと連れて行く。
萎縮して身を縮めている娘に近付き、顔を覗き込んだ孔明は、酷く驚いた顔つきになる。
「これはいけない」
驚いた顔のまま、趙雲を振り返る。
「子龍殿、いかが思われますか?このような娘に河伯が満足するでしょうか?」
いきなり話をふられて目を見開いた趙雲は、孔明がなにを言わんとしているのかを理解して、小難しい顔を作る。
「この娘ですか?とてもそうとは思えませんね」
「後日、河伯にご満足いただける娘を用意すると伝えましょう。そうですね、巫女殿は河伯とのお付き合いも長いでしょうから、お願いいたします」
にこやかに振り返った瞳が、作戦を告げる時のものと同じのに気付いた趙雲は、大股に近付いて老婆の手を取る。
「ひ?」
大きな男にしっかりと腕を捕まれ、村人たちよりずっといい着物を着た老婆は目を見開いている。
顔を覗いた娘は骨ばっていたのに、掴んだ腕は老婆のくせにぶよぶよと肉がついている。どんな生活をしているのかが伺われて反吐が出そうだ。
この手の人間には口で言ったところでなんの益も無いことを知っている。
「では、お願いいたします」
無表情に告げると、無造作に河へと投げやる。
姿が見えなくなって、ややしばし。
何が始まったのかと硬直したままの村人たちの中、ゆっくりと首を傾げて見せたのは孔明だ。
「おかしいですね、話がつかないのでしょうか。お弟子さん方にも行っていただきましょう」
「そうですね」
ごくあっさりと頷き、趙雲は弟子たちの手も取る。
恐怖に目を見開いているが、今まで何人もの娘たちを同じ表情にしていたのに平気だったろうと心で返して、同じように河に投げ入れる。孔明の顔色も、全く変じない。
適度な間をおいて、川面から視線を戻す。
「女性では、話がつかないようですね。三老ならば、河伯への礼儀も心得ているでしょう」
ぶよぶよと太った老人たちが水面下へと消えて行き、もう一度振り返った時には、役人たちが額から血を流さんばかりに地に頭をつけている。
「どうか、どうかお許し下さい!」
「河伯のところへやるのだけは!」
ややしばらく、度し難き者というように見つめていた孔明は、やがて静かに口を開く。
「どうやら、河伯は客人をしばらく帰す気はないようですね。しばらく待つとしましょう。それまでは娘を捧げるのは保留です」
語気のどこにも強さはないのだが、否を言わさないなにかがある。
「巫女と三老の財産は処分して村人たちでわけるといいでしょう。近いうちに再度、視察を寄越します」
わけるといい、というのは言葉上だけで、分け与えろと命じているわけだ。役人たちの懐からも出さねば処罰が待っていると暗に示してもいる。
「行きましょう」
「はい」
言葉も無く平伏し続ける役人たちを背に歩き始めた、と思ったのに、孔明はくるり、と役人たちとは反対側へと向く。
小さくなったままでいる、生贄になるはずだった少女の耳元へと何事か囁くと、今度こそ振り返りもせずに歩き出す。
ちら、と少女を見やると、なにやら頬を染めて孔明を見送っている。が、趙雲の視線に気付くと、慌てて頭を下げてしまった。

再び馬上の人となってから、趙雲は孔明の隣へと並ぶ。
「嫌な役目をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げられて、趙雲は首を横に振る。
「いえ。しかし、なかなか思い切った荒療治でしたね」
「先人に倣っただけなんですよ」
「先人に?」
にこり、と笑みが返る。
「魏の西門豹が、同じ問題に対処した記録があるんです」
「ははぁ」
いくらか兵法書は学んだが、史書はあまり詳しくない。曖昧に頷く。
「子龍殿のおかげで、楽に解決出来ました。ありがとうございました」
もう一度頭を下げられ、趙雲は慌てて首を振る。
「や、お役に立てたようで、何よりですが」
「今回はこのまま馬をお借りしていけるようですから、城まで戻ることにしましょう」
ゆっくりとした歩みから、いくらか速度を上げたのへと馬を並べる。
「あの、軍師殿!」
なにか、というように首を振り向けた表情は硬くない。
「その西門豹という人の記録はどの書物にあるんでしょうか?」
「史記の魏世家に」
さらりと答えが返る。
前を見た孔明の顔に不可思議な笑みが浮かんだ意味を、趙雲はまだ知らない。
二人で演じたちょっとした茶番の最後を飾った言葉は、史書には記されてはいないのだ、ということを。


〜fin.〜
2006.09.10 Phantom scape XXIX 〜leave a word for river god〜

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