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綾錦に染まる

視線が合ったのは、どちらからともなくだ。
階上の人へと、階下の人が微笑む。
「軍師殿、珍しいところにいらっしゃる」
階上の孔明も、笑みを返す。
「そうでもないのですが。公佑殿、お願いをしてもよろしいですか?」
「構いませんよ、ちょうど暇を持て余していたところでしてね」
あっさりと頷き返すのに、孔明は少し首を傾げる。
「子龍殿がお手隙のようでしたら、来ていただけないかと……」
らしくなく語尾が薄れたのに、孫乾は軽く目を見開いて疑問を示す。
「いえ、そうたいした用では無いものですから。子龍殿のことですから、我が君のご用件が無い場合には、きっと」
「確かに」
孫乾も、苦笑を返す。
あの堅物のことだ。きっと、なんらかの鍛錬をしているのに違いない。緩んでいる、という時の無い人間だから。
「孔明殿の用件がたいしたことない、というのも珍しい話ですけどね?」
言われて、孔明は微かに照れくさそうになる。
「そうですね。ですが、これは惜しいかな、と」
視線が遠くへと行ったので、孫乾も振り返って孔明の視線の方へと目をやってみる。
そして、思わず、息を飲む。
「ああ、これは……なるほど」
再度、孔明を見上げて、満面の笑みを浮かべる。
「これは確かに、惜しいですね。先ずはご用件をこなしましょう。それから」
中途で言葉を切るが、言いたいことは充分に伝わったらしい。孔明は、微笑んだまま頷く。
「ええ、無論」
「そうしないと、後がうるさそうですからね?」
肩をすくめてみせ、孫乾の後姿が遠ざかっていく。
見送って、孔明の視線はまた、遠くへと投げられる。

ややしばしの後、急ぎ足で近付いてくる足音に、孔明は笑いを堪えてから、振り返る。
「子龍殿、ご足労をおかけしまして申し訳ございません」
丁寧に頭を下げられ、いくらか狼狽したように趙雲は目を見開く。
「や、そのような」
が、すぐに真顔に戻って、孔明の前に直立不動で立つ。
「なにやら、俺にご用件とのこと。何事か、ございましたか?」
予測通りの反応に、孔明は浮かびかかった苦笑を白羽扇の影に隠す。
「いえ、懸念されていらっしゃるような何事も起こってはおりません」
では一体、なぜここに呼ばれたのか、という疑問と戸惑いが全身に浮かぶ。本当に、自分の背後の景色は全く目に入っていないらしい。
だが、この集中力に、いつも助けられているのだ。何が起ころうと、必要だと判断したものから絶対にぶれない精神力に。
暖かいものが浮かんできて、ごく自然に笑みを形作る。
「もしかしたら、でしかないのですが……」
視線を、背後へと移していく。
釣られるように、趙雲の視線も外へと向く。
遠く見える山々が、染め上げたかのような色にあふれ返っている。
軽く、息を飲むのが聞こえる。
「こういった景色が、お好きではないかと思ったのです」
振り返って、告げる。
「ええ、確かに……懐かしい景色です」
幼い頃過ごした場所を、きっと思い出させる色々。
はた、としたように視線が孔明へと戻る。
「軍師殿は、どうしてこれが?」
孔明は、軽く肩をすくめてみせる。
「もしかしたら、と思っただけですよ」
出身地を劉備に聞いたとか、種明かしをしようと思えば無いわけではない。でも、それは些細なことだ。
目前に美しい景色があって、それはきっと趙雲が好きだと思った。
だから、呼んだ。
きっと、それで充分なのだと思う。
趙雲もそれ以上は尋ねようとせず、視線は再び景色へと向かう。
ややしばしの、無言の間の後。
ぽつり、と声が聞こえる。
「呼んでいただき、ありがとうございます」
「お気に召したようで、何よりです」
まるで、それを合図にしたかのように聞き慣れた足音が近付いてくる。
「ほう」
「こりゃ、すげぇや!」
劉備の感嘆の声をかき消すような大声は、無論、張飛だ。
「特等席ですな」
笑みを含んだ声は、関羽のもの。最後に、孫乾の柔らかな声。
「さすが軍師殿、どこが絶景かよく心得ていらっしゃる」
ただ景色を楽しむ為に来たわけではないことは、姿を見なくてもわかる。
「少々狭いのが難点ではありますが、この景色なら帳消しに出来ますでしょう?」
笑みと共に、孔明は振り返る。
「ええ、無論」
趙雲も笑みを返す。
酒を手にした劉備たちの姿が、楼の角から現れる。


〜fin.〜
2006.12.05 Phantom scape XXXI 〜Brocaded view〜

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