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偃月に動かず

下弁まで進軍してきた馬超は、自軍の防備を固めたまま、一向に動かない。
何日経とうが、微動だにしない。
焦れたのは、曹操軍ではなく自軍内の武将だ。口々に馬超へと不満を述べる。
「我々は、漢中を攻める為に、ここまで来たはずではないですか」
「なぜ、目前の敵をみすみす見ているだけなのですか」
彼らの焦燥はもっともだ。
馬超とて、涼州で自ら対峙した時にはそうだった。まして、親兄弟の仇なのだ、平静でいられる訳が無かった。
だが、今は違う。
劉備と出会って、そして知ってしまった。
目前の戦など小さなことと言い切れるほどに、遠くを見つめる視線があるのだ、と。
天と地を、遥かに見透かす度量がある人間がいるのだ、と。
何を見据えているのかまでは、わからない。
だが、彼らのおかげで、今の自分は永らえている。
だから、見てみたいと思うのだ。
彼らの見据える、その景色を。
敵は人ではないと言うのなら、真の敵は何者なのかを。
その為には、主君と決めた劉備が示すよう、動かねばなるまい。我らが軍師と仰ぐ白皙の人の、指示は明快だった。
最初に敵に対峙した方は、けして動かぬように。
焦れて、もう一方に動けば、事は簡単になります。
だから、五万の敵を相手に動かずにいる。
もっとも、こうして冷静に対峙していると兵力差は明らかなことで、拠っている武将らも侮れない。
真正面から、まともにあたるのは、確かに軍師が告げるとおりに愚かな真似なのだろう。
だから、一つ大きく息を吸い、問う。
「焦っておられるのか?」
「焦らずにおられますか?敵は目前なのですよ?」
一人が口角から唾飛ばす勢いで言えば、もう一人も続く。
「そうです、孟起殿という一騎当千の大将をいただいておるのです、攻めれば一気呵成に落とせましょう」
「恐らくは」
武将たちの言葉には頷かず、馬超は言う。
「相手はもっと、焦れている」
「なんですって?」
不可思議なことを言われた、というように武将らは目を見開く。
「俺の無謀なくらいな戦いぶりは、彼らは良く知ってる事実だ。俺の親兄弟の仇であり、深く恨んでいることも、攻め上ってきたのはこちらだ、ということもだ」
あまり口数が多い方ではない馬超が、何か言葉を尽くそうとしているのはわかったのだろう、武将らは反論することなく頷き返す。
「だから、日々、俺が攻めかかるのは今日か明日か、昼か夜かと焦れているに違いない」
焦れる、という点については同情したいくらいに同意出来るのだろう、深く頷く。
「焦れれば、急く。急いた方が、負ける」
そこまできっぱりと言い切られてしまえば、表立った反対は出来ない。
馬超は、継ぐ言葉を失った武将たちへと、真摯に言う。
「逸る気持ちは、よくわかる。が、ここは耐えどころだとわかって欲しい」
「将軍が、そこまでおっしゃるならば」
頷き返されて、馬超は内心、息を吐く。

焦れた将を抑え切れなかったのは、曹洪の方だ。
張コウ率いる三万の兵が、巴西へと向かったと報が入る。
かの地では、張飛が手ぐすね引いて待ちかまえている。彼が、敵が目前にいないからとやみ雲に進軍してはいないことは、知っている。
それも、軍師の指示だ。
軍令を拝命して、渋い顔をしつつも張飛が頷くのを見た馬超は、劉備たちの前を辞してから、問うてみたのだ。
「待つのか?」
「軍師が言うんじゃ、しょうがねぇや。不思議だって思っても、いつだってそれが当たりなんだもんよ」
がしがしと頭をかきながら言う様子は、納得してないのではなさそうだ。
その証に、馬超を見やって、にっ、と笑う。
「孟起も大人しくしといた方がいいぜ。絶対、後から、こういうことかって思うからさ」
「そういうものか」
だが、どうしてという理由がわからないのでは、腑に落ちろと言われても困ると思った。それを知ってか知らずか、張飛の笑みは大きくなる。
「軍師も、意外とアレでお茶目だからな。俺らが驚くのが楽しみなんだろ」
必要外には口をきかない、物静かな人間を捕まえてお茶目とは恐れ入る。が、馬超よりよほど諸葛亮という人間を知っているのは張飛の方なので、大人しく頷いた。
なるほど、と、今、馬超は確かに納得している。
焦れて進軍する張コウは、山間の隘路も気にしないだろう。
自然、伏せたように陣取っている張飛のいい餌食になる。
初戦はこちらの勝利になるだろう。
劉備たちが見据える先を見る為に、まだしばし、ここに留まっていなくてはなるまい。
「まだ、こちらが動くのは尚早だ」
将らを抑えつつ、馬超は彼方を見やる。


〜fin.〜
2010.05.07 Phantom scape XXXIV 〜Not proceed on the quarter moon〜

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