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十三夜に美酒

張飛は、彼方を見やりながら軽く後頭部をかく。
「さーてと、こっからは俺が考えねぇとなあ」
ぼそり、と呟く。
あちらが焦れるまでは動くな、とは孔明の指示だが、その後は何も言われてはいない。前線の将として出てきたからには、やることは一つだ。
漢中奪取の足掛かりとして、この巴西を落とす。
その為には。
初戦に敗れたのによほど懲りたのか、陣を十重二十重にしてこもってしまった張コウを、だ。
「どうやって、引っ張り出すかなあ」
雷同を使っての罵倒作戦は、あまりはかばかしくなかった。それどころか、逆に誘い出されて軽い負け戦だ。
あちらに勢いを与える訳にはいかないから、次は絶対に勝たねばならない。
勝つには、敵が出てきてくれないことには話にならないのだが。
「やっぱり、俺がやるか」
口をへの字に曲げながら言う。
何を、というとだ。
「おい、俺がやるぞ。何人かついて来い」
蛇矛を手に、大股に歩きながら言うと、数人が顔を見合わせてから、走るように追いかけてくる。
ひかれてきた馬に乗ると、軽く鞭を入れる。
張コウの陣地近くまでやってきて、やりだしたのは罵詈雑言の嵐だ。
声も大きいが、語彙がすごい。
ついて来た兵士たちでさえ、最初は目を白黒させながら和していたが、そのうち楽しくなってきたらしい。
勝手に色をつけてやり出している。
ようは、子供の喧嘩並なのだが、意外と効果があるものだ。
あちらの陣に見える兵らが、煮えた顔つきになっているのが、ちらほらと見える。
が、張コウは初戦の敗北が、よほど深く身にしみたと見え、動く気配は無い。

文字にするのははばかられるような罵詈雑言を浴びせ続けて、数日。
やはり、張コウは動かない。
陣に戻った張飛は、後頭部をかく。
「んー、こうなると後は一つなんだけどな」
「一つ、ですか」
一緒に罵詈雑言を浴びせに行った配下が、首を傾げる。
「ああ、一つだな。あと一息だってのは確かだからよ」
かなりあちらの兵士たちは、苛々を募らせているのは見て取れた。初戦の勢いからして、張コウもそう気長の方では無いはずだ。
なんせ、焦れて出陣してきたくらいなのだから。
元々は自分がそういう性質だ、手に取るようにわかる。
こうして抑えてやってるのは、一重に軍師の言うことは聞いといて間違い無い、と知っているからだ。
「次に報告に行くの、誰だ?」
「呼んでまいります」
すぐに走っていくのを見送りつつ、張飛はもう一度後頭部をかく。
「張コウが閉じこもってるってのは言ったから」
言葉通り、使者に立つ兵士がすぐに来る。
「ご伝言、承ります」
膝をつくのへと、張飛は無造作に言いやる。
「おう、翼徳が酒やりだしたって、言ってくれ」
「はあ」
使者も、呼んできた兵士も、ぽかん、と目を見開いてしまったのは仕方あるまい。
日頃のことを思えば、さもありなん、だ。が、これしかないのだから、仕方が無い。
「急げよ、調子出ねぇと上手くいかねぇ」
当人にしか意味不明のことを言ってのけると、張飛は呼んできた方の兵士へと告げる。
「で、お前は酒盛りの用意だ」
本当に酒をやり出す、と知って、ますます兵たちの目は丸くなる。



使者からの伝言を聞いた劉備は、いくらか眉を寄せる。
「翼徳が、酒を?陣中でか?」
「はい、陣外にも聞こえる大騒ぎで」
出立の準備を整えて出る頃には、そうだった、と思い出しながら兵が返す。
「張コウが出てこない、とは言っていたが」
ますます、眉が寄る。
小さく笑ったのは、孔明だ。
「孔明?」
「陣中では、良い酒は手に入りますまい。成都の美酒をお送りになるのが良いかと」
「おい、煽るようなことを言うなよ」
珍しい困り顔で、劉備は返す。
張飛の酒での失敗は、身に染みている立場だ。またも酒と聞いて頭痛がしそうなくらいなのに、孔明の言い方はまるで、もっと飲ませてやれと言わんばかりだ。
「ええ、煽るのが良いと申し上げております」
白羽扇の向こうだった笑みが、はっきりとしたものになる。
「ただし、張コウを」
確かに、張コウは焦れて出陣したくらいの猪武者だ。初戦に敗れて反省しているとはいえ、煽られ続ければ、また焦れるだろう。
それに、張飛の酒好きは誰もが知るところでもある。
にわかには信じられない顔つきで、劉備は問う。
「翼徳は、飲まれないか?」
「大丈夫です」
きっぱりと、孔明は言い切る。
「絶対に」
慎重であるはずの孔明に、絶対と言われれば確実だ。
劉備も、笑みを浮かべる。

対陣中にはふさわしく無い、華やかな行列に敵も味方も、何事かと目をみはる。
やがて見えてきた大幡に、張飛は物見櫓から手を叩いて大喜びだ。
「こりゃいいや!さっすが軍師だな、やっぱ、わかってるぜ!」
樽を積み上げた荷駄の先頭には、見るも鮮やかな黄の錦旗だ。風になびくも重そうなそれには、几帳面かつ流麗な文字で、陣前公用の美酒、と大書されている。
あの大変に読みやすい文字は、相手方にも良く見えているだろう。
今頃、張コウは馬鹿にされていると切歯しているに違いない。
握り拳を左掌で受けながら、口角を持ち上げる。
「よーし、お前ら、宴の準備だ!」
「宴、ですか?」
戸惑った問いに、おう、と張飛は返す。
「酒盛りも、戦もってことだよ」
「はいっ」
合点した兵が走り出した後ろへと、更に声をかける。
「いい酒全部は出すなよ、後の楽しみだ」
「もちろんです!」
声だけが返ってくるのに、張飛の口角は、さらに高く上がる。
「よっしゃ、やるか」
大股に段を降り、そして蛇矛を手にして軽く回す。
切っ先が、風を切る。


〜fin.〜
2010.05.10 Phantom scape XXXV 〜Toast to the moon thirteen nights old.〜

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