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烟月に据わる

報告を受けた趙雲は、一瞬、唇を噛みしめる。
「漢升殿が戻られていないのか」
「は、陣には一兵も戻っていません」
すでに、日は暮れかけている。孔明の言うところの刻限は、とうに過ぎている。
黄忠が豪語した通り、勝利して進軍を続けているなら、一報くらいはあるだろう。
ならば。
趙雲は、傍らの槍を手に立ち上がる。
「出陣だ、かがり火を用意しておけ」
「はっ」
報告をもたらした兵は軽く頭を下げると、すぐに天幕の外へと走り出す。
すぐに引かれてきた愛馬の手綱を引き受けながら考える。
劉備自身が動き出すと同時に、曹操も大軍を率いて漢中へと向かっているとの報が入った。
逸ったのは、定軍山を守っていた夏候淵だ。主の親征を待つ前に、漢中から劉備軍を追い落とそうとしゃかりきになった。
相手に立ったのは、またも黄忠。
二度目の出陣も、また孔明に老人には危うかろうと煽られてのものだった。ただし、二度目は法正がついた。
じわじわと山麓に近付いて相手を誘い出して初戦に勝利してみせ、その後は定軍山より高い山を占領して夏候淵を激昂させ、見事、引っ張り出して切り捨てた。
いよいよ曹操が近付いて来た今、北山を攻めることと決定したのは、つい先日だ。
更にの出陣を望んだ黄忠は、二度までの功を誇った。拒絶するには、少々難しい状況であった、ともいえる。
が、今回は後詰が趙雲となった。
孔明に先に言われていたのだ。黄忠が出陣を望んだら、自分も先陣を望んでほしい、と。
結果、くじを引いて趙雲の方が後詰となった。
そして、孔明は、老将軍の後ろ姿を見送ってから、少々難しい表情をしたのだ。
「三度は、多過ぎますね」
「だから、後詰が子龍なんだろう?」
はなから、くじの結果がわかっていたかのように劉備が返す。
「子龍殿しか、後詰出来ないでしょう。機を逃さぬようにして下さい」
「承知いたしました」
いつが機か、と言わないところは孔明の信頼だ。応えるしかない。
「逸らしさえしていただければ、後はお引き受けします」
「引き受ける、とは?」
問うたのは、劉備だ。孔明は、にこり、と笑みを浮かべる。
「孟徳殿は四十万も連れていらっしゃったとか。正面から当たるには多すぎるので、少々調整をさせていただこうかと」
至極あっさりと告げられた言葉に、趙雲は軽く目を見開く。
「軍師は、漢升殿が苦戦すると思われていらっしゃるのですよね?」
それで、相手の数を減らすとは。
孔明の笑みが、深くなる。
「ですから、機を逃さずお願いします」
要するに、事の成否は趙雲自身にかかっているということだけは確かなのだ。
今が機と見たからには、動くしかない。

北山の戦場へと辿りつくと、張コウのみならず徐晃までが戦列に加わっていた。
なるほど、さすがの黄忠と言えど苦戦するわけだ。
が、趙雲にとっては問題のある数では無い。
徐晃と張コウを代わる代わるに相手し、さすがに息が上がりつつある黄忠を助け出すと、三々五々に散っている彼の部下も戦列外へと送り出す。
「ともかくも、漢升殿は引いて一息入れて下さい。城には用意もありますから」
「御辺は?」
「僭越ながら、殿を。相手も疲れております。さほどはかかりますまい」
助けられた手前、大言は吐かないものの納得のいかなそうな顔つきの老将軍へと、趙雲は黄忠が相手を疲れさせたのだ、と暗に告げる。
「承知した」
趙雲の言葉に素直に頷くと、黄忠は疲れた自身の部下たちをまとめて先に引いて行く。
後に残るは趙雲が引き連れてきた精鋭ばかりだ。しかも、戦場に到着したばかりなのだから、疲労の差は歴然としている。
さすがに持たず、張コウと徐晃の軍は引いて行く。
趙雲も、深追いはせずに引き上げを指示する。
孔明は、曹操直下の四十万の数を減らしたい、と言った。今の兵を追ったとて、さほどは影響無い。
ということは、だ。
何方向かに放っていた斥候の一人が、息を切らして戻ってくる。
「将軍、あちらから曹軍が」
「どの道だ」
落ち着いた声音に、慌てたようだった斥候もいつも通りの丁寧な報告を返す。
「そうか」
とだけ返すが、このまま相手が進軍すれば、先ほど黄忠たちが引いた城へと到達する。四十万、と孔明は言った。
まともに攻め寄せられれば、あっさりと踏み潰される。
逸らせ、と孔明は言った。後は引き受ける、とも。
「細道だな。よし、出鼻を挫く」
愛馬の首を軽く叩いてやると、ぶる、と馬も応える。
「行くぞ」
おう、と空気がどよめき、地響きが続く。

宣言通り、曹操軍の先頭部隊を疾風のように翻弄して城へと取って返す。
が、事はそう簡単には収まってはくれない。
「曹軍は、こちらへと刻々向かっている模様です!」
大軍であることは、その地響きと旗の多さでわかる。特に斥候はその人数まで把握してくる役目だ。
具体的に聞かずとも、顔色でその状況は察しがつく。
ようは、先ほどの奇襲は多少の時間稼ぎ程度、ということだ。
が、趙雲にとっては、それで構わない。
「四方の門を開けろ。誰も来るな、俺一人でいい」
「な?!」
驚き慌てる部下たちに、口の端を持ち上げてやる。
危機の時ほど笑えと言ったのは誰だったか。
酷い負け戦の後でも、劉備はいつも前を向いて笑う。
皆、生きてたか。また一緒に行ってくれるか?ありがたい、と。
大軍を前にして、孔明も笑みを浮かべる。
大丈夫ですよ。策はこの手に、勝利は、我が軍に。皆が協力してくださるなら、絶対に、と。
信じてくれる、皆の為に。
ここを死地とする気は、微塵も無い。だから、言ってやる。
「表に出るのは、だ」
考えがあると知って、兵たちは、耳をそばだてる。

北山の城へと寄せた曹操軍は、誰もが目をみはる。
正面の橋に、武将が一人。
馬に乗り、槍を携え、微動だにしない。
「趙雲だ」
「趙子龍だ」
誰からとも無く、声が漏れてくる。
かつて長坂で劉備軍を追い詰めた時、劉備の一粒種を抱いて一人、無人の野を行くように曹操軍を駆け抜けた将。
それが、ただ一人。
同じく長坂で、橋の上に一人、曹操軍を防いだ将がいた。
大喝一声、大軍が震えて浮き足立った。
同じことが、また。
空気が揺らぐ。
が、誰かの怒声が聞こえる。
「相手は一人、あの橋を越えた先は小城だ!」
そう、橋の先には逃げ走る大地は無い。
我に返った大軍が、ぞろ、と動き出す。
どっと寄せてきた切っ先が、あと少しで橋にかかる、その瞬間。
さ、と槍が空を切る。
同時に、風が鳴る。
次の瞬間、向かっていたはずの兵はどっと倒れていた。
風を鳴らした正体は、地のすれすれを飛ぶ矢だ。
「小癪な!」
「おのれ!」
何が起こったのか悟った先陣の将たちが、またも、どっと寄せる。小城の矢の蓄えなぞ、すぐに尽きると割り切ったのもある。
が、二度目の風も、見事に兵らをなぎ払う。
三度目で、やっと気付く。
趙雲は、距離を測っているのだ、と。
橋に近付くには、どうしても小さな輪にならざるを得ない。輪が最小限になり、確実に矢が射止められる瞬間に彼の槍は風を呼ぶ。
無駄矢を、一切出す気が無い。
これで、十分に休憩をとった弓上手の黄忠が現われでもすれば、ますます曹操軍の犠牲は大きくなるに違いない。
確かに、いつかは矢は尽きるだろう。
が、それを待っているだけ時間の無駄だ。
誰かが、そう判断したらしい。
十度、風を鳴らす前に、曹操軍は進路を変える。

劉備軍本拠へと帰還した趙雲は、曹操軍は米倉山へと避けようとして、待ち構えていた劉封と孟達に叩かれた、と聞く。
天幕では劉備と孔明が待っていた。
「子龍殿、際どいところをありがとうございました」
「まさか一人で大軍の前に立つとはな。肝が据わっているというか」
苦笑気味になった劉備は、趙雲の肩を軽く叩く。
「無理は、しすぎるなよ。命を失ったら元も子もない」
「無論です。さような無理はしておりませんから」
元々、生きて帰る気であの作戦を遂行した。
「殿と軍師殿が目指すことに必要と判断したまでです」
劉備と孔明は、どちらからともなく顔を見合わせる。
ふ、と柔らかい笑みが、趙雲へと向けられる。
「ありがとう、子龍」
「頼りにさせていただきます」
孔明が言うと、劉備の笑みは悪戯っぽいものへと変化する。
「早速に、だろ?」
「ええ、実は」
肩をすくめてみせるのに、趙雲は生真面目に返す。
「俺で、お役に立つのでしたら」
「子龍殿にしか、出来ぬことです。見つかれば、即、命を失うことになりましょうから」
だが、それを趙雲に託そうというのだ。
「どのようなことでも」
笑みを乗せて、拱手する。


〜fin.〜
2010.05.11 Phantom scape XXXVII 〜Bravery on the misty moon〜

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