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晦に勝鬨

火矢が、上がる。
夜襲というのではない。かといって、緊急の用件があるようでも無い。
ただ一本、ひらりと上がって、はらりと落ちる。
陽平関の上からでは、それは小さな光の点でしか無い。
だが、曹操は、あれが火矢だと知っている。
劉備が上げる、挨拶代わりと知っている。
「今日も、決定打は無しか」
五界山での決戦から、かなりな間が経つ。あの日は、孔明の見事な陽動で曹操軍は敗北を喫した。この対戦での真の拮抗が始まった訳だ。
曹操軍は、南鄭、褒州、ロウ中から引くこととなったが、どの箇所でも大きな戦闘は起こっていない。
対峙しつつも、下手な動きが無いから、犠牲も無い。
いい状態なのだが、そろそろ天がしびれを切らす頃だ。
頃合だ。
頭痛から開放されたここ数週間が終わってしまうのは、実に惜しいけれど。
宴は、いつかは終わるものだ。
ただ、切欠は必要だ。
弓を手にすると、そこらのかがり火を少しだけもらってから、放つ。
それから、うっすらと笑みを浮かべる。
「ついでに、掃除も兼ねるか」

小手をかざしていた劉備が、ほう、と小さく呟く。
「孔明、頃合のようだ」
「ええ、そうですね」
静かに返した孔明は、視線を空へと上げる。
夜空には、満天の星。
孔明にとっては、それは全てが書かれた壮大な書物だ。
「孟徳殿が久しぶりに出陣しますので」
予測ではなく、事実として言う。
「こちらからも、切欠を創る必要がありますね。子龍殿にお願いしましょう」
「わかった、呼ぼう」
少し歩を進め、ほど近いところにいるはずの衛兵に声をかけるべく動いた劉備だったが。
「ああ、子龍だったのか」
夜毎、陣から少し離れたところに行っては、火矢を放つ主従をそっと護衛していたものらしい。
「お邪魔してしまい、申し訳ありません」
律儀に頭を下げるのに、苦笑を向ける。
「いや、ついて来てくれてる者があるのは知っていたが、子龍なら安心だ。助かるよ」
「いえ、それより、何か」
「ええ、お願いしたいことがあります」
少し首を傾げた趙雲へと、孔明が笑みを向ける。
鮮やかな色があればあるほど、次に口にすることは難儀なことだ。それを知っている趙雲は、少々姿勢を正す。
「何でしょう?」
「明日、遅くとも明後日には、孟徳軍と戦闘になります。その際に、孟徳殿へ殺さない程度に矢を放っていただきたいのです」
難儀なことを頼まれるのだろう、とは予測していたが。
「は……」
思わず、目を見開いてしまう。
矢を放つが、殺すな、とは。
「けん制、では無いのですよね?」
そうだったなら、そうとはっきり言うはずだ。案の定、孔明はにっこりと微笑む。
「ええ、総大将の怪我は、総引き揚げの理由に十分なり得ます。ですが、命に関わってはいけません」
遠くから、動かぬ相手に仕掛けるならともかく、だ。
混乱をきたした戦場でそれをやってのけるとなると、相当に難しい。
耐え切れず、劉備が笑い出す。
「孔明、確かにそれは確実だが、いくらなんでも無茶が過ぎるぞ」
「いえ、誰もが納得せねば意味がありません」
全く動じる様子無く、孔明は返す。誰も、といういう部分が強かったことに、趙雲も気付く。
劉備が、真顔に戻る。
「ああ、そうか。となると、子龍に踏ん張ってもらうより他無いが」
「殿と軍師殿が、必要とおっしゃるならば」
つ、と拱手する。
「軍師殿、一つお伺いしても宜しいでしょうか?」
「はい、何でしょうか?」
静かに問いかける孔明へと、拱手したまま趙雲は尋ねる。
「俺ならば」
「当然、必ずと思ったからお声をかけました」
必要な答えは、無駄なく返る。趙雲は、笑みを返す。



翌々日。
曹操軍の突然の進軍を、待っていたかのように劉備軍は受け流す。
それどころか、まるでこの日を読んでいたかのように絡手となる関内へと回り込んでいた馬超からの火攻めを受け、曹操軍は潰走しだす。
途中、どこからともなく飛来した矢で、曹操は前歯を折り去る。
口の中に溜まった血を吐き出しつつ、曹操は苦笑する。
「ったく、容赦ない」
心配する緒将へと、指示を出す。
「大事無い、だが撤退だ。総軍、帰還だ」
意味するところは、一つ。
漢中を放棄する、ということ。
悔しげになりつつも、戦況からしても反撃は難しいと判断した緒将は、大人しく従う。
馬の背から見上げるのは、抜けるような空。
に、と口の端を持ち上げてやる。
お前なぞの思い通りになるものか、と小さく呟く。

一方向へと整然と動き出した曹操軍を見て、孔明は攻撃停止を指示する。
「深追いはしなくていいでしょう、漢中は我らのものですから」
通る声は、すぐに指示となって全軍に飛ぶ。
勝ち戦に沸く皆の声に応えながら、劉備は空を見上げる。
雲ひとつ無い、快晴の空を。
ふ、と笑みが浮かぶ。
お前に従う気なぞ無い者は、一人じゃない、と呟いてから、皆へと向き直る。
「勝鬨だ!」
この抜ける空の彼方の存在への。


〜fin.〜
2010.05.14 Phantom scape XXXXI 〜They give a shout of victory on the last day of the month.〜

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