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官服に剣

最初に感じたのは、不審だ。
「呂布が、殿の加勢に来た、と?」
問い返された伝達の者は、肯定と共に書簡を差し出す。
手にした荀文若は、すばやく視線を走らせる。父の仇討ちと銘打った、曹操の凄惨な徐州攻めはすでに周囲の知るところではあるだろう。
が、それに加勢するとは、呂布が何らかを狙っているとしか思えない。
文字を追うにつれ、その端正な眉宇が、はっきりと寄せられる。
「使者は、まだ客間ですか?」
「はい、お会いになられますか」
「ええ、会いましょう。その前に仲徳殿を」
心得た伝達担当の文官は、頭を下げてすぐに動く。
まだ、勘だけで根拠は無い。だが、それを待っていては遅きに失する。
使者に会うと言いながら、この場から動かないのは考えをまとめるためと、それから。
待っていた相手は、すぐに現れる。
「どうした、文若殿」
「呂布が徐州攻めの加勢をするからと、四十万人分の兵糧を要求してきました」
それでなくとも細い程仲徳の目が、更に細くなる。
董卓亡き後、政争に敗れて落ちてきた呂布には、直属部隊以外の兵はいない。単独で四十万もの兵を率いることなど出来ないはずなのだ。
「人数からして、張孟卓が、いや張バクが反旗を翻して呂布に兵を与えたと考えるべきでしょう」
「報が入らぬまま、ここまで到達したってことは、まずいな」
「ええ、色々な意味で。ですが、その点は後回しです」
機嫌の良くない口調に、程仲徳は皮肉に口元を歪める。
「まあなあ、親父さん亡くしたばっかで親友に裏切られちゃ、さすがに殿も参るかもしれんが、そこらは堪えてもらうしかないないか」
張バクは、袁紹と共に曹操の幼馴染と言っていい間柄だ。もし自分に何かあったら、家族を頼むと言いあうくらいに信頼もしていた。もっとも、今日のことが起こる気配が無かったと言えば、嘘になる。
張バクが呂布と親交を深めるのを、袁紹は面白く思ってはいない。こじれる二人の間を取り持っていたのが曹操だ。
が、張バクに言わせると、曹操は袁紹寄りなのだ、という。
いつか、袁紹と曹操が組んで、自分を攻めるのではないか。
そんな疑心暗鬼に、呂布の参謀である陳宮が付け込んだのだろう。今なら、エン州はこの手に落ちる、と煽って。
半ば怒りだけで動いた曹操は、自軍の戦力ほとんどを徐州へと傾けているから、陳宮の読みは当たっていると言えば当たっている。
「確実に残っているのは、ここ、東阿、范です。あの二県は昨日定期の連絡が入っていますから」
「張バクと呂布が動く方向から考えても、そんなあたりがいいとこか」
程仲徳は返してから、軽く鼻の頭をかく。
何か思い出しながら考えている時の癖と知っている荀文若は、黙って答えを待つ。ややして、程仲徳は滅多に見せない真剣な顔を向ける。
「東阿は私が引き受けるよ。まだ、ちょっと顔が効くはずだ」
「お願いします。こちらは元譲殿と合流出来るか手配します」
頷き合った荀文若と程仲徳は、互いに反対方向へと歩き出す。

呂布からの使者は、現れた荀文若の顔つきが柔和なことに安心したらしい。
「お申し出はありがたく承りましたが、兵糧は孟徳様が持って行ったので、もう無いのです」
などという、半ば見え透いた嘘を信じたようだ。
「では、武具や矢だけでも」
「噂はご存じでしょうが、あの通りの攻め方でして、そちらもおぼつきません」
困ったような笑顔で告げてやると、相手は一瞬、妙な表情をする。笑みを噛み殺したのだろう、と荀文若は冷静に思う。
断りつつ、この城はすっからかんだと告げたも同然だ。相手としては、半ば目的を達したものと判断したに違いない。
「援軍は心より感謝いたします。ご武運を」
表情を柔和に保ったまま言ってやれば、相手もにこやかに返してくる。
「や、お心遣い痛み入ります。では、これにて」
背を向けた瞬間に、荀文若の表情は冷徹な無表情へと変化する。
城を辞したと告げられた時点で、曹操への急使を用意させ、使者が出る予定の裏の門から走らせる。
張バクが呂布と手を組んで裏切り、エン州は風前の灯だ、と端的に告げた書簡は、曹操の頭を冷やすのに十分だろう。そもそもは冷静かつ明敏な人間だ、すぐに引き返してくる。
なんせ、将も兵も主力は皆徐州だ。本拠を取り戻すには、彼らが戻るしか方法が無い。
問題は、曹操が戻るまでの間、この城を保てるか、だ。
使者が城門を辞し、姿が互いに見えなくなった、と報告を得た瞬間。
「城門を閉ざしなさい、戦の準備を」
声高に告げる。
荀文若が留守を預かる筆頭であることは、城の者なら周知の事実だ。
鶴の一声、誰もが慌しく動きだす。
ややしての、軍議には緊張感が漂う。
これだけ主力が欠けた状態で、攻め込むということがあり得ないことくらいは、誰もがわかっている。ということは、攻め込まれているのだ。
「張バクが呂布と組んで裏切りました。ほぼエン州を席巻されています」
冷静な口調で告げても、内容が変わるわけではない。動揺が、さざめきのような声になって広がる。
「この城に向かっているのは、総大将呂布、およそ四十万。殿にはすでに急使を立てていますが、戻られるまで守りきらねばなりません」
呂布、と聞いて、更にざわめきは大きくなる。
考えるまでも無い予測通りの状況だ。
表情の無い顔で、平静に荀文若は考える。
ようするに、ここから恐慌が起こらなければいいのだ。一端が崩れだすと、雪崩を起こす可能性がある。
それが、止められるかどうか。
荀文若の本領が試されている、と言っていい。
「よろしいですか」
静かだが怜悧な声に、皆のざわめきが、ぴたり、と止まる。
表情の無い顔のまま、荀文若は一同をゆっくりと見回していく。一人一人に視線が合うよう意識しながら、続ける。
「徐州への後援物資が揃ったところですので、兵糧も矢も十分にあります。まして、ここにいる皆さんは殿から留守を預かった身。有事の際には、例え寡勢であろうと守りきってくれるもの、という殿からの絶大な信頼を背負っておられる」
射るような視線に、場は粛として音も無い。
曹操から預かった剣を、迷いない動きで抜き払う。
「殿が戻られるまで、必ずや城を守り抜きます。及ばずながら、この荀文若、一身を賭してやり遂げる所存」
にこり、と形よく唇を持ち上げ、笑みを浮かべる。
「軍規を乱された際には、どうなるかご承知ですね」
皆からの異論は、当然、無い。

武将の身で城を守るのなら、いかような攻撃にも泰然自若としているのがいいのだろうが、文官の身でやれば一人保身していると取れぬことも無い。
一身を賭しての言葉に嘘は無い、と示す為にでもないが、曹操から預かった剣を引っさげて、そこら中を奔走する。
慌てたのは、将たちだ。
「文若様、そちらは矢面です!」
「だからなんです?怪我人はすぐに下がらせるよう指示したはずです」
甲冑を身につけないどころか、いつもの姿のままで行くのを、将は慌てて追う。
「すぐに手当をさせますから、文若様!」
「今すぐに、です」
「はっ」
担当の将は、平伏せんばかりに返すと、慌てて走り出す。
兵を大事にすることには、士気を保つ意味の他に、徴兵出来ないということがある。無論、老若男女問わずと言えば出来ない訳ではないが、それは最後の手段だ。
もっとも、付け焼刃の訓練で呂布直下の騎馬兵に対抗出来るとは到底思えないから、この状況を保つことを考え続けなくてはならない。
少なくとも夏候惇が合流するまでは、こうして奔走してみせるしかあるまい。
また、わっと動揺したどよめきがどこぞの城壁から上がっているのが聞こえる。
繋いでおいた手綱を解くと、馬上の人となる。
無言で鞭をあてて走り出すのを、護衛兵が慌てて追う。

数日後。
夏候惇が到着した、との報に西門に向った荀文若は内心で目を見張る。
かの猛将が、敵兵に囲まれて人質の状態なのだ。
そもそも、彼の手元に残っていたのも少数の兵だ。途中で大軍に遭ったら、さすがの猛将もひとたまりもなかったろう。
通りで、伝達の者が慌てふためいた様子で走ってきた訳だ。何らかの異変が起こっていることは予測したが。
助けたくば城門を開けよ、などという要求など、到底飲むわけにはいかない。が、このまま曹操の片腕と言うべき夏候惇をむざむざと見捨てる訳にもいくまい。
くやしさとすまなさを滲ませた表情で、こちらを遠く見上げている夏候惇を、荀文若も苦い思いで見つめ返す。
「文若様、どういたしましょう?このまま射かければ将軍にあたってしまいます」
西門守備を任された将が、弱り切った声で尋ねる。
荀文若は、素早く視線を走らせる。
さすがに丸腰にされた状態では、いくら夏候惇といえど、隙の無い状態で取り囲む人数を相手にするのは無理だ。
守備担当らが一様に不安気になる通り、うっかりと矢を射かければ、夏候惇にもあたりかねない。
だが、突破口を作ることが出来るとすれば。
「城門を、いつでも開けられるように準備して下さい」
「文若様?」
「無論、彼らの要求に従うのではありません」
低いが、きっぱりとした言葉に、兵の数人が急いで走り下りていく。
それを視線の端に、荀文若は腰にある剣を抜き払う。
「弓兵、用意!」
厳然とした声と、白銀に煌めく剣とに、異論を差し挟むことは出来ずに兵らは弓を引き絞る。
通る声と城壁の状況は、下でにやにやと見上げていた敵方にも、夏候惇にも伝わる。
荀文若は、奥歯を噛みしめる。
これしか、無い。
この場を解決する方法は、これしか。
瞬間的に瞼を閉ざし、息を吸う。
「射よ!」
ざっと風が鳴る。
まさか、自軍の猛将めがけて本気で矢が射かけられるとは思いもよらかったのだろう、わ、と動揺が広がる。
そう、この瞬間さえ、夏候惇にあたらなければ。
「止め!」
鋭い声を、すぐに飛ばす。
射手は、すぐに止まる。
荀文若が読んだ通り、一瞬の動揺で夏候惇には十分だ。
隙だらけの背を見せた兵に体当たりして刀を奪い、まだ状況に気付かない一人を切り下げて槍を奪う。
「開門!」
荀文若の声と共に、門がきしむ。
夏候惇は槍を大きく振り回しながら、まっすぐに走り出す。
逃さじ、と追いすがる兵らがばらついたのをみて、守備担当が声を飛ばす。
「射ろ!」
降り注ぐ矢に、ほとんどが阻まれる。
追いつきそうだった数人も、このまま突入すれば夏候惇の餌食と気付いたのだろう、矢の雨が止んだ隙に引いていく。
門は、夏候惇一人を通して、再び閉ざされる。
敵が去り、けりが着いたと判断したなり、荀文若は勢いよく方向転換して城門を駆け下りる。
「元譲殿!」
「おう、文若殿」
苦笑気味に手を上げた猛将に、荀文若は頭を下げる。
「ご無事で何よりです」
「文官にしておくのが惜しい豪胆だ。礼を言う」
率直に言われ、小さく肩をすくめる。
「二度はお断りします」
曹操の懐刀と言っていい夏候惇が合流したことで、城の士気は大いに上がる。

そして、更に数日後。
「范も抑えてきたよ」
と、何でもないことのように言いながら、程仲徳が帰ってくる。口調も表情もいつものままだが、服装は酷いものだ。
范と東阿を抑えることに奔走した以外は、日に夜を継いで移動したのだろう。
だが、荀文若もいつも通りの平静な表情で返す。
「では、後は殿の帰りを待つばかりですね」
聞いた夏候惇は、いくらか眉を寄せる。
「それだが、徐州から殿が戻ったなら、寄せている呂布と鉢合わせにならんか?」
「なりますね」
「真正面からだな」
ごくあっさりと認める二人に、夏候惇は目を瞬かせる。
「なのに、なぜそのように落ち着いているのだ」
荀文若と程仲徳は、どちらからともなく顔を見合わせる。
少なくとも荀文若には、曹操と呂布を鉢合わせにしない方法に心当たりがある。
程仲徳も口の端を持ち上げてみせるあたり、おおよそ同じようなことを考えているに違いない。
「呂布は局所戦には並々ならぬ実力を持っていますが、大局を見る目は全くありません。殿の帰路とは逆方向に誘い出せばいいでしょう」
「徐州は東、西のボク陽あたりがいいだろうね」
荀文若と程仲徳の視線が、夏候惇へと戻ってくる。
「そう思いませんか、元譲殿」
「思うでしょう、元譲殿」
見事な笑顔に、夏候惇は微妙に体を引く。ついでに、表情も引きつらせる。
が、最後には頷く。
「承知した、俺が引き受ける」
その言葉に、二人の笑みは大きくなる。
「最近はちょっと距離置いてくれてるみたいだけど」
「少々、出立には工夫が必要でしょう」
笑顔の二人に下手な反論はしない方が得策と、なんとなく悟っているらしい夏候惇は頬をかきながら言う。
「策はまかせる。俺は従うだけだ」



夜陰に乗じて城を抜け出した夏候惇は、呂布軍を見事にボク陽へと引き付けた。
その間に、荀文若たちが守り抜いた城へと曹操は帰還する。
「よく守ってくれた、次は取り戻す番だ」
その一言で、疲弊していた城を活気付かせてみせた曹操は、帰還した将兵たちの慰撫も済ませてから、改めて現況の確認を始める。
エン州のうち、手元に残っているのは、このケン城と東阿、范のみであること、呂布軍四十万はボク陽に駐屯していること、張バク自身は今のところ動いていないこと。
平静な顔つきで、淡淡と状況を述べる荀文若の報告を、曹操は機嫌がいいとも悪いともつかない顔で聞いている。
「仲徳殿が東阿と范を動かして下さり、元譲殿は城内の軍紀を保ち、ボク陽での陽動も見事にしてのけられました」
そうまとめて、一通りの報告が終わってから、曹操は深く頷く。
「良くやってくれた。この城が残ったのは、文若のおかげだ」
「いえ、その言葉は皆にお掛け下さい」
あまり温度の感じられない声に、曹操は苦笑を浮かべる。
「ああ、皆にも礼は言う。だが、文若がまとめてくれなかったら、こうはいかなかっただろうよ」
「するべきことをしたのみです」
呂布からの書状のみで裏切りに気付いて煙に巻いて追い返し、剣を手に奔走したことも、軽装で移動せざるを得なかった夏候惇が人質になったのを機転で救ったことも、他から聞いて曹操は知っている。
が、荀文若にとってはそういったこと全てが、「すべきこと」に分類されるらしい。己に厳しい彼らしいと言ってしまえば、そうなのだが。
曹操の顔に浮かんだ笑みが、大きくなる。
つい、と指を持ち上げて、自分の目の下を指してやる。
「目の下にくまがあるぞ」
端正な顔つきについているので、余計にやつれたように見えるのだ。実際、ほとんど寝ること無く奔走し続けていたのだろう。
忙殺されることは多々あるが、こんな顔になっているのは見たことが無い。
「これは、お見苦しいものを」
眉をひそめて荀文若は返すが、顔を隠す訳にもいかない。少々気まずそうな顔つきになるのを、面白く眺めながら曹操は返す。
「いや、今日明日出立というわけにはいかないのだし、今晩はゆっくり寝てくれ。明日からはエン州奪還の算段をつけねばならんしな」
「承知いたしました」
拝礼して辞そうとする文若へと、曹操は、にやり、と付け加える。
「文若の甲冑姿を拝んでみたかったな」
容姿が整った荀文若が甲冑をつけたら、さぞかし美丈夫な将軍が出来あがっていただろうと想像しつつ言ったのだが。
荀文若の答えは、しごくあっさりとしたものだ。
「甲冑はつけておりませんよ、残念ながら」
「え?」
曹操が何を想像しているのか見通したことにではなく、言われた事実に驚いているうちに、荀文若は場を辞してしまう。

いつもの姿のまま、矢面に近いところまで奔走していたという事実を曹操が知ったのは、少々後のこと。
あの涼しい顔に剣をひっさたのみで、城の隅々をくまなく見回っていたらしい。通りで一枚岩の防御が貫かれたわけだ。
それを当然としか思わぬ荀文若は、やはり得難い人間だ。
エン州を奪還すべく、出陣する曹操は、荀文若へと告げる。
「しばらく厳しい戦が続くだろうが、留守を頼む」
「承知しております。ご武運を」
返した荀文若は、口元にはっきりと笑みを浮かべる。
「留守のことは、ご安心を」
曹操も笑みを返して、出立する。


〜fin.〜
2010.05.28 Phantom scape XL 〜He takes the sword without the arm.〜

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