夜。メイファは、針を運んでいる。服を縫っているのだ。
薬の整理は終えたものの、なんとなく、眠れなくて。
裁縫は、祖父に連れられてた旅の途中で、ほころんだものを直すことからやってたから、お手の物だ。
その手の中で、うすいベージュの布地が針を運ぶのにあわせ、リズムよくゆれる。
やわらかい感触が、手に心地よい。
いまは、そんなささいな温もりがありがたかった。
自分の中の、消せない闇。
祖父が亡くなってから、彼らが来るまで、いつも苛んできた闇が、じわじわと広がってくる。
『決まり』から抜け出せないことがわかってしまったいまでは、いっそう暗い影になりつつある。
そう、この影さえなければ、まだ『決まり』に呑み込まれるのは楽だったのかもしれない。
だけど……
昼間の出来事を思い出す。
偶然とはいえ、見てしまった、それ。
まさか、同じ闇を抱えている者がいるなんて。
でも、彼のほうが、深かった。救われることさえ、拒否する瞳。
冷たくて、寂しくて、ぞくりとするくらいの。
痛みが分かるから、かえって辛い。
孤独すぎる瞳。なにが、彼をそうしたんだろう?いままで、誰も……
「っ!」
考えのほうに夢中になり過ぎて、手元がお留守になったらしい。
指に針を刺してしまったようだ。
小さくため息をついて、指を軽くなめる。うすく、鉄の味が広がった。
いっそ、このまま血が止まらなければ、楽になれるのに。
そう思ってはっとする。もしかして、彼も、それを望んでいたのでは?
あのまま、楽になることを。
でも、もし助からなかったら、ビクトールは、とても傷ついただろう。
『助けちゃくれないか?』
口調はぶっきらぼうだったが、瞳が真剣だった。だから、あんな不信な姿だったにも関わらず、招き入れたのだから。
あんな必死な瞳を、裏切れなくて。傷つけることができなくて。
後悔はしていない。でも、彼はなにを本当は望んでいたんだろう?
ひかえめなノックが聞こえた。
「起きてるよ」
声をかけてやると、ビクトールが顔を出す。
「ちょっと、いいか?」
「いいよ」
針を休めて、顔を上げると、旅装を整えた姿が入ってきた。
地図を頼まれたときから、いつかは出て行くんだ、とはっきり自覚はしていたものの、形になってみせられると、やはり、どき、とする。
「どこ行く気?」
「そこらへんをぐるっとな……なんか、脱け出しづらいらしいから、様子を見に行ってこようと思ってな」
「こんな夜更けに?」
「きっと、ホントに行くときも、夜だろうからな」
ホントに行くとき、という単語に、ほっとしている。ただ、先送りされただけなのに。
「ま、明後日の夜には、戻るから」
「あんたの相棒はあずかっとくよ……まだあの怪我じゃ出せないからね」
少し心配そうなビクトールにうなずきかけてやる。
「あと二ヶ月は喪中だから、しばらくはごまかせるよ」
「悪いな」
「そのかわり、高くつくよ」
メイファが言うと、ビクトールはにやりとしてみせる。
「高くつくついでに、金貸してくれ。一文もないんだ」
「!」
思わず、言葉に詰まるが、たしかに戦争の途中に飛ばされてきたのだから、仕方が無い。
「……トイチなら、貸すよ」
「すっげー、悪徳金融だなぁ」
「冗談だよ、どれっくらいいる?」
笑いながら、立ち上がる。
やはり、この男がいると、楽になるな、と思いながら。
次の朝。なんとなく、恐る恐る部屋をのぞく。気配に気付いたのだろう、フリックが体を起こす。
「おはよ」
「おはよう」
ひとまず、笑顔で挨拶できたのが、ありがたい。
「起こしちゃった?」
「いや、さっきから、起きてはいたんだけど」
ここ二日は、ビクトールがちゃちゃをいれてたので気付かなかったが、なんとも普通の会話が難しい。
それはどうも、フリックのほうにもいえるようで、なんとはなしに会話に緊張感がある。
「どうしよっか、朝食先がいいかな、それとも包帯取り替えちゃおうか?」
「あ、うーんと……」
自分で言っときながら、これは選びづらい、とか思ってしまう。
だけど、フリックのほうは、強引に選んだようだ。
「じゃ、朝飯がいいかな」
「そう、それじゃ、少し待っててね」
「ああ」
そういえば、いつも会話するときはビクトールが間にいたのだ。
フリックは、要所で補足するか、つっこむか、ぐらいで。ようは、必要外に会話をしたことがなかったことに気付く。
緊張するのも当然だろう。だいたい、話題がない。
過去のことには触れないほうがよいのは、昨日よく分かったし、かといって、薬の話をする相手でもない。
普通の会話……これがもっとも難しいのかもしれない……
やはり、というか、至極当然の結果、というか、食卓についても、会話がない。
なんとなく、もくもくと食事をしてしまう。
気まずい、とは思うが、かといって、なにに興味があるのかもよくわからない。
お互い、なにか言わなきゃな、と思って顔を上げるが、目があってしまうと、いざ言うことがなくて、さらに気まずかったりする。
「あ、あのさ」
おそらく、沈黙に耐えられなくなったのだろう、フリックがいつもより少し高い声で言った。
とっさにうまく返事ができず、目だけがフリックの顔を見る。
「その、けっこう長いこと旅、してたのか?」
「え、ああ、うん、そうね」
素直に肯定すればいいだけなのだが、なにか緊張する。しかし、ここで会話の糸を切ってしまうと、二度とつながるまい。
「旅してたほうが、長いよ、うん」
「そうなのか……あ、何歳くらいのときから?」
フリックのほうも、話をとぎれさすまいといったかんじで、ぎこちなくつなげる。
「旅に出たのが四歳か五歳のときで、帰ってきたのが十九になったころ」
「へぇ、ホントに長いな……えっと、十五年くらい、か」
「うん、それっくらいだね」
「じゃ、ずいぶんいろんな所を回ったんだろうな」
「ほぼ世界一周だと思うよ」
「やっぱりそれって、薬とかを探しに行ったわけなのか?」
苦し紛れとはいえ、メイファにはいちばん話のつなぎやすい話題になったようだ。
すこし、ほっとしながら、うなずいてみせる。
「そう、ここらで手に入る薬草では、どうにもならない病気がでてきて……医者の中から選ばれて、祖父が治療法を探しに行くことになったの」
「ふうん、優秀な医者だったんだ」
「違う違う、私がいたから」
「え?」
「ほら、この村では旅に行くときは『護符』をつれてかなくちゃならないでしょ?『護符』になれるのが、そのときは私しかいなかったのよ」
「『護符』にも条件があるんだ?」
「笑っちゃうくらい、いろいろね」
大げさに首をすくめるものだから、フリックも思わず苦笑する。
「たとえば、年齢ね……」
『護符』に関することは、べつだん暗い条件もなかったことも手伝って、朝食の話題はこれに終始する。
それにまつわる、『儀式』やらなにやら、たったひとつのことなのに、話題には事欠かない。
フリックのほうも、もともと『しきたり』の多い村で育ったせいか、『決まり』に対して抱く、不信感、というか、伝統の持つ一種の滑稽な感じをよくわかっているらしい。
『こんなのヘンだよね』というのが、案外、一致する。
気付いたら、朝食のあとのお茶を、三杯もおかわりして話しこんでいた。
大きなお湯差しが、空になったことでそれに気付いて、びっくりする。
「あれ、お湯、無くなった」
あんまり驚いたので口にすると、フリックのほうも驚いたようだ。
思わず、口に手をやってるところを見ると、こんなに話したこと自体が、彼には珍しいことなのだろう。
メイファは食器を片付けるために立ちあがる。
「これ、片付けちゃったら、包帯かえるね」
「ああ、悪いな」
朝、顔を合わせたときとは比べ物にならないくらい、滑らかに言葉を交わすと、メイファは食器をもって、台所へと片付けにいく。
台所に向かうメイファを見送って、フリックは軽くため息をついた。
正直、最初はなにをどう話していいかが、さっぱりわからず、かといって、沈黙しつづけるわけにもいかず、強引に話題を振ったつもりだったのだが、気付いたら自分もずいぶんと話していた。
『しきたり』の多い故郷の村のことは、忌まわしい記憶と共にしか思い出せないので、あまり思い出さないようにしていたのだが。
正直、驚いている。
いやな気分でなく、故郷の『しきたり』を思い出していたことにも、自分がこんなに話したことにも。
そう、昨日、メイファには剣のことを気付かれてしまったのに。
だから、なおさら、その話題には触れるはずが無い、と思っていた。
自分の中に、『闇』が巣食っている、ということ。いままで、誰にも言うこともなく、気付かれることもなかったこと。
もし、口にしてしまったら、自分がどんな風に見られるのかが怖かった。
哀れまれるのも、同情されるのも、迷惑でしかない。
必然、口数は少なくなった。よけいなことは、話したくないから。
そうやって、いままでやってきた。
それに、話したら、自分の闇に相手をも巻き込む気がして。
現に、メイファだって、昨日は完全に呑み込まれた表情をしていた。目前に広がった闇に、恐怖を感じていた。
だから、昨晩、ビクトールに『すこし、周辺の様子を見てくる』と、告げられたときには、真面目に
一緒に旅立つことを考えた。
闇を知られた相手に、どんな顔をしていいのか、わからなくて。
今朝、笑顔で挨拶されて、正直なところほっとした。
メイファは、闇を保留にしてくれたらしい。
それでいて、もう知られているから、いまさら隠そうとする必要もない。
どこかで、ほっとしているのは確かだ。
そういえば、メイファもどこか、影がある。
昨晩、『地図をくれ』と言われたときに、微かによぎったそれに、気付いてしまった。
『決まり』のせいで、医者になれない、と言って肩をすくめるが、それ以外のなにか。
俺達がいなくなったら、もぐりででも『医者』であることを取り上げられたら、どうなってしまうのだろう。
『闇』を持て余すことの辛さは、自分がよく知っている。
ましてや、メイファは『決まり』という檻の中だ。あがくことさえ、許されてはいない。
そこまで考えたところで、メイファが薬箱を手に現れた。
何の屈託もなさそうな笑顔で告げる。
「じゃ、包帯かえちゃおうね」
いまは、医者でいられるから、だからこんな笑顔もできるのだろう。
でも、そうではなくなったら?
星辰剣が、冗談交じりに言った『小娘も一緒に旅立てば、医者になれるかもしれんぞ』というのは、案外、真面目に考える価値のあることではないのか?
でも、メイファの中で『決まり』が重くて大きなものなのも確かだ。
簡単には決められないだろう。故郷を、捨てることにもなる。
「どうしたの?傷、痛む?」
どうやら、考えに入り込んでしまって、しかもそれが顔に出たらしい。
フリックは慌てて首を横に振った。
「いや、傷は平気」
「そう?まぁ、順調そうではあるけどね……じゃ、消毒するね」
「ああ」
手早いが、丁寧なのは昨日と変わらない。包帯を巻く手付きも、驚くくらいに早い。
「そうそう、今日からはね、部屋の中くらいは歩きまわっていいよ」
メイファは、言ってから、ちょっと首をかしげ、
「と、いうか歩き回ってね、のほうが正確ね、足がなまりきっちゃうから」
「じゃ、立っていいってことか」
思わず、顔を輝かせる。ベッドに二日も縛り付けられて、いいかげん厭きていた。
動けないぶん、考えてばかりになるのが、憂鬱でもあったし。
フリックの表情を見て、メイファは笑顔になる。でもそれは、まるでいたずらをしかけている子供のようだ。
「でもきっと、最初は立てないよ」
包帯を巻き終え、薬箱を脇によけ、立ち上がると手を差し出す。
「やってみる?」
「大丈夫だよ」
まさか、女の子に自分を支えさせるわけにはいくまい。
「そう?じゃ、立ってごらん?」
相変わらず、笑顔のままでメイファはすこし離れる。
フリックは、毛布をとりのけると、いつもしていたように立ち上がろうとした。
「?!」
「ほら、ね?」
メイファは慣れた様子でよろめいたフリックを支える。
「驚くくらい、足って弱るのが早いのよ」
祖父について、医療を手伝ってはいたから、何人もの病人やら怪我人を見てきているのだろう。
そして、自分の足が弱ってることに気付かず、こうしてよろめくのも、珍しくないに違いない。
そういったことは、自分よりメイファのほうがよくわかっているはずなのに、つい強がったりしたのが照れくさくて、そっけなくうなずいた。
「あ、拗ねた」
負担がかからないように、丁寧にフリックをベッドに腰掛けさせてくれるが、顔のほうは、おかしそうに笑っている。
ますます、照れくさくなる。
「でも、体力あるし、すぐ元どおりになるよ」
メイファは、とうとう、くすくすと笑い出した。
「そんなにおかしかったか?」
「だって、顔、真っ赤なんだもん」
「え?!あれ?」
思わず顔に手をやったフリックを見て、メイファはまた、笑いだす。
どうやら、さらに顔が赤くなっているのが、自分でわかる。
メイファのほうは、止まらない笑いをこらえつつ、もう一度、手を差し出してくれた。
「ま、最初は練習しないと歩けないよ」
フリックは、照れくさいままだったが、今度はおとなしく手を差し出した。
さっきよろめいたので、だいたいどちらに体重がかかりやすくなっているか、わかっている。
しかも、メイファは上手く支えてくれた。
「そうそう、そんな感じ」
少し、ぎこちないようだが、ひとまずは立ち上がる。
「じゃ、手ぇ離すよ」
「ああ」
ゆっくりと手が離れる。
「うん、問題無しだね、立ち上がるとこだけ、ちょっと体重のかけ方がヘンだっただけで」
「じゃ、歩いてもいいのか?」
「もちろん」
さきほど、自分ひとりでは立てなかったのはよくわかっていたが、メイファの手を借りるのが、やはり照れくさくて、自分で踏み出してみる。
踏み出すのと同時に、サイドボードを支えにしようとしたが、これは失敗に終わる。
「!」
「あっ!」
思いっきりバランスを崩す。メイファが、慌てて手を伸ばしたが、これは無謀。
さすがに、大の男の全体重は支えられずに、一緒になってこけてしまう。
「……だ、だいじょぶ?」
「あ、ああ……すまん……」
またやってしまった、と思いつつ、顔を上げたフリックは、至近距離にメイファの顔があることに、びっくりする。
謝りつつも、妙にやわらかい感触の床に手をついたものだな……とかと思う。
その時だ、明日まで帰らないはずのビクトールの声がしたのは。
「フリック、おめー……俺がいないからって、襲いかかるかー」
「え?ビクトール?」
「ずいぶん早いお帰りね?」
なんか、とんでもない格好のままでこけたまま、口々にそう言われたビクトールは、呆れ顔になる。
いや、襲いかかっているのではないのは、さっきからの物音でよくわかっているのだが。
それにしても、これは……
「おい、せめて、その手どけろって」
「……?」
言われたフリックは、視線をそちらにやって、初めてメイファを下敷きにしてて、しかも、手をついてたのが床ではなくて、そうではなくて……感触がいいのは、当然だったりすることに気付いたらしい。
「!!!!!」
慌てて飛びのく。つられて、自分の胸元に眼をやったメイファも、思わず赤くなった。
どうやら、メイファはフリックが転んでしまったほうに気を取られてて、自分がどこ触られてたかわかっていなかったようだ。
「す、す、す、すまんッ!!!」
「と、飛びのかなくったっていいわよ、怪我人こけさすような真似したのは、わたしなんだし」
そう言いつつも、さすがにちょっと頬が赤い。
「で、どうしたのよ、様子見に行ったんじゃなかったの?」
ごまかそうとしてるな、と思ったので、ビクトールはからかいたい気分になる。
「いやー、二人っきりにしとくと、こんな風にヤバいんじゃないかと思ってさ」
それを聞いた二人は、一緒に真っ赤になった。