男の子の手に、赤い風船が揺れている。 嬉しそうに手をつないで走り去っていく、幼い兄弟を見送ってから。 俊は言った。 「ずいぶんな、遅刻だな」 「遅刻、ではないですよ」 静かな声が、冷たい口調のまま、告げる。こちらを、まっすぐに見つめたまま。 「あのとき、最初から、ここに来るつもりはなかったですから」 「……こうるさいのを、追っ払っただけ、というワケか?」 俊の声が、若干、低くなる。 「そうですね」 ウソでも。 『遅刻』なのだと、告げればいいのに。それで、すべてのカタは、つくのに。 それに、気付いていないわけが、ないのに。 亮の口調も声も、あまりにも平坦だ。 視線が、木にうつる。 そして、そのまま、口をつぐむ。 聞こえるのは、葉ずれの音だけになる。 まるで、風のような声が、ぽつり、と告げた。 「知らないことが、誰かを救うかもしれません」 まるで、独り言のように。 誰が、誰を救うのか、は、言われなくても、わかる。 知ってしまったことを、知らないことにすることなど、結局はできない、ということも。 最初から、亮は知っていたから。 俊が知ってしまったら、知らない人は、誰もいなくなってしまうから。 彼女が、独りぼっちになってしまわないように。 出会ったときから、きっと。 一人は知っていて、一人は知らない。正反対の、場所に立っていた。 だとしたら、それぞれに出来るコトが、きっとあるだろう。 もうすでに、そうしてきたのかもしれない。 亮は、最初から、それに気付いていたのかもしれない。 視線を、亮の見上げているあたりに、うつす。 それから、返事をした。 「……ああ、そうだな」 らしくもなく、しみじみとして口調になってしまって、思わず口元を抑えた。 だけど、つくったのでも、亮の淡淡とした声につられたのでもなく、心から出た、というのが、ホント。 そんな口調になるくらいに、気になっていたんだな、と、すこし、照れくさくなる。 気になんか、していない、と、言い聞かせていたけれど。 積年の、もやもやがきえたところで、もう一つ、訊ねたいことがあったのを思い出す。 「なぁ」 亮の視線が、こちらにうつる。 「毎年、ここに来てたのか?」 俊が、夏祭りのあと来たのは、あの時以来だったから、亮がどうしていたかは、知らない。 「今年は、夏祭りの手伝いがありましたから」 たまたまです、と、相変わらず、感情のこもらない声が答える。 それが、本当なのか、ウソなのか、俊には判断はつかない。 来ていないほうが、俊の気が楽なのを知っているから、亮はそう答える。 それが、本当でも、ウソでも。 これからも亮は、自分の先回りをしつづけるだろう。 それで、いいと思う。 いまは、そう思える。 幼い弟を守ってやる『お兄ちゃん』にはなれないけれど、一緒になにかをすることは、きっとできる。 木の枝から、視線を戻してくる。 「さてと、俺、買いだし頼まれてるから」 ごく自然に、笑顔になる。 亮も、微笑んでみせた。 「気を付けて」 玄関をあけると、ペットボトルを手にした忍がいた。夏祭りの日は偶然だったけれど、今日は多分。 昨日の今日で、炎天下の外に出たことも、その理由も、どちらもが心配だったから、だ。 亮は、ただ、微笑んで見せる。 その表情で、わかったのだろう。 「……言わなかったのか?」 「知らない方が」 言いかかって、亮は口をつぐむ。 続きは、忍が引き取った。 「幸せなことも、ある?」 戸惑った表情のまま、反らした視線が無言の答だ。 そのまま、靴を止めている細いバンドに手を伸ばす。 伸ばした手の方のバンドは、新しいモノが、何事もなかったように肘を過ぎたところまである手袋をとめている。 そして、靴を脱ぎ終わった亮はもう、いつもどおりの無表情だ。 忍が、口を開きかかる。 「あ、亮、おかえり」 ちょうど、それをさえぎるように麗花が顔を出す。 「須于がね、今日のご飯はつくるから、ゆっくりしてねって」 「ありがとうございます」 にこり、と微笑む。 用件の済んだ麗花は、少し黙っていたが、やがて、尋ねた。 「ね、どうして、張一樹は離反したのかな?」 理由もなにも言わず、『第3遊撃隊』に戦いを挑み、そして、敗れたとわかったら部下たちを本国に返して、自分は命を絶ってしまった。 はっきり言って、わけがわからないのだろう。 「対『紅侵軍』戦で、彼の恋人が戦死したようです」 じつに簡潔な答えだが、麗花には、それで納得がいったらしい。 どこか、寂しそうな表情になる。 「それで、狂気の瞳だったんだね」 諦めたように、そう言ったあと、すぐにいつもの笑顔が浮かぶ。 「まったく、迷惑だよねぇ、私情で絡んでくるなんてさ。いやだいやだ」 言いながら、引っ込んでしまう。 忍には、にわかには納得しがたい。 たしかに、愛する者を亡くしたら、どうなるかわからないと言ってしまえば、それまでだけど。 「アファルイオの先王、夭折でしたから、暗殺説もあるんですよ」 疑問が顔に出たのだろう、亮が先回りをする。 「張一樹は、先王とは幼馴染みでした」 「しかも、親衛隊、か」 亮が言うのだから、暗殺説にかなりの信憑性があるということだ。いや、世間的な面があってぼかしているだけで、暗殺なのだろう。 大事な者を、守りたい者を、連続して失った、ということだ。 しかも、理不尽なカタチで。 だからといって、誰かを傷つけていいということにはならないけれど。 彼も、自分ではどうしようもない傷を、かかえていたのだろう。 誰も、それを癒すことは出来ずに。 誰も、気付かない痛み。 『知らない方が』 さっき、亮が、思わず口にしたそれは、多分、本音で。 知らないコトは幸せだ。だけど、知っている方は? 知っているコトを、飲みこんでいる方は? それを、言いかったというコトは、心のどこかが痛んでいる。 なにも感じないのは、それさえも、忘れているから。 傷ついているコトに気付いてもらえない傷は、血が流れつづけるばかりで。 忍は、あまりにも、痛い、と思う。 「どうか、しましたか?」 亮が、かすかに首を傾げる。 表情に出たことに気付いて、今度は忍の方が首を横に振って微笑む。 「いや、なんでもないよ?」 うまい具合に扉が開いて、俊が帰ってくる。 手には、スーパーの袋を持って。 「おかえり」 「おかえりなさい」 口々に言われて、どことなく照れくさいような笑みを浮かべる。 もう、すっかり吹っ切れた顔つきだ。 少なくとも、この件に関しては、丸く収まったらしい。 すべてが、一度にうまく行くことなどないから。 これで、いいのかもしれない。 そんな忍の気分をよそに、俊の方は、 「おう、今日は、夏野菜のカレーらしいぞ」 照れついでに、ワケのわからないことを口走るものだから、思わず吹き出してしまう。 亮も、思わず笑顔になっている。 「なるほど、珍しく俊の買い出しと思ったら、そういうコトなわけか」 「カレー、好物でしたね」 「あ、いや、そういうつもりで言ったんじゃ……」 よけいに慌てて、靴も脱がずにスーパーの袋を握り締めたまま、説明しようと腕を広げる。 ゴン、という音がして、野菜の入った袋が扉に当たる。 すぐに俊は、しまった、という顔つきになった。 「あ、トマト入ってるんだった!」 〜fin〜 |