目が覚めかかってる。 夢と現実の境目は、いちばん心地よい瞬間だ。でも、ここしばらく、そんなことはなかった気がする。 どうしてなかったかというと、軍隊に所属したせいでまどろんでるヒマなどなかったから。 ヒマがないというより、ご法度なのだ。 だいたい、目が覚めるまで寝ていていいということ自体が、ありえない。 いつなにが起こるか、わからないというのが、建前だから。 そう、些細な気配にさえ、反応しなくてはならない。 だんだんと、思考が現実に戻っていく。 些細な気配……? 忍は、飛び起きる。 内部の扉でつながっている向こう、亮の部屋から、ほんのかすかな、人の気配。 人がいるとは感じられないほどのわずかな気配は、部屋の主のモノに違いない。 『明日には帰れるよ』 と、仲文は言っていたが。 それにしたって、だ。 思わず、ノックすることも忘れて、扉をひらく。 勢いよく開いた扉の方を振りかえったのは、間違いなく、亮、だ。 「おはようございます、というには、少し遅いですが」 表情も、顔色も、それから、声も。向かっていた端末から、振り返った姿も。 すべてが、いつもと変わらない。 昨日の出来事が、まるで、なかったことのように。 どことなく、戸惑ったのが表情に出たのだろう。亮は、先回りをした。 「昨日は、ご迷惑をおかけしました」 「……いや……大丈夫なのか?」 にこり、と微笑んでみせる。 それが、どことなく、らしくなく思える。 忍が、次の言葉を口にする前に、亮は立ち上がった。 「ごはん、食べますよね?」 「ああ、うん」 口にしかかった言葉を、飲みこむ。 そう、確かに。 自分がなにか言っても、どうにもならないこと、だ。 「着替えたら、降りて来てくださいね」 あまりにも、いつもと変わらない口調で。 亮は、扉の向こうに消えた。 どうやら、起きたのは忍がいちばん遅かったようだ。 居間の人口密度が高い。というより、皆ここに集まっている。 「あ、起きてきたよ」 声がかけられたのは、どうやら、うつむき加減の貴也のようだ。 麗花の笑顔が、こちらに向けられる。 「おはよ」 「よく眠れたみたいね」 須于も、言う。 「おかげさんで」 答えた声が、怒っているモノではない、とわかってから、貴也はその顔を上げる。 「おはよ、忍、あの……」 おどおどした口調で言いかかった足元には、まとめられた荷物がおいてある。そういえば、今日で貴也が来てから三日目だ。特殊研修も今日で終わりなのだ。 昨日の出来事があまりに鮮烈で、失念していた。 それにしても、と、思わず壁掛けの時計に目をやる。 寝坊した、といっても九時半だ。『三日目』が終わるには、まだ早い時間に思われる。 貴也のほうは、忍に視線を反らされた、と思ったのか、また口をつぐんだ。 ためらいがちに、おそらくフォローするためだろう、俊が口を開きかかったのだが。 「配属が、決まったそうですよ」 忍の分のご飯をトレーで運んできた亮の声だ。 「ああ」 思わず、亮に向かって『どこに?』と尋ねそうになるが、言う相手が違うと気付いて視線を貴也に戻す。 「どこになったって?」 「海軍なんだ、それで……」 「出航の時間が、あるんですって」 須于が、言う。麗花も、あとをつづけた。 「時間けっこう差し迫ってるけど、待ってたんだよ」 ほら、というように俊が貴也の背中をつっつく。その勢いで、というわけではないだろうが、貴也はよろめくように立ち上がる。 「あ、あの……昨日は……」 声の末尾が消えかかる。 どうやら、珍しく朝食を食べ終わった後に皆が居間にいる理由は、貴也の出発がもうすぐだから、というよりは、このためのようだ。昨日、洒落にならないくらい怒っていた忍に謝りたい、とは思っているが、その類になると、てんで度胸がない貴也のために。 もういちど、俊のケリが貴也の足にはいる。 テーブルの向こう側だから、見えないと思ってるのだろうが。 置いてあるのは、ガラス製だ。 ようは、丸見え、だ。 貴也は、すうっと息を吸った。 「ごめんなさいっ!」 ワガママ坊ちゃんにとって、この一言を言うのは、恐ろしいくらい勇気がいるのを、忍は知っている。 だけど。 「……謝る相手が、違ってる」 口調が平坦なのに、びくっと肩が震える。 おそるおそる顔を上げた貴也の目に映ったのは、いつも通りの忍だ。 自覚症状無しに他人に迷惑をかけてまわる貴也の後始末をつけては、ちゃんと謝りなさい!と、保護者を引き受けてくれていたときと、同じ。 「ちゃんと、謝ったのか?」 みなの分のコーヒーを入れてきた亮のほうに、視線を軽く向けながら言う。 亮は、テーブルにコーヒーを置きながら、笑顔を貴也に向けた。 「帰ってきた時に、すぐに」 慣れた動作で、それぞれの前にカップを置きながら、続ける。 「でも、知らなかっただけですから」 知らなかっただけ、と言うが、だったらなぜ、あんな状況をつれてきたというのだろう? 普通に買い物に出ただけの自分たちが、マークされるとは思わないから、なにか、一樹たちの目にとまるようなコトをやらかしているはずだ。 しかし、直接なオトガメはない、ということだろう。だったら、起きたときになにか言うはずだから。 もしかしたら、予定より早い辞令と、配属先が規律が最も厳しいといわれる海軍だというあたりと、しかも、すぐに出航というあたりが、オトガメといえば、そうなのかもしれない。 貴也の性格だと、海軍では、かなり絞られるだろう。 亮個人は、自分自身に何が起こったところで、その原因となった相手に悪意にあったとしても、怒る、ということはないだろう。 それに、亮が総司令官の子だという事実を、知らなかったことは確かだ。 貴也がしたことを、コレ以上取り沙汰したところで、どうしようもない。 「時間、大丈夫なのか?」 話題を、変える。 時計に目をやった俊が、立ち上がった。 「そろそろだな」 バイクのキーを持っている。貴也を送っていくのだろう。 「お世話かけました」 丁寧に頭を下げてから。 貴也は、退場した。 忍が、朝食の食器を片付け終えて、階段を上がっていくと、亮が降りてくるのとあった。 「どっか行くのか?」 まだ、病院から帰ってきたばかりだ。朝食の準備くらいは目をつぶるとしても、出かけたり、とかは、どうかと思う。 「特別研修の、報告書提出に」 「んなの、電子文書で充分だろ?」 軍事関連報告書の暗号技術は、かなり高い。それに、遊撃隊から出されるモノに関しては、通常部隊以上の処理をかけている。わざわざ、文書を総司令部に提出に行く必要など、あるはずはない。 亮は、また、朝と同じ笑顔を見せた。 なにが心配なのか、わかっているのだろう。 「今回は、ちゃんと検査受けてきましたよ、異常なしだそうです」 「まぁな」 そう言われてしまうと、『あまり無理をするな』とも言いにくくなる。 わかったよ、の意で頷いてみせると、通りすぎて階段を上がる。 下まで降りきった亮が、振り返った。 「……えっと」 「ん?」 珍しく、歯切れの悪い声のかけ方に、忍も足を止める。 「少し、散歩してから、帰ります」 そういえば、貴也を送りにいった俊は、バイクで出たのにまだ帰っていない。 にこり、と微笑んで見せた。 「わかった」 おそらくは、無意識になのだろう、亮は自分の左腕をおさえながら、かすかに頷いた。 もう、すっかり中央公園からは、夏祭りの名残は消えている。 つい、数日前までお祭り騒ぎが展開されていたとは、思えない静かな光景だ。 人は多いが、ああいう騒がしさとは、無縁だ。 俊は、そんな光景を、公園でいちばん大きな樫の木の下で、眺めていた。 川面のほうに、視線を移す。 夜とは、まったく違う色の水が、流れていく。 光を反射して、まぶしいくらいの、色。これが、夜、呑み込まれそうな黒になるとは思えないくらいの、白い反射たちだ。 まぶしすぎる。 ぼんやりと、そんなことを思う。 「あ!」 戸惑った声がしたので、振り返る。 小さな男の子が、俊の寄りかかっていた樫の木を見上げている。 男の子の視線の方を見上げると、風船がひとつ、つっかかっていた。 緑の枝に、風船の赤が揺れる。 「お兄ちゃん〜!」 半泣きの声を出して、男の子はあっちから走ってくる少年を呼ぶ。 口の端が、歪んでくるのがわかる。苦笑が浮かんできているのだ。 お兄ちゃん、か。そう呼ぶのも、いつまでか。 そんなことを思うのは、多分。 怒ってはいない。 ただ、ショックだったのだ。自分が守ろうと思っていたモノが、そうではなくて。 それどころか、大人すら、手玉に取ってみせて。 彼の目には、自分は映ってすら、いなかったろう。 騙し通す相手としか。 「泣くなったら」 俊は、我に返る。 お兄ちゃん、と思われる少年が、男の子をなだめている。 「とってやるから、な?」 少年は、あんな高い枝まで登るつもりだろうか?たしかに、自分もあんな年頃の頃は登れたが。 だが、それは、両手を使うからで。 「ホント?」 男の子は、涙声で言う。少年は、笑顔をみせる。 「お兄ちゃん、木登り得意なの、知ってるだろ?」 「うん」 笑顔になっていく男の子をみていると、危ないよ、とは止めにくくなる。 降りられなくなる、とわかれば、少年も風船を持ってくるのは、諦めるかもしれない。 などと、希望的観測をして、止めるのをためらう。 「登れると思いますけど、降りられなくなりますよ」 落ち着いた声で、さらりと、現実を言ってのけるのは。 声の方に視線をむけると、案の定、亮が立っていた。 「風船を持ったら、片手が使えなくなるでしょう?」 男の子と少年は、よく通る声の主を見上げる。亮は、相変わらず、あまり表情のない顔で風船のかかった枝を指し示す。 「あそこから落ちるのは、あまりぞっとしないですよ」 でも、そこまでの努力を、したいんだよ。俊は思う。 なんで、それすらも、させてやらないんだよ。 少年の顔から、表情が消えていく。危ないのは、少年もわかっているのだろう。 他人から止められてしまったら、その危険は、冒せない。 男の子が、少年を見上げる。 「お兄ちゃん、僕、お兄ちゃんがケガするのは、やだよ、だから、風船、いいよ」 「でも……」 少年は、さきほどの男の子よりも、悲しそうな瞳で、立ちつくしている。 「風船を取りたいのなら」 亮は、しゃがみこんで、少年たちと同じ、視線の高さで彼らを見る。 「登る、以外の方法にしないと」 驚いて、亮の方を見たのは、少年と男の子だけではない。俊もだ。 その、俊のほうをみて、亮はにこり、と笑った。 「ね?」 「……あ」 思わず、声を上げてしまう。 木になにかがつっかかったら、登って取るしか、という固定観念になっていたようだ。 そう、他の方法もある。 しかも、俊にしか、出来ない方法が。 でも、それは、武器、だ。 「許可しますよ?」 相変わらず、笑顔で亮は言う。 「それとも、自信がないから、黙っていたんですか?」 「ば、ばかやろ、忘れてただけだ」 幼い兄弟たちは、その場の展開についていけずに、俊と亮の顔を交互に見ている。 亮は、笑顔のまま、兄弟たちに告げた。 「あのお兄さんがね、風船、取ってくれるそうですよ」 期待に満ちた目が、こちらを向く。 俊は、ポケットに入れていた、自分の得物を取り出した。 そして、木をもう一度、見上げる。 いざ、自分が取ろうと思ってみると、本当に高いところにつっかかっている。 少しでも目算を誤れば、風船は空に飛んでいってしまうだろう。 『やはり、自信がないんですか?』と、言われるとは思ったが、思わず見上げたまま、尋ねる。 「……届くと、思うか?」 「届きますよ」 淡淡とした、声。 思わず、亮の方を見た。表情のほとんどない、整った顔が木の枝を見上げている。 感情が、こもっているとは思えない、声と顔と。 それなのに。 「いくぜ」 言うと、俊は、自分の得物を勢いよく地面に打ちつけてから、その先を、天に向かって投げ上げた。 |