もう、深夜に近い時刻だろう。 流れる雲の間からさした月明かりに、細い影が浮かんだ。 しかし、それはすぐにおぼろげな影となる。 すっかり人気の無くなった中央公園の土手を、影は歩いている。 しかも、後片付けを待つばかりとなっている侵入禁止の区域のほうだ。 ゆっくりと歩いてきた人影は、大きな樫の木のところで、足を止めた。 夜風が吹いてきて、さら、と髪をゆらす。 「……?」 人影は、訝し気な表情を浮かべた。 誰か、自分以外の気配。 ゆっくりと、樫の木に沿って降りていく。 思わず顔をそむける。 ひどく強い風が吹いたのだ。 それのせいで、あたりの雲が吹き払われたらしい。目を開けると、月明かりで、あたりはかなり明るく照らしだされている。 樫の木に寄りかかっていた人も、こちらに視線を向ける。 瞳が、あう。 顔を見合わせたどちらにも、表情がない。 風が、もう一度吹いた。 歩いてきた方の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。 「ずいぶんと変わった時間に、散歩されてるんですね」 聞きようによっては、皮肉ともとれる口調は亮のものだ。 言われたほう、俊も、皮肉っぽい笑顔になる。 「人のこと言えた義理かよ」 「そうですね」 亮は、あっさりと肯定する。 視線が、川面の方へと移る。 俊も、つられたように視線を動かす。 視線に合わせるように、亮は数歩、川岸の方へ行く。 対岸には、明日には撤去されてしまう、提灯に露店に。そして、目前には花火の残骸。 華やかなものたちの抜け殻は、どこか寂しい光景だ。 川を流れていく水の微かな音だけが、聞こえてくる。 数時間前までの喧燥が信じられないくらいの、静寂。 まるで、その静寂に埋もれてしまうかのように、亮は黙ってそれを見つめている。 俊も、対岸に視線を漂わせていたが、 「今年の夏祭りも、終わったな」 間に耐えられなくなったのか、ぼそりと言う。 亮は、相変わらず対岸の方を向いたままだ。返事はない。 もしかしたら、聞こえなかったのかもしれない、と思ったのか、俊はもう少し大きな声を出す。 「待ち合わせでも、してるのか?」 こんどは、俊の方に振り返る。が、月を背にしたので、亮の表情はうかがえない。 俊の表情の方は、はっきりと見える。 なにかに挑んでいるような視線が、まっすぐに亮を見ている。 返ってきた声は、対照的に淡淡としたものだ。感情が、まったくうかがえない。 「こんな時間に待ち合わせですか?ずいぶんと変わった発想ですね」 俊は、視線を少し反らした。 そのまま、黙り込む。 所在なげに、俊の視線が漂う。ただ、亮のほうは見なかった。 また、静寂が支配した。 沈黙を破ったのは、今度は亮だった。 「待ち合わせを、しているんですか?」 視線を、亮に戻す。 川岸に近付くにつれ斜面になっているので、数歩しか前に行っていないのに、亮は見上げるように、こちらを見ている。視線がこちらを向いているのはわかるが、やはり表情はわからない。 問いかけた声からも、相変わらず感情は読み取れない。 いったい、どんな表情をしている? もっとも、亮の顔が見えたとして、彼が感情がわかるような表情を浮かべているとも思えないが。 ポーカーフェイスが得意なのは、知っている。 それを知っていて、彼の表情をうかがおうとしている。 しばらく、亮をまっすぐに見ていたが、 「……してたけど、どうやら待ちぼうけだ」 俊は吐き捨てるようにそう言うと、背を向けた。 「じゃあな」 返事を待たず、そのまま、歩き出す。 亮からの返事はなかったし、俊も振り返らなかった。 後姿が見えなくなるまで、亮は見送っていたが、やがて視線を川面に戻す。 月明かりに照らし出されたその顔には、やはり表情はない。 すこし、視線を上げる。 空にあるのは、満月で。 あるはずの星が、見えない。 月明かりにかき消されて。 星が見えない。 亮は、そっと目を閉じる。 早足で川岸を離れたが、亮の気配が消えたところで、俊は歩調を緩める。 小さくため息をつく。 それで、自分の肩にずいぶん力が入っていたことに気付く。 気付いて、今度は苦笑が漏れてくる。 なにを、力んでいるのだろう? いまさら、どうしてあんなところに行ったんだろう? なにかを、期待していた? まさか。 らしくないことをした。 ここ最近、いろいろあったから、ちょっと疲れてるんだ。 自分の行動を、そう結論付ける。 中央公園の脇に止めておいた、バイクから、メットを取り上げる。 ふ、と空を見上げた。 えらく眩しい満月が、こちらを見ている。 「星が、見えやしねぇ」 ぽつり、と呟くと、メットを被り、エンジンをかける。 よく手入れされたそれは、気持ちのよい音をさせると、勢いよく走り出す。 月明かりにかき消されて、星が見えない。 街灯のせいではなく、月のせいで。 俊は、バイクのスピードを上げる。 玄関の扉を開けると、ペットボトルを手に階段を上がろうとしていた忍と会った。 「よぅ、お疲れサマ」 ペットボトルのプラスチックキャップをひねりながら、言う。 顔に、少しイタズラっぽい笑みが浮かんでいる。 亮は、なんのことか、と言うように少し首を傾げる。 忍が言葉を重ねる。 「見たよ」 「『五節の舞』ですね」 細いベルトをはずして、靴を脱ぐ。 「須于と麗花は、すっかり騙されてた」 「忍は、騙されなかったのでしょう?」 玄関に上がり、顔を上げた亮の口元に、微かな笑みが浮かんでいる。 「まぁな」 忍は答えてから、ペットボトルの中身であるお茶を、一口飲む。 「瞳は、隠せないからな」 「そうですね」 頷いてから亮は、少し首を傾げてみせる。相変わらず、微かに微笑んでいる。 「やはり、目立ちますか?」 瞳の、ことだ。 亮は、リスティア人にしては色素が薄い瞳をしている。 色素が薄いのは、瞳だけではない。全体的に、まるで水に溶いて薄めたように微かに薄いのだ。 肌も、髪も。 白を混ぜた色ではない。ただ、薄めた色、だ。 決定的に薄いわけではないのに、なんとなく目を引く。 ほかにも、そんな人はたくさんいる。亮よりも薄い色した人だって、だ。 なのに、亮は、目を引く。 多分それは、色のせいというよりは。 「そうだなぁ」 にやり、として忍は答える。 「美人だからな、今日も見とれてる奴がたくさんいたし」 「色は、目立たないと?」 亮は、正確に忍の言った意味をひろってみせる。 「そゆこと」 「でも、忍は瞳でわかったんですね」 忍は、もう一口、お茶を口にした。 「ああ」 立ちっぱなしでいたのは、少しの間なのに、ペットボトルは汗をかいている。手が濡れていた。 ペットボトルのキャップを、きゅっと締める。 階段のほうへと数歩行ってから、亮は振り返る。 「誰が言い出したんでしょうね、『目は口ほどにものを言う』って」 「さぁ……大昔の人間だろうな」 なんとなく、間の抜けた答えだ、と思う。 亮は、笑顔になった。 「おやすみなさい」 「おやすみ」 階段を上がっていくが、ほとんど足音がしない。 忍たちもそうだが、それは訓練されているからだ。軍隊、という性質上、できるだけ気配を消すのが必要だから。 でも、亮の場合はそうではなさそうだ。 単純に、体重の問題。 やせている、というより、彼はやせすぎだろう。必然、足にかかる体重も少ないから、音も立ちにくい。 その後姿を見送って、忍は少し肩をすくめた。 冷たさが失われてきたペットボトルを、冷蔵庫にもどすべく、台所に向かう。 笑顔が、ぎこちなかった、と思いながら。 |