さらりと吹く風に、独特の香りを感じる。
「白檀か」
故郷の香物の名を口にしてから、旅人は苦笑する。
とうに、国を離れてからの方が時が経っているはずなのに、懐かしいと感じた。
肩でうずくまるようにしている鳥が、ぼそり、と口を挟む。
「それだけではなかろう?」
鳥の言うとおり、風に乗って香ってきたのは、白檀だけではない。
ほんの少しずつであろうはずなのに、それすらも感じ取れる。
「そうだな、乳香と……桂皮の混ぜ具合がなかなかにいい」
「ほう、褒めるほどか」
いくらか気だるげに鳥は顔を上げる。
「確かに、心地良い香りだ」
大きく息を吸い込んでから、また、顔を伏せる。
旅人は微かに首を傾げる。
「大事ないか?」
「空気を感じると、空腹なのを思い出すだけだ」
「同じことであろう」
鳥の食は、人の抱く想いであり、食われた想いは消え行く。
この国の者には、けして手は出さない。
名を与えたものの命は、絶対だ。
だから、この国に入ってからこの方、鳥はなにも食べていない。
もうすでに、かなり空腹のはずであった。
鳥は、羽の間に頭をもぐりこませたまま、ぼそぼそと答える。
「我が言い出したことだ、気にせずと良い」
旅人は、静かに視線を前へと向ける。
かつて人であり、皇太子として生きた頃の国へと行ってみようと言い出したのは、鳥の方だった。
視界には、すでに王都が見えている。
懐かしい王宮が、そのまま残っているのがわかる。
残っているどころか、いまだ、あの城はこの国の象徴たるモノだ。
国を去った頃と変わらず富み栄え、周辺国の尊敬と憧憬の視線を受け続けている。
いま、国を治めているのは、甥にあたる者なのだと知ったのは、つい先ほどのこと。
また、ぼそり、と鳥がくぐもった声を出す。
「憐れと思うなら、香を合わせて焚いてくれぬか」
「香を、私がか」
いくらか驚きが篭った声に、鳥は眼だけが見えるほど、頭を出す。
「初めて会った時、良い香りがした。あれは、公子が合わせたモノであろう?」
皇太子であった旅人を、鳥は公子と呼んだ。
その名を久しぶりに聞いて、旅人の顔に微妙な笑みが浮かぶ。
香物を合わせるのは、この国では身分の高い者の当然のたしなみだ。
皇太子たる彼は、人格的政治的信頼と共に得ていた名声があった。
当代切っての香物の名手。
「そうだ、あれは私が合わせたモノだ。もう、随分と合わせてはおらぬが……」
視線を、王都へと戻す。
「それで、空腹の足しになるのならば、試してみようか」
「そこのお方」
振り返ると、まだ少年の面影を残した青年が立っている。
服は市を行く人と変わらぬが、どこかに気品がある。
王宮に関わりがある者と、かつて城の住人であった旅人には一目でわかる。
「私に御用ですか」
「はい、ぶしつけな質問をすることを、お許しありたい」
軽く一礼してから、青年は問う。
「いま、心地よく漂う香物は、貴方が合わせられた物だろうか?」
「その通りですが」
喜色が、青年の顔に浮かぶ。
「厚かましいながら、願いがあるのだが」
「なんでしょう?」
旅人は、ゆるやかに首を傾げる。
青年は、少し、声を落とす。
「ほんの少しの間で良いので、王宮に来てはくれまいか?祖父に会っては、いただけまいか?」
「王宮に、私のような得体の知れぬ者を招いてよろしいのですか?」
青年は、微笑む。
「貴方が合わせた香と同じ香りを、かつて、祖父が一度だけ、味あわせて下さった。祖父にとって、大事な方が残された香物、それと同じこの香を合わせられる方が悪しき方とは、どうしても思えない」
それから、少し、視線が落ちる。
「お会いいただければ、祖父は懐かしい方にお会いできた心持ちとなれよう。祖父は、明日をも知れぬ病の床にある。どうか、祖父の願いを叶えることに、手を貸しては下さらぬか」
す、と頭を下げられて、公子の顔には困惑が浮かぶ。
肩の上でうずくまっている鳥が、ぼそり、と口を挟む。
「行ってやれば良いではないか。別に、なにを捕らえるわけでもなし」
青年には鳥の姿も見えていなければ、声も聞こえていない。
それから、旅人が手にしている鳥篭さえも。
そうでなければ、こんな願いは口に出来まい。
緩やかに、旅人は微笑む。
「承知いたしました。お供いたしましょう」
「ありがたい」
青年の顔に、なんの影もない明るい笑みが浮かぶ。
王宮の奥へと案内されていく。
「この部屋に、祖父が伏している。お通りいただきたい」
青年が、頭を下げる。
軽く眉を上げた旅人に、青年は笑みを浮かべる。
「祖父に、夢を見せて差し上げたい。それには、私がいてはならない」
それから、軽く己の腰へと手をやる。
「ここにこうして、剣を佩いてあるゆえ、なにかあればすぐにも」
軽く頷き、旅人は凝った造りの扉を押し開ける。
奥の間の美しい更紗が張られた床の上には、やせ細った老人が横たわっている。
眠っているのか、動きがない。
そっと近付き、覗き込むと。
まるで、それを合図にしたかのように、瞼が開く。
その瞳が、大きく見開かれる。
笑みが、口元に浮かぶ。
「兄上」
その尊称は、ごく自然に老人の口にのぼった。
それは、そうかもしれない。
目前に立つのは、確かにあの日と寸分違わぬ兄なのだから。
しかし、確実に時は移ろっている。
ここに横たわるのが誰なのか、旅人は知っている。
王の前に引き出され、斬られようとしたあの日には、まだほんの幼子であったのだ。
膝に乗せ、物語を語ってやると、嬉しそうに小首を傾げながら聞いていた。
兄上のお話が、いちばん好き、と笑っていた笑顔を、旅人とて忘れたことはない。
それがいま、死の床に瀕して、己の姿を夢か幻かと疑うこともせず、微笑んでいる。
「ずっと、お会いしたいと思っておりました」
王家の長兄であり、皇太子という立場におり、それに相応しい人物、と言われていた頃と、なにも変わらない慈愛に満ちた視線が、ゆるやかに老人を見つめる。
「滅びなかったのだな……父があれだけ、暴虐の限りをつくしたというのに」
ずっと、それを思っていた。
この国に再び足を踏み入れてから、ずっと。
滅びなければいい。
そう、強く願い続けていたことは確かだ。
だが、暴虐をつくした父を民が許すとは、とうてい思えなかった。それに、王は自らの姿で民に我を教えてしまった。
乱れぬはずがない。
老人の笑みが、大きくなる。
「兄上のお言葉がございましたから」
「私の?」
旅人は、思わず尋ね返す。
「はい、妾の子である私にも分け隔てなく接してくださった兄上の残された言葉を、皆で必死に守り継ぎました……殺す者は殺される、たとえ相手が、理屈の通じぬ者であったのだとしても」
確かに、そう言った。
だが、それは理想に過ぎないと、誰よりも旅人自身が知っていた。
それを、守ったのだという。
確かに、守らねばこうはなるまいが。
「父上は、どうなされた」
旅人の問いに、老人の眉が、いくらかひそまる。
「一人、またとない忠臣を王を弑虐した罪で斬らねばなりませんでした……自分には迷惑をかける三族がおらぬ、とて」
「そうか。あれが……」
思わず、瞼を伏せる。
思い当たる者は、一人しかいない。
己のごく側に仕え、最も理解してくれた者。
常に側に置いていた為に、皇太子の宰相の意で、青の宰相、と呼ばれていた。
ただ、家族には恵まれず、父を早くに亡くし、子一人で病がちの母を養っていたのだった。
誰よりも信頼していた臣であり、そして友だった。
「誰もが、忠臣と称えておりますが……お許し下さいませ」
罪人として斬らねば、国が保てない。
旅人は、微かに首を横に振る。
老人は、いくらか心安げな顔つきになる。
「あの後、民の心に我が芽生えたこともございました。ですが、時はかかりましたが、こうして国は平安を取り戻しております」
「そうだな。民の顔に翳りがなかった」
「兄上がご覧になっても、そう見えまするか。安心いたしました」
心安げな顔は、満面の笑みとなる。
「兄上に、この国が無事であることをお見せしたかったのです……青の宰相殿にも……」
旅人の顔に、笑みが浮かぶ。
「私もあれも、この目でしかと見届けた」
老人は、目を見開く。
「青の宰相殿も……?」
旅人は、美しい飾りを施した紫塗りの窓枠に手をかける。
「縹青」
青の宰相と呼ばれた彼の名を呼ぶ。
思わず老人が目をそむけるほどの風が、部屋の中を吹き抜ける。
「祖父上様?!」
物音に気付いたのだろう、青年が剣を抜き払って飛び込む。
が、その足は、入り口で止まってしまう。
この世のモノとは到底思えぬ、空に溶けそうなほどに青い鳥が、窓枠にたたずんでいる。
その隣には、自分が呼んだ旅人が、不可思議な笑みを浮かべて立っている。
「これは一体……」
老人の顔に笑みが浮かんでいるのを見て、青年は戸惑いを浮かべる。
旅人は青年の方へは視線を向けず、老人へと告げる。
「皆と力合わせて、よくここまで治めてくれた。感謝する」
再び、風が吹き抜けて。
視線を戻したときには、もう、なにもいない。
国都を背にして歩く旅人の表情は硬い。
肩に頭を突っ込んだままだった鳥が、ようやく顔を出す。
「公子は、神となったかな」
「そうかもしれぬな、あんな消え方をすれば」
斬って捨てるような口調に、鳥は肩をすくめる。
「機嫌が悪いようだね?」
ぴたり、と旅人は足を止める。
「天藍」
名を呼ばれ、鳥は旅人の正面に降り立つ。
視線をますぐに上げて、旅人を見つめる。
「なんだ?」
「私を、たばかったな」
「たばかる?なんのことだ」
旅人となってから、初めて、あからさまな感情が顔に浮かぶ。
お前が王の心を乱したものか、と迫った時と同じ怒りが。
「私は、この国の者には手出しをするな、と告げたはずだ」
「だから、こたびもなにも食わなかったではないか」
皮肉な笑みが旅人の口元に浮かぶ。
「その自制は、なにがもたらした?お前の意思ではなかろう」
ますぐに鳥を見据えて、旅人は断じる。
「国を出る前に、縹青の命を食ったな」
ぐ、と握った拳が、微かに震える。
「お前は、私が会った時の化け鳥ではない。お前の中には……」
国に拘らず、自分に縛られず、生き延びると約束したのに。
声が、震える。
「縹青がいる」
鳥の視線が、落ちる。
ぽつり、と告げる。
「公子よりも先に、私が鳥に出会った」
旅人の目が、見開かれる。
「縹青?」
頭を上げた鳥の眼が、柔らかに微笑む。
「公子の声には、力があるな。名を呼んでくれるたび、私の意志が勝っていく」
片膝をついて、目線の高さを合わせてから、問う。
「私よりも、先に鳥に会った、というのか?」
「いくばくか、と付け加えた方がいいが。公子の処刑が決まった後だったから」
鳥の視線は、また、微かに落ちる。
「公子は自分のことも国のことも、忘れていいと言ったが、忘れられなかった。公子と共に築くはずだった国が壊れていくのを見るのは、忍びなかった」
旅人は、そっと手を伸ばす。
羽に触れる。
もし、人がそこにいたのならば、肩に手がかかったに違いない。
「願ったのだな」
「そう、そして、鳥に出会った……一目でわかったよ。王になにが起こったのかが」
どこか、楽しげな笑みが浮かぶ。
「だから、願ってやった。鳥は、嬉しそうに承知して、私が失って最も悲しむモノを探した……が、それはもう消え行くことが決まっていた」
つ、と視線が上がる。
「私にとって、ただ一人の主君で、そして親友である公子」
まっすぐな、視線。
迷いもなにもない。
何度、彼の視線に元気付けられてきたのか。誰にも本音を言えぬ立場であったけれど、彼だけには全てを話すことが出来た。
「戸惑う鳥に、私の命をくれてやる、と言ってやった。もちろん、全てを終えた後ににね。どうやら鳥は、公子にも興味を持ったのだな。そして、公子は最も賢く、鳥を収めた」
「だが、縹青が取引をした後だ」
鳥は、つ、とその嘴を旅人の頬に寄せる。
「私が、後悔していると思うか?国は保たれ、鳥は人を狂わせなくなり……そして、私は公子の側にいる」
ふ、と旅人の顔に笑みが浮かぶ。
「私は……友だけは失わなかったのだな」
あれほど平安を祈った国は保たれたが、自分の戻る場所はない。
人々が想うのは、過去に消えた皇太子だから。
鳥は旅人の顔を覗き込み、心なしか首を傾げる。
「友と呼んでくれるのか?私は見ての通りの化け鳥となりはてたが」
「私もそうは変わらぬ存在だよ」
旅人の口元に浮かんだ笑みが、大きくなる。
「それに、すでに、共に旅をしているではないか」
「それはそうだ」
鳥は翼を大きく広げる。
「これからも共に行くとしよう」
空に舞い上がった鳥を見上げ、旅人は微笑む。
「次は、どんな依頼人がくるやら」
鳥ははばたき、また、旅人は歩き出す。
2003.06.22 A stranger with a cage 〜A purple round window〜