「何を見てるんだ、亮?」
上の方から声がする。それも、少々遠くからだ。
別に、声をかけている人間が、彼より異様に背が高いとか、そういうコトでは無い。
声をかけている人間、劉備が上の階の屋根からぶら下がっているという暴挙に及んでいるせいだ。
しかし、すぐに劉備は身軽に彼の脇に降りてきた。
彼の方は、全く驚きもせずに、見ているモノから目を離さずに答える。
「張飛殿の喧嘩の仲裁を」
「誰だよ、そんな火に油注ぐようなコトした奴は?」
呆れたような口調だが、表情の方はおもしろがっている。
「で?」
劉備は、欄干に身軽に腰掛けた。
「どんな喧嘩なんだ?」
「痴話喧嘩ですよ」
「ふうん?ありゃあ騎兵と馬丁だな……じゃ、馬も喰わないってヤツだ」
欄干そばに立っている彼、諸葛亮も、くす、と笑う。
「騎兵が、馬丁の恋人を奪ったとか……馬丁は、呪ってやるって息巻いてますよ」
「おやおや」
劉備は、器用に足を組んでみせながら、肩をすくめる。
下の方の仲裁は、結局というか、やはりというか、泥沼にはまったようだ。
張飛の怒鳴り声が聞こえてくる。
「もう勝手にしろっ!」
劉備と孔明は、顔を見合わせて肩をすくめた。
馬丁が、森のとある木で首を吊ったのは、その晩のことだった。霧雨のような雨が振る夜だった。
それから三日後のことだ。
本当に、騎兵が死んだ。
馬の調練中に落馬したのだ。場所は、調練コースとなっている森の中。
馬丁が自殺したのと同じ森だ。
馬に関してはエキスパートのはずの彼の落馬は、それだけでも与えた衝撃は大きかったが、時期も悪かった。
馬丁が『呪ってやる』と言ってから、まだたったの三日だったのだ。
それに、追い打ちをかけるような出来事が起こった。
原因を調べに行った兵が、騎兵と全く同じ場所で、同じく落馬死したのだ。
さして学もなく、知識もなく、ただ迷信深い兵らは、動揺し始める。
馬丁の呪いだ、と。
それも、騎兵らが死んだのは、丁度、馬丁が自殺したところだ、と。
事実、騎兵らが死んでいたのは、まさに馬丁が自殺した木の下だったのだ。
徒歩で騎兵の捜索に行ったものは死なず、馬に乗って行った者だけが落馬して死ぬ、というのも奇妙な話だ。
最初はそれでも、辺りに馬にだけ効く毒草でも、と言われたが、しかし、それでは人だけを置いて、馬の方は元気に帰ってきたことに対する説明がつかない。
馬の足に、なんらかの傷でも負ったのか、と言うと、そうでも無い。
明らかなのは、馬丁の自殺した木の下に行くと落馬する、その不気味な事実だけだった。
「このままでは、兵の士気だけでなく、城下の民にも影響が……」
かなり深刻な顔つきで、孫乾が懸念を表明したのは、事件発生後一週間後のことだ。相変わらず殿の方は、慌てた様子もない。
「解決した後、呪詛祓いでもすればいいさ」
「呪いではないと?」
「お前はそう思ってるわけ?」
あっさりと聞き返されて、孫乾は一瞬、言葉に詰まる。
「原因がわからない限りは、呪いと同じコト、だと思いますが」
「だな、でも、原因があれば、必ず見つかるもんさ」
こういう時の劉備の笑顔は、人を安心させると同時に、相手に有無を言わせない何かがある。
「…………」
困ったような表情のままで、黙り込んでしまった孫乾の肩を、劉備は勢いよく、ぽんっ、と叩いた。
「大丈夫だよ、まだ、亮が音を上げたわけじゃないんだから」
もちろん、劉備とて、何もしないでのうのうとしていたワケでは無い。
劉備軍の誇る三代武将のうちでも、その注意深さ、確実さではピカ一の趙雲を、調査に向かわせていた。
「お帰りになりましたか、子竜殿」
迎え出たのは、孔明だ。
朝早くに出発して、今はもう夕刻。馬に乗っていって、同じ目にあっては元も子もないと、徒歩で行ったせいもあるが、ずっと調査に没頭していた証拠でもある。
「これは、軍師殿」
「その様子だと、よい結果ではなかったようですね?」
「はぁ、馬丁が自殺した木を、くまなく調べたのですが」
「くまなく?」
『まさか、木に昇って?』と、瞳が尋ねている。
「はい、木の先まで。それほどの高さも無かったものですから」
と、趙雲は、木の高さを測るように目線を上げた。つられて孔明も顔を上げる。
が、すぐにそむけた。
「どうなされた、軍師殿?」
「大丈夫です、少し、まぶしかっただけで……子竜殿の槍に、夕日が……」
孔明は、不意に口をつぐむ。
「?」
趙雲は、不思議そうに孔明を見つめる。
「たしか、騎兵が死んだのも夕方でしたね?」
「そう聞いておりますが」
「子竜殿が調べたのは……」
「馬丁が自殺した木ですが?」
それまで、どこか呆然とした顔つきに見えた孔明の表情が、明るい笑顔になった。
「子竜殿のおかげで、解決しそうですよ」
いい終えるか終えぬかのうちに、彼は趙雲に背を向けて駆けて行ってしまう。
「???」
趙雲の方は、呆然としたまま取り残されていた。
「我が君!」
「何だ亮か?珍しいな、息切らして」
確かに、孔明の顔には、普段とは似ても似つかない、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「わかりましたよ」
「え……?」
「だから、『どうして騎兵が死んだのか』が、です」
「本当か?!」
劉備の顔にも、明るい表情が浮かぶ。
「で?どういうコトなんだ?」
孔明は、それには答えずに、にっこりと微笑んだ。
「我が君は、急に暴れ出した馬を制御する自信は、おありですか?」
「そりゃ、それが予想できりゃ、なんてこたないと思うよ」
思わずまともに答えて、はた、とする。
「お前、まさか?」
「ええ、確かめてみようと思うんです」
「…………」
最初、呆然とした顔だった劉備も、すぐに笑顔になる。
「おもしろそうだな」
夕方の木々の木漏れ日は、柔らかい光、というよりも、何かの炎がちらちら見えている、と言った方が正しい。
「……そろそろですよ」
劉備の後ろに乗った孔明が、声をかける。
「しっかり捕まってろよ、亮」
劉備が言い終えぬうちに、馬が大きくいなないたかと思うと、前足を振り上げる。
「来た来た」
劉備の方は待ちかまえていたので、あっさりと馬を制御してみせた。
振り落とされそうになりつつも、劉備にしがみついたままで、ある一点を凝視していた孔明は、馬が大人しくなった後も、じっと目を凝らしていたが、やがて、にこ、とした。
「我が君、木登りはお好きですか?」
「得意だけど?」
「では、今回の事件の犯人を捕まえて頂きましょう」
「犯人?」
「そう、あの木の上……あの枝です」
孔明は微笑んだままで、馬丁が自殺した木からそう離れていない、一本の木を指してみせた。
「これが、犯人……?」
木から降りてきた劉備は、自分の手元にあるモノを、じっと見つめる。
彼の手にあるのは、槍先である。それも、相当よく磨かれているモノだ。
「そうですよ、これが犯人です……馬丁は、騎兵が訓練コースにしている道順を知っていたんですね、だから、馬の瞳に光が反射する高さに、これを仕掛けて、自殺したわけです」
「なるほど、こんな小さいもの、そう簡単に見つかるわけ無いもんな」
劉備の手にあった槍先を、自分の手にとった孔明は、光に透かすように持ち上げた。
「それに、自分が自殺した近辺で死人が出れば、『呪い』で片付けられると思ったんでしょう」
「自殺には、そんな計算があったのか」
しばし、感心していた劉備は、にや、とする。
「でも、うちの軍師殿にゃかなわなかったってワケだ」
それを聞いて孔明は、首を横に振った。
「偶然ですよ、あえて言うなら、子竜殿のおかげです」
「どうして?」
「子竜殿の槍がね、実によく磨いてあったんですよ」
「それが反射して気付いたわけだ」
「そういうことです」
もう一度、槍先を自分の手にとってみた劉備は、軽く放り投げる。
「ま、一件落着ってとこだな」
放り投げられた槍先が、見事に劉備の手に戻ってきたまでは良かったが、槍先の尖ったところが手の平に刺さって、大変にマヌケだったコトを除けば、事件は実に円満に解決したのである。
〜fin.〜