「天にも、間違う時がございましょう」
思わず、相手の顔を見つめた。
隆中の自宅で劉備と相対してから一刻がすでに過ぎていたが、亮は初めてこの男を本当に見つめた。
不遜なことを言ってのけた割に、劉備は穏やかな瞳をしている。
今年でもう四十七歳を超えようとしてるはずの彼は、言われなければ三十代前半とも思われた。
長く戦場を駆け回ったその顔は、よく日焼けしている。
戦争に縁のない荊州に身を寄せてからも鍛錬を怠ってはいないのだろう、体つきも引き締まって見えた。
この男はどうやら、今まで通りにはいかないらしい。
今までに、仕官の誘いは幾度となく受けていた。
うけるたび、亮は、同じ答えで断ってきた。
『あと百年は乱世が続くと星が告げておりますゆえ、今は何をしても無駄と存じますが』
どんなに食い下がっていた使者も、この台詞をきくと冷笑を浮かべて帰って行く。
賢者と聞いていたが天文に頼るしか能がないのか、とはっきり口にした者もいる。
まさにその反応が、亮のねらいとも知らずに。
今回も劉備に理想をしゃべらせるだけしゃべらせておいて、この伝家の宝刀である台詞を持ち出したのだ。
根拠のない台詞ではない。
天文を本当に能くする者が見れば、すぐに読み取れるほど、はっきりと星は告げていた。
何をしても無駄なのに、あえて手をつければ、さらにこの世は乱れるだろう。
出仕をせぬのは、彼なりの根拠あってのことだ。
いつかは、この戦乱の世も収束する。
天意に逆らって何になろう。
人に対して、あまりにも天は大きすぎる。
幼いころからの経験が、そう告げていた。
天には逆らうな、と。
しかし、目前にいる男は『天の方が、間違っている』と言う。
あまりにも不遜な台詞。
でも、心が跳ねた。弾けるようにして、なにかが溢れ出してくるのがわかる。
あんな大きなものに、ちっぽけな人間が逆らうだけ無駄だ。
そう思うのに、冷たく凍り付いていた心が熔けていくのがわかる。
なにも言えずに、劉備の瞳を見つめ返す。
この男の瞳には、嘘がない。
『天が間違っている』
本気で、思っているのだ。
しかし、問い返さずにはいられなかった。
「本当に、そう、お思いですか?」
先ほどまでとは語調の異なる問いに、劉備は相変わらず穏やかな声で答える。
「そう、思いたいのかもしれません」
彼は破顔した。
「どうしても、生あるうちに平和な世の中が見てみたいのです。この手で、作り上げてみたいのですよ」
屈託のない笑顔。
何度、その台詞をききたいと思っただろう。
『天が、間違っている』
『このように、罪のない人々を苦しめて何になるのか!』
何度、叫びたかったことか。
天意に従いたかったのでは無い。
逆らっていると知っていて、それをする者に逢いたかった。
そうしたら、己の願いも叶えることができるかもしれない。
同じことを思い、本当にやろうとしている男が、天意に逆らおうとする男が、初めて目の前の現れた。
もう、心がとめられぬ。
「私は、将軍のような方を待っていたのかもしれません」
もう何年も浮かべたことのなかった笑み顔が、亮の顔に浮かぶ。
「天が間違っている、と言えるお方を」
劉備も、微笑み返した。
「私も探していたのです。一緒に天に逆らう者を」
外に満開の桃が、微風に誘われて花びらを散らす。
天に逆らう者が、ここにいるとも知らぬげに。
〜fin.〜
1998.12.08 Phantom scape I 〜Traitors to a Providence〜
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