「ああ、こんなところにいたのか」
聞きなれていた声がして、顔を上げる。
「元直、ほら行こうぜ、時間がない」
相手は、徐庶の腕を乱暴につかむと、引き上げた。
ぽかん、としていた徐庶は、立ち上がって、はじめて我に返る。
「何の時間がないって?」
それから、喉の奥にわけのわからぬ違和感を感じつつ、相手の名を口にした。
「士元?」
名を呼ばれた方、鳳雛ことホウ統士元は奇妙な顔つきになった。
「らしくないなぁ、約束を忘れるなんて、実にお前らしくないぞ」
「約束?」
「そうだよ、孔明が久しぶりに休暇が取れたから、隆中の家に行こうって……」
とたんに、視界に周囲の景色が飛び込んでくる。深緑のまぶしい、草盧への道。
「あー、ようするにだ、士元と俺は、これから孔明の家に行くと?」
「おいおい、しっかりしてくれよなぁ」
確認するように、一語一語を区切って言う徐庶に、士元は肩をすくめる。
「孔明が草盧に戻ってくるのは、……ぶりなんだから」
「え?」
よく聞き取れない部分があって、聞き返す。
「ああ、ほら、あいつ、出てきてる」
しかし、士元には、聞き返したのが耳に入らなかったらしく、前を指して見せる。
草盧の門の奥に、仲間内ではもっとも物静かで、時にはそれは不気味でさえある、人影が見える。
あちらもこちらにに気付いたのだろう、門の蔭から顔を出す。
「やぁ、いらっしゃい」
その顔を見たとたんに、徐庶は、ずっと前から彼に、諸葛亮に尋かなければならぬことがあるのに気付く。
なにか、彼に確かめねばならぬことがある。
しかし、何を?
喉の奥に、またもや違和感を感じる。
「どうかしたのか?」
孔明がほとんど無表情のまま、首を傾げてみせる。
「今日の元直はなんだかおかしいんだ、ぼーっとしてるのさ」
徐庶のかわりに、士元が肩をすくめて見せる。
「なぁ」
同意を求められても、徐庶としては困ってしまうわけだが。
「いや、その……」
「仕方なかろう」
孔明の口元に微かな笑みが浮かぶ。
「元直も、仕事があるのだし」
「は?」
「ぼけるなっつうに。魏に仕え始めたのは、おまえだろうが?事情はおいとくとしても」
「……ああ」
事情がのみこめてきたような、こないような。
士元が情けない声をあげる。
「頼むぜ、元直ぅ」
「まぁ、とにかく中にはいれよ、士元、雪辱戦をするんだろう?このあいだ、元直に負けた分の」
「何の?」
「ばかやろう、囲碁に決まってるだろうが!!」
思わず声が大きくなった士元を見て、孔明が吹き出す。
「勝ったほうは覚えていないものさ」
「いや、そんなつもりは……あれ?でも、それ、いつだったけ?」
どうも、士元と孔明の言う囲碁をやった日が思い出せない。
だいたい、この周りの様子の印象が奇妙な感じなのだ。
景色も、そばにいる二人でさえ、ひどく懐かしい。
門をくぐりかけて、今日はやけに一人で騒々しい士元が、ぱんっと手を打つ。
「あーっ!酒忘れたよ、酒!俺、買ってくる!」
「あっ、ちょっと、おい?!」
とめる間もなく、彼は走り出してしまう。
その後姿を見て、孔明はくすくすと笑っている。
徐庶はどうかというと、何がなんだかわからないままに士元を見送り、呆然としている。
「元直、先に入っていよう」
呆然としたまま、つっ立っている彼に、孔明が声をかける。
「あ、ああ……」
返事をして、振り返って、孔明と目が合って。
「なぁ、孔明」
その質問を、半ば機械的に徐庶は口にする。
「お前が、玄徳様にお仕えした理由は……」
孔明の口元に、なんとも言えぬ不思議な微笑が浮かぶ。
「どうやら元直は、士元の言うとおり、少々ぼうっとしているらしいな」
「え?」
「だって、そうだろう?ずいぶんと物覚えが悪いじゃないか?僕は何度も言ったはずだよ、『僕が仕える人は僕自身が選ぶのであって、他人のいかなる言葉も事情も関係無い』とね」
「…………」
「僕は、自身の目で、劉玄徳という人物が仕えるに足る男だと見たからこそ出仕した。それだけだ」
ぷつん、という何かが切れる音が響く。
そして、徐庶は全てを理解する。
なぜ突然、士元が現れたのか、隆中に来ることになったのか。そして、孔明に会うことになったのか、全てを。
「孔明、お前、まさか……」
「後悔は、してないよ」
孔明は、にこ、としてみせる。
「自分で選んだ道だ。それに」
徐庶にはわかっていた。さっきの『何か』が切れた音の、『何か』が。
士元と孔明は、それを切るために来たのだ。
「これで、我が君のところへ行けるから」
切れたのは、徐庶の心の中から、しっかりと孔明を結び付けていた、一本の糸。
隆中の景色も、草盧も、強くなった光の中に消え、あたりは何も無くなる。
そして、目前の孔明にからまり、まとわりついた一本の糸が、まるでその命を失った、とでもいうかのように、くたり、と、孔明の足元に落ちる。
「これが、最後の一本だ」
背後から声がする。
振り返ると、士元が立っていた。いや、浮かんでいた、というほうが正確かもしれない。
この空間には、何も無かったから。
「蜀の連中の思念は、比較的、簡単に切れたんだがな。どうしても、これが」
と、孔明の足元を指す。
「からまって、切れなくてな」
そして、いつもの腹に一物ありといった感じの笑みを浮かべる。
「悪かったな、ヘンなとこに呼び出して」
「いや……」
徐庶は答えつつ、後ろの孔明が動く気配に振り返る。彼は、自分の足元に落ちた糸を拾いあげていた。
そして、それを丁寧に巻き取り、手の中に握り締めて、徐庶に微笑みかける。
「どうなると思う?」
「え?なにが?」
「この手を開いたら、さ」
「さぁ……な?」
ただ、すべてが終わるのだろう、と思う。思うが、口にしなかった。出来なかった、という方が正確かもしれない。
「星になるんだよ」
「星に?」
散文的なことを思っていたので、不意に詩的なことを言われて戸惑う。
「流れ星になるのさ、人を大地に縛り付けるしがらみが全て」
そして、彼は、徐庶の返事を待たずに、その手を開いた。
「父上、このような所で何をしておいでです?」
聞きなれている声がして、顔をあげる。
「星を、見ていたんだよ」
「星?」
彼の息子は、父親の隣に来て空を見上げた。
「ほう、今日はずいぶんと星が流れますね」
「ああ、あの中に、わたしの……」
つぶやくような父親の台詞に、とまどったように息子はそちらを向く。
「え?」
「いや、なんでもないんだ」
徐庶は微笑むと、空を見上げる。そして、息子もまた、空を見上げる。
西暦234年、秋のこと。
〜fin.〜
1999.01.01 Phantom scape II 〜his last question〜
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