お前が、『飛びたい』と言ったから。
飛べると、思ってた。
お前と一緒なら『飛んでみたい』と思った。
高く、空高く。
蒼空を、自由に飛びまわれると、思ってた。
だから、飛び立った。
お前がいなくなっても。
俺は、飛びつづけようとした。
お前が、望んだから。
『飛びたい』と、望んだから。
だけど、いま、見えるのは。
形容することすらできない速度で、せまりくる地面。
落ちていく。
まっさかさまに、落ちていく。
水平線が見える、大河の向こう。
そこに、敵がいる。
いままでで、最大の敵が。
曹操軍。
中華の三分の二までを、手中にした男。破らなければ、すべては彼の手中になる。
どんな手段を使ったとしても、それだけは、避けねばならなかった。
負けることはできない。
曹操の手に、天下は渡さない。
地に、落ちぬために。
いつか、天に届くために。
後ろから近づく足音に、周瑜は視線を河から足音の方へと移す。
久しぶりに見る魯粛の温和な表情の後ろに、白い人が現れる。
紹介させずとも、それが諸葛亮なのだと判断はつく。
どことなく兄である諸葛瑾の面影があるし、なによりも雰囲気が。
圧倒的に場を支配する存在感はないのに、確実にそこにいる、場違いなくらいに華奢な影。
もっとも、影、と思ったのはこの弟に対してだけだ。兄の方は影、という感覚はうけない。
言いかえるなら、兄は陽、弟は月を負っているような、そんな印象をうけた。
なにかに照らし出されなければ、輝かない。
理由もわからずに、ぞくり、とする。
「お久しぶりです、都督どの」
ゆるやかな声が耳に入って我に返る。
目前まで、魯粛が来ていた。
「おう、元気そうでなによりだ」
「こちらが」
自分の後ろについてきた人物を指し示す。
「諸葛謹どのの弟で、劉備軍の使いとして見えられた諸葛孔明殿です」
先に、諸葛謹の弟、という言葉で親近感を出そうとしているあたりが、魯粛のやさしさだろう。
微苦笑を浮かべながら、初対面の挨拶を交わす。
同盟を結んだから戦場にも立ち合うといいという、体のよいコトを言われ、軟禁されている哀れな存在。
自分の立場はよくわかっているのだろう、言葉少なに挨拶を済ませ、そして割り当てられた宿舎へと向かってしまう。
照らし出されなければ、ただの石ころ。
そう、照らさなければいい。
だが、この焦燥感はなんだろう?
儀礼的に作戦会議に呼べば、おとなしく末席に連なる。が、自分から口を開くことは全くない。
こちらから尋ねることもなかったから、会議中に彼の声をきくことはなかった。
いつしか、彼は影のようになる。
呼ばねば、参加せねば、外交の均衡がくずれるから。
天に届くために、邪魔なモノをどけるために。
この同盟をつぶすわけにはいかないから。
自分は、そのために彼を呼ぶ。
ならば、彼は?
影でしかないと知っていて、不満な様子もない。
均衡を保つだけだと知っていて、苦痛な様子もない。
なにが、彼をそうさせているのか。
いや、わかってる。
わかっているから、影でしかない彼に、視線を向ける。
静かに羽をおさめて、飛び立つときを待つ白い鳥。
光があたらぬうちは、石像のようにひっそりとして。
時が満ちて光があふれれば、大きく羽ばたくだろう。
かつては自分の背にもあった、両翼を広げて。
その翼、ここにいるかぎりは、広げさせない。
この片翼が飛ぶのを邪魔すれば、容赦なくむしりとる。
両翼を、封じ込めなくては。
片翼で、飛びつづけられないから。
まるで、睨みつけるような視線にも、彼は動じた様子はみせなかった。
ただ、無表情に会議の行方を見守っていた。
余計な口は、はさむことなく。
もちろん、そんなスキをつくることもしなかったけれど。
哀れな鳥は、羽を広げたくとも広げられない。
両翼があっても、翼のないのと同じこと。
彼を、封じ込めたと信じていた。
やがて長江に東南風が吹き荒れる。
望んでいた風だった。
待ち望んでいた風だった。
だが、予想外の雨。
使いたいのは火。
思わず、唇をかみ締める。
その様子を、そっとうかがうように見つめていたが。
「芝なら、孔明殿の宿舎に」
魯粛が、おずおずと告げる。
「まさか?!」
「本当です、『今が好機、逃すことがあってはなりません』と」
まさか、ともう一度心で呟く。
足が、宿舎へと向かった。
「!」
言葉どおりに、屋根の下にはうずたかく積まれた芝があった。もう、泊まり主のいない、宿舎に。
これがあれば、狙い通りに戦は進む。
だけど。
誰にも、告げなかったはずだ。
魯粛にすら、告げていなかった。
東南風を待っている、と。
火をかければ、大軍に勝利できる、と。
己の中の秘中の秘の策であったのに。
彼は、黙って座っているだけだったのに。
読まれていた?全てを?
自分にすら読みきれなかった、天候までも読んでいた?
そう、彼は、読んでいた。
だから、静かに見つめていたのだ。
己の思い通りにことが運ぶのを、ただ、静かに。
両翼を封じ込めたつもりでいたのに。
大きく、広げていたのだ。
こちらには見えぬほどに大きく広げて。
そして、羽ばたいた。
両翼で、大空に羽ばたいてみせたのだ。
劉備という、片翼を得て。
目前の大事を見失うわけには、いかなかった。
大きな障壁を取り除く機会は、いましかない。
彼に言われずとも、わかっている。
大号令を、かける。
曹操軍は、火の海に沈んだ。
だけど。
両翼の鳥が、羽ばたいてしまった。
片翼で、どこまで飛びつづけられる?
「蜀を、攻め取ります」
それしか、片翼で両翼を叩き落す方法は、なかったから。
片翼が、痛んできているのは知っていた。
だけど、いまやらなくては、間に合わない。
翼の寿命が、間に合わない。
急がなくては。
目前の手を染める赤いものは、翼からひきちぎられていく羽の悲鳴。
その数は、日に日に増していく。
急がなくては。
あと、少しなのだから。
ある日届けられる、一通の手紙。
丁寧な文字でつづられた、彼の手紙。
「無理ですよ、いまは」
暗に、「この土地を通ることはさせない」と告げる。
読まれている。
すべて、彼に読まれている。
自分が何をしたいのか。
蜀を攻めるのは、口実だ。
本当に攻めたかったのは、荊州。
全ての羽が、引きちぎられる音がする。
叩きつけられるように、地面に落ちる。
すべてを粉々にして。
お前が『飛びたい』と言ったから。
お前と一緒なら、『飛んでみたい』と思ったから。
だから、飛び立ったけれど。
やっぱり、片翼では、飛べなかったよ。
お前の望みどおりに、飛びたかったけれど。
ごめんな。
目の端に、月に照らされるように翼を広げる、白い鳥が見える。
白い鳥よ。
俺を撃ち落した白い鳥よ。
いまは両の翼を、思いきり伸ばすことのできる鳥よ。
大きく羽ばたいて飛び立った、白い鳥よ。
いつか、片翼を奪われるとき。
お前はどうするのだろう?
片翼を失っても、飛びつづけるのだろうか?
〜fin.〜
2000.09.18 Phantom scape III 〜A single wing bird〜
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