振り返った彼の瞳と、視線があった時。
正直なところ、驚いた。
こんなにまっすぐで、強い瞳であったのか、と。
何を敵に回しても、恐れを抱くことのない瞳。
それは、自分が手にしたかった瞳だったから。
隆中にいたころの彼は、どこか諦めたような瞳をしていた。
どんなに白熱した議論を戦わせていても、彼の視線はどこか冷めていて。
だから、他の塾生たちは、癇にさわったのだろう。
もともと叔父が、自分と彼とを鳳雛、伏龍とあだ名したこと自体、塾生たちにはおもしろくないのだ。
彼らにとっては、馬鹿にされているように感じたのだろう。
でも、そういうのではない。
そう気付いたのは、あの時。
水鏡先生の庵からの帰り道、一緒に歩いた時のことだ。
ずっと、なにかを考え込んだ様子で歩いていた彼は、視線を空へと向ける。
「誰も、思わぬのが不思議だが……そういうものなのかもしれない」
まるで、風にでも話しかけているようで。
だが、その次の台詞に、どきり、とする。
「天にも、間違う時があるだろうに」
「え?」
思わず聞き返すと、彼は我に返ったのだろう、ふ、と笑みを浮かべた。
それから、首を横に振った。
「なんでもない、士元、忘れてくれ」
それ以上、問うてはいけない気がして、そのまま、自分も黙り込んだ。
彼は、それきり、天の誤りについては、口にすることはなかった。
ただ一度であったけれど。
彼が何を思っているのか、それは察しがついた。
容赦なく民衆を叩き潰していく、天の方が、間違っている。
自分も、そう感じたことがなかったわけではないから。
あまりにも不遜すぎて。
慌てるように、自分の中から追い出したけれど。
でも、彼は常に思っていて。
それでいて、どうすることも出来ず、諦めていて。
だから、いつも、そんな視線だったのだ。
でも、河岸で再会したあの日は。
こちらをまっすぐに見つめてきた。
口元に、笑みさえ浮かんでいて。
そして、弾んだ口調で、自分の手をとる。
「士元、君も来るといいよ」
「俺も?」
戸惑って、問い返す。
誰かに仕官を勧めるなど、彼らしくない。
彼自身が、己の意思で決めることに口を挟まれるのを、よしとしなかったのだから。
「君も、私と同じことを考えていたろう?」
「同じこと?」
「そう、天に逆らえるものなら、と」
躊躇う様子もなく、はっきりと口にされて、ますます戸惑う。
「孔明……」
彼は、くすり、と可笑しそうに肩をすくめる。
「私がいつだったか、思わず同じことを口にした時、君は驚いたようだったけど咎めようとはしなかった」
それ以上は、言われずともなにが言いたいのか、わかる。
そう、自分の心にも、同じ疑問があったから。
消そうとして消せぬ、願いがあったから。
天に、逆らえるものなら。
「天への反逆を続けるにはね、平衡が必要なんだ」
彼は、相変わらず笑顔で、だが穏やかに続ける。
「それには、君の力がぜひとも欲しい」
「…………」
彼は、迷いを断ち切ったのだ。
諦めることを、やめたのだ。
そして、同士を見つけて、歩き出した。
だから、こんなに強くて、まっすぐの瞳なのだ。
「考えさせて、くれないか」
心のなにかが、動き出すのを感じたけれど。
まだ、決心はつかなくて。
ただ、彼は謎をかけたのだと、それだけはわかる。
彼は、頷いてみせた。
「必ず、君は私たちのところを選ぶよ」
決め付けるように言ってのけると、彼は、彼の同士たちの待つ場所へと帰って行った。
それから、数ヶ月も経たぬうちに。
自分は結局、彼の言葉通りに、彼の所属する軍へと身を投じた。
彼の言う、平衡の意味がわかったから。
彼の主君と仰ぐ男が、なにをしようとしているのかが、やっとわかったから。
これは、壮大な茶番だ。
天がこの世を滅ぼそうとするかのように与える戦乱を呼ぶ力を、分散し、分断し、悲劇を、出来うる限りに少なくするための。
敵を演じているはずの男さえ。
本当は、そうではないのだと。
だから、平衡が必要なのだ。
迷うことなどなかったのだ。
諦める、必要さえ。
この大地は、天に逆らう者で溢れている。
それからは、息つく暇さえ、無い日々で。
机上の空論でない論議が、こんなに面白いなんて。
次はどうやって、自分たちの目的へと近付くか。
それを考えることが、こんなに心浮き立つことだったなんて。
きっと、彼が手を差し伸べてくれなかったら、知らなかった。
あの、まっすぐな瞳を見なかったら、出来なかった。
だから。
これは、俺の役目だ。
己に逆らう者たちに、天が下した判断は。
抹消する、ということ。
先頭に立ち、剣を握り、進む男を消し去るということ。
星に現し、これ以上の手出しを許さぬと、告げている。
蜀という、地盤を得る前に。
手出しをやめろと告げている。
さすがの彼も、空を仰いで眉をひそめる。
「汚い手を使う」
「裏を、かいてやればいいさ」
俺が言う。
天が、間違っている。
そう思うのは、彼一人ではない。
俺一人でもない。
だから、進まなくてはならない。止まってはならない。
その為には、主君と仰ぐ男を、守りきらねばならない。
使える手段は、なんだって使って。
彼には、俺の考えがすぐにわかったらしい。その、端正な眉をひそめる。
「士元、無茶なことを考えるな」
「いつだって無茶じゃないか、俺もお前も」
それから、彼の生真面目なくらいにまっすぐな視線を、まっすぐに見つめ返す。
今は、それが出来る。
俺も、迷いも諦めも捨てたから。
「なあ、孔明?」
たじろぎもせずに、俺の視線を受け止めてくれている。
「俺がやらなきゃ、お前がやるだろう?」
「……そうだな」
まっすぐな彼の視線が、微かにゆれる。
「どちらかは残らないとならないし、それに俺はもう決めた」
「勝手に、決めるな」
「いや、決めた、お前を残したい」
言ったら、自然と笑みが浮かんだ。
「お前が手を差し伸べてくれなかったら、俺はこうしてはいなかった……諦めたままだった」
それだけは嫌だと思っていたのに、自分ではどうすることも出来ずに。
もちろん、決めたのは主君となった男に会ってからだ。
だけど、きっかけは彼の手だから。
「だから、その手を残したい」
いつか、他の誰かにも差し伸べられるように。
これほど、迷いがなくて強い瞳に、誰かが出会えるように。
「それにね、劉備軍の軍師は、孔明なんだよ」
「なにを言うんだ、君だって……」
「気付いてなかったのか?皆がお前を信じてるから、お前も信じていられるんだよ」
それは、不遇であると知っていて身を投じた彼だけが、得られたもの。
俺もいまは、まっすぐに見詰められる。
でも、こんなに強い瞳は、まだ出来ない。
そう、これから先のことだけではなくて。
いまは、この強い瞳が我が軍には必要だから。
これ以上、彼になにも言わせる間も与えずに俺は立ち上がる。
背を向けた俺に、彼の声が届く。
「士元!」
俺は、肩越しに、ただ、手を振った。
白馬の上の俺の胸元を。
一本の矢が、貫く。
どこからともなく、聞こえる声。
「劉玄徳を討ち取ったぞ!」
馬鹿だな。
俺は、笑みを浮かべる。
お前らが殺めたのは、偽者なんだよ。
天が消したいと望んだ男は、今ごろ城を抜いている。
すぐに、彼が追いついて。
そして、一緒に蜀へと入る。
天の、思い通りにはさせない。
残っているのは、強くてまっすぐな瞳の、天翔ける龍だから。
〜fin.〜
2002.04.10 Phantom scape X 〜A dragon's pupil and A phoenix's wing〜
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