その知らせが届いた瞬間の感覚を、どう言い表して良いのか趙雲自身にもわからない。
なにかが壊れるような、という表現が最も近いだろうか。
自分ですらそうなのだから、主君の心中たるやいかばかりか。
共に生き、共に死のうと言い合っていた関羽を失ったのだ。
想像を絶するということは、誰もがわかっている。
だが、だからといって感情のままに動いていい、というわけではない。
むしろ、だからこそ冷静さが必要だと趙雲は感じている。
その点は、今や丞相という立場となった諸葛亮も同じだった。
根気良く主君の視線を民へ天下へと向くよう、努力を続けて、漢建国までしてのけた。
だが、心の底にある思いまでもを消し去ることなど、誰にも出来はしないのだ。
いつか、関羽の仇を。
どうにか押し込めていた思いは、いつしか心を侵食し、一杯となる。
出兵。
大号令は発せられた。
主君の心に、どれほどに暗く熱い炎が燃え盛っているのか。
それがわからぬ趙雲ではない。
共に過ごした時は、兄弟と言いあう三人ほどでないにしろ、理解するに充分だ。
だが、だからこそ。
一片の土地さえ無かった頃からの皆を知るからこそ、抑えて欲しかった。
いや、抑えねばならなかったのだ。
今や主君の心を抑えるものは、全て暗い炎に焼き尽くされて何も無い。
もう、何者にも止められない。
ただ、一人を除いては。
趙雲は珍しい性急さで、その一人のいるであろう場所へと向かう。
己と同じく留守を預けられた孔明の姿は、楼の上にある。
ここしばらく、いつになく幾度もそこにいるということを、趙雲は知っていた。
「丞相」
尊称で呼ばれた彼は、無表情な顔で振り返る。
「珍しいですね、こんなところにいらっしゃるとは」
「丞相に、お話があって参りました」
言われて、ほんの微かに首が傾げられる。
「ここで伺っても、よろしいのでしょうか?」
「はい」
頷いてから、軽く周囲を見回す。
丞相たる立場の人間が、一人佇むこの場所を侵す者は滅多にいない。
「むしろ、こちらが良いと」
「……では、伺いましょうか」
静かな声。
聡い彼は、趙雲が何を言い出すつもりでいるのか、とうにわかっているのに違いない。
なのに、見え隠れする話題避けようとするかのような様子に、珍しく語気が強まる。
「今回の出兵のことですが」
無表情なまま、視線がいくらか伏せられる。
が、そのくらいでは気圧されぬほどには、彼という人間を知っている。
「お止めすることが出来るのは、もはや丞相しかおりますまい」
先ほどから丞相と連呼しているのは、意図あってのことだ。
今や皇帝を抱く国となっているのに、感情に走っては、今までの努力が水泡に帰してしまう。
そのことを最も知っているのは彼のはずなのだ。
そして、立場を考えたら、もっと動くことが出来るはず。
動いて欲しい、というのが切実な願いといっていい。
今まで命を落としてきた数多くの同志たちの為にも。
静かに視線を落としたまま、孔明は静かに言う。
「いえ、もはや私にもお止めすることは不可能です」
けして荒げた声ではないが、余人が聞けばこの一言だけで黙り込んでしまうだろう。決然とした何かが、はっきりとそこにはある。
が、ここで引いたら終わってしまう。
「いいえ、そんなことはありません」
趙雲とて、声が大きくなるわけではない。だが、その語気は更に強まる。
「丞相ならば、お出来になる」
視線をあげた孔明は、静かに趙雲の目を見つめる。
「ご存知でしょう、私はもう、何度も諫止の上奏をしてきました。その結果が、大号令です」
「いいえ」
趙雲は、首を横に振る。
感情のほとんどを表に現すことの無い彼だが、ほんの微かな差を読めるくらいには共にいる。
その点、みくびってもらっては困るのだ。
まっすぐな視線を、こちらもまっすぐに見つめ返す。
「それは丞相が本気でお止めしようとなさっていないからです」
きっぱりとした一言に、ほんの微かにだが彼の瞳が揺れる。
「丞相」
畳み掛けると、その口の端にほんの微かな笑みが浮かぶ。
ほろ苦いとしか、表現出来ない。
そのまま、視線は天へと向かう。
つられるように、趙雲の視線も天を仰ぐ。
漆黒の空に、満天の星。
刻々と動き行くそれが、天の意志と人の命運を告げることは趙雲も知っている。孔明が、星を読むことに人一倍長けていることも。
いつになく、繰り返し楼に登っていることも。
「私には、お止めすることは出来ません」
静かな声。
不可能なのではない。そのことを、彼自身が最も知っている。
止められないのではなく、止めないのだ。
止めるつもりの無い人間が、本気で止めるわけが無い。
唯一、止められるはずの人が、止める気がないとは。
彼の瞳は、天を仰いだままだ。
星が、何を告げたというのだろうか。
天が何故だかわからぬが、人を滅ぼす勢いで戦乱を引き起こしているらしいことは、おぼろげにわかっている。
天が間違うことだって、あると思わないか?
笑って言ってのけたのが、劉備だった。
天も、間違うことがあります。
まっすぐな視線で言い切ったのが孔明だった。
どんな逆境であろうと、天に逆らうかの如く覆してきたのに。
「軍師殿?」
思わず、呼び慣れた名を呼ぶ。
ゆっくりと、視線が趙雲へと降りてくる。
「子龍殿は、なぜ、我が君に仕えることを決めたのですか?」
いきなり問われて、趙雲は軽く目を見開く。
「それは……」
後から思えば、様々な理由をつけることが出来るけれど。
ただ、屈託無く笑った笑顔に惹かれた。
この人と共にあれば、血塗られた道にも光があるような気がした。
理屈などではないから、正確な言葉にするのは難しい。
趙雲の表情に浮かんだものを、正確に孔明は読み取ったのだろう。
ほんの微かな笑みが浮かぶ。
不意に、悟る。
けして、孔明とてからくり人形などではないのだから。果たす役割が論理的でも、人までもそうではない。
幾度も楼に登り、幾度も空を見上げてきた。
その意味に気付く。
絶対に動かせぬ何かを、見たのだ。
どんな人間であろうと、必ず訪れる運命を。
天の悪意で無いのならば、如何様にしたとて避けられない。
「申し訳ありません」
ただ、孔明は深く頭を下げる。
知ってしまったら、自分とて同じことだ。止めることなど、出来ないし考えられない。
劉玄徳という人間を、知っているからこそ。
趙雲は、ただ、首を横に振る。
頭を下げたままだったが、気配はわかったのだろう。
苦い笑みを浮かべて顔を上げた孔明は、ぽつり、と言う。
「私は、為政者失格ですね」
「劉備軍軍師は一人しか務まりますまい」
誰よりも彼の意思を正確に悟り、出来うる限りをつくす。
趙雲が言わんとする意味が、わからない彼ではない。
ただ、静かな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
視線は、また空へと向っていく。
趙雲も、空を仰ぐ。
細い月と、無数の星と。
時に残酷すぎる事実を告げる星から、それでも視線を逸らそうとはしない瞳。
どんな知らせが現れたのだとしても、彼は視線を逸らすまい。
自分が、どんな戦場に立とうとも視線を逸らそうとしないのと同じで。
終わりが無いものなど、この世には存在しない。
それならば、最後の最後までらしくありたい。
らしくあって欲しい。
勝手な思いと知りながら、それでも。
滅多に願わぬ二人が願う。
かの人が、どうか最後までらしくありますことを。
何に祈るのでもなく、彼に願う。
〜fin.〜
2004.08.30 Phantom scape XXIV 〜Things To Come〜
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