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Splendid Game

 女とバレンタインデー  Saint Valentine's Day

ナイフは、持ち上がりきる前に後方へと吹き飛ばされる。
動きで何をする気か正確に察したワトソンが、すばやく銃で反応したのだ。
至近距離からの銃弾の衝撃に、直に被弾したわけどもないのに男は腕を抑えて呻く。
「取り押さえろ!」
レストレードの声が響き渡り、巡査たちが折り重なるように男に掴みかかる。
痛みに対しての呻きは、絶望的なモノへと変わり、以上終了、だ。
「手間をかけさせやがって」
舌打ち混じりにレストレードの言った一言は、この場にいる人間の総意だ。取り押さえられた犯人を除いて、だが。
ホームズが、軽く肩をすくめる。
「証拠も出揃っているし、僕たちはここまでってことで構わないだろうね?」
「そうだな、裁判になったら、わからないけど」
頷いてから、レストレードは口を軽く尖らせる。
「ったく、俺は最低でも明日までお預けかぁ」
持ち込んだ事件の礼は忘れないレストレードにしては珍しい発言だ。
ナイフを出されようがなにしようが、ぴくりとも表情を動かさなかったホームズが、怪訝そうに眉を寄せる。
「お預け?」
くすり、と笑ったのは銃などドコに持っているのか、という外見に戻ったワトソンだ。
「一人だけズレた日なら、返って印象に残るかもしれないじゃないか」
「そうならいいけどな」
ホームズに言った方が間違いだったなー、などと小さく呟きながら、レストレードは巡査たちへと向き直る。表情は先ほどまでの少々情けないものではなくて、スコットランドヤードの刑事そのものだ。
「行くぞ」
言ってから、自分が何を忘れているか気付いたらしい。振り返って、口早に告げる。
「今回も世話になった。ありがとう」
ホームズたちが返す前に、先にたった巡査たちを追いかけ、走り出してしまう。
後姿を見送って、ホームズはやはり怪訝そうなままワトソンを見やる。
「どういう意味だ」
「言葉通りだろ、ま、あまり気にすることもないんじゃないかな」
いつも通りの笑顔で、さらりと言われてしまうと、それ以上ホームズも追及はしにくい。
相手が、ワトソンというのもあるのだろうけれど。
「悪いんだけど、先にベーカー街に帰っててくれるかい?僕は、少し寄らなければならないところがあるから」
言葉に詰まっているうちに、ワトソンは珍しく先に二輪馬車を捕まえて乗ってしまう。
ホームズは、軽く首を傾げる。
どうしても診なくてはならない患者がいるなら、はっきりと言うはずだ。それ以前に、そんな患者を放ってまで事件に関わったりはしない。
あの急いだ様子からして、レストレードの言った「お預け」と何やら関係あるに違いない。
ズレた日、というワトソンの発言ももちろんヒントに違いない。
そこまで考えて、ああ、と小さく呟く。
バレンタインデーだ。
基本的には男性が恋人や伴侶たる大事な女性へとプレゼントを贈るのが習慣だけど、昨今は女性への感謝を示す日といった雰囲気になっている。
なるほど、今回の事件はモノの見事にバレンタインに被っていた。すっかりと遅れてしまったレストレードは、スタンフォードに先を越されたのではと気が気でないのだろう。
そして、ワトソンも我が家の家主であり幼馴染である彼女への感謝の品を手に帰宅するつもりに違いない。
ここまでわかってしまえば、ワトソンがはっきりと口にしなかった理由も明白だ。
季節の行事などくだらないものでしかないと言い切ってしまうホームズを、無理に付き合わせるのは悪いと思ったのだろう。
ずっと、本気でそう思ってきた。
そして、そうやって切り捨ててしまえば、楽なのだ。
でも。
ホームズも、軽く手を上げて馬車を止める。

「なにか、また事件でも起こったのかい?」
機嫌が良さそうに扉を開けたホームズに、ワトソンが首を傾げる。遅れてきた上に笑顔なのだから、当然の予測だ。
「いや、違うよ」
にやりと笑って答えて、この時期には高いであろう生花の大きな花束を抱えているアリスが、首を傾げる。どうやら、今年のワトソンからの贈り物は花束であるらしい。
「でも、ご機嫌が良さそうだわ」
「そうですね、実のところ、ちょっと緊張もしてるんですが」
こちらには、にこりと依頼人の女性たちをひっそり陥落してそうな笑顔を向ける。
「日頃の感謝を込めて、レディ・アリスに」
差し出された包みに、アリスは眼を見開く。
「まぁ、私に?」
「お気に召すといいですが。なにせ、バレンタインデーに感謝を込めて、など初めてなものですから」
アリス以上に驚いた顔つきのワトソンへと、ウィンクしてみせる。
「この日のことに関しては先輩であるワトソンに、ご教授願えばよかったかな?」
いつもの笑顔が、ワトソンの顔に浮かぶ。
「心がこもったものなら、ちゃんと伝わるものさ」
「ジョンの言うとおりだと思いますわ、開けてもいいでしょうかしら?」
「もちろん」
ホームズが頷くのを待って、アリスは花束をワトソンの手へと預ける。シックな色合いの包装紙の下からは、白が基調の洒落た小箱が現れる。
「あら、美味しそうなチョコレート!」
「口に合うといいんですがね。いちおうは女王のお気に入りだとか」
ホームズの言葉に、アリスは少し眼を見開いてから、イタズラっぽい笑みを浮かべる。
細い指が、キレイな丸を描いているチョコレートを摘み上げたと思った、次の瞬間には、そのまま彼女の口へとほおりこまれる。
頬が、餌袋のように膨らんだかと思うと、あっという間に縮んでいく。
反比例するように、アリスはふっくらと笑顔になる。
幸せな、という表現がぴったりの、だ。
「とっても、美味しいわ。お二人とも、ステキなプレゼントをありがとうございます」
ホームズとワトソンは、どちらからともなく顔を見合わせ、それから照れ臭そうに笑う。

夜。
食卓となるテーブルの上には、一輪の花。
食後のコーヒーには、チョコレートが添えられている。
「独り占めなんて、もったいなくて出来ないわ」
鮮やかな笑顔と共に、アリスが持ち込んだのだ。
自分が買ってきたチョコレートを手に、ホームズが独り言のように呟く。
「季節の行事など、本気でくだらないと思ってた」
コーヒーカップを手にしながら、ワトソンが静かに言う。
「今は?」
視線を上げて、ホームズは微笑む。
「時と場合による、と認識を改めたよ」
「ふぅん?」
からかうような口調に、ホームズは眉を軽く寄せてみせる。
「ウソじゃないさ、忘れているようなら、今後は声をかけてくれよ」
「了解」
ワトソンは、にっこりと笑みを返す。

-- 2004/02/18



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