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夏の夜のLabyrinth
〜12th  哀しい異邦人〜

■frothspit・7■



家に帰ったなり、ものすごい勢いで書斎へと向かう健太郎を見た召使が、慌てて声をかける。
「健太郎様、伸之介様はただいまお仕事中でございます」
そんな台詞を聞くつもりなど、更々ない。
見向きもせずに、通り過ぎる。
「健太郎様!」
騒ぎが聞こえたのだろう、伸之介が書斎から姿を現す。
「騒々しい」
不機嫌そのものの声だ。が、激昂している健太郎には、それも関係ない。
「相変わらず汚いやり口だよな」
「なんのことだ?」
伸之介は、まったく動じた様子はない。それが癇に障ったのだろう、健太郎は声を荒げる。
「誰があんな女と結婚するって言ったよ!」
「あんな女とは、なんという言い方だ、東城自動車の創立者にして経営者たる東城家のお嬢さんだぞ」
微かに眉をひそめて言う。健太郎は、かろうじて声を抑えた。
「そういうことを言ってるんじゃない、俺は俺の結婚相手は自分で決める、と言ってるんだ」
「馬鹿には、親心がわからんようだな」
「わからないね、その馬鹿に財閥継がせようっていう方が、よっぽどの馬鹿だって以外は」
吐き捨てるように言った健太郎を、追ってきた召使が窘める。
「健太郎様、言い過ぎです!」
そんな言葉は、健太郎の耳には入ってもいないらしい。まっすぐに伸之介を睨みつけながら言い切る。
「俺は、あんたの言いなりにはならない、道具になるつもりはないからな」
「道具などと思ったことは無い、お前の為に素晴らしい未来を約束しているだけだ」
「どこが?何がだよ?」
また、声が大きくなる。
「俺は財閥も富みも地位もいらない、金なら生活してければいいし、結婚なら想っている人とする方がいいに決まってる、職業も決めてるさ、医者になるよ、その為のライセンスなんだから」
「そんな下らないモノは、捨ててしまえばいい」
「なんだって?」
「戯言を言ってる暇があったら、少しは親の言うことを素直にきくことだ、全てはお前の為なのだから」
言ったなり、伸之介は書斎へ消えてしまう。
血が滲みそうなほど唇を噛み締めていた健太郎だが、残った召使いが伸之介の台詞を復唱する前に背を向ける。

口では落ち着いた対処をしていた伸之介だが、健太郎に言う通りにさせるための実力行使は容赦ない。
意に染まぬ結婚をするくらいなら、家を出るくらいのことはやってのけると見通していたらしい。
部屋に戻った瞬間から、軟禁状態だ。
食事が運ばれる以外は、まったく交渉はもてない。扉の向こうには常に見張りが立っているし、窓から抜け出そうにもここは二階だ。しかも、通常の家よりも天井の高い作りになっているから、当然、二階は普通よりもずっと高い。
上手い具合に部屋から脱出したとしても、壁も乗り越えられる高さではないが。
この状況で意思表示をするとしたら、ハンガーストライキくらいしかない。が、それに動揺するような伸之介でもない。悪戯に日は過ぎるばかりだ。
五日目の、夜。
いつもと同じように、膝を抱え込んで座り込んでいると。
こつん。
なにかが、窓にあたる音。
「………?」
健太郎は、扉向こうの見張りに気取られぬように、そっと窓に近寄る。
こつん。
また、同じ音がする。
間違いない、やはり、なにかが飛んで来ている。
健太郎は怪訝そうな表情のまま、そっと窓を開く。
同時に、音もなくロープが投げ入れられる。
その先の紙切れを、手早く広げる。
『なんでもいいから、動かないモノに縛り付けて辿って来い』
それだけが、書き付けてある。
もう一度窓の外に目をやると、黒木が壁の向こうから目だけ出して頷いてみせている。
健太郎も頷き返すと、ロープの先を手にして部屋へと戻る。
思い切り蛇口をひねると、その下の水道管に縛り付ける。閉じ込められてから、不規則に水道は思い切り出していたから、怪しまれることは無い。
しっかりと縛ることが出来たのを確認して、水道を止める。
それから、また窓へと戻る。
軽く引っ張ってみせると、壁の向こうから黒木が軽く頷く。大丈夫だ、と言いたいらしい。
だが、下手に振動を与えれば、軋むだろう。
健太郎は躊躇う様子もなく豪奢な造りの手すりへの上に立つ。それから、張り詰めたロープに、足をかける。
壁向こうから目だけ覗かせている黒木が、その目を少し見開く。
月に照らされて、黒いシルエットになった健太郎が、綱渡りをする。距離は、さほどではないが。
壁向こうに飛び降りた健太郎を見て、黒木はひとつため息をつく。が、綱渡りに関してはコメントせずに、こう言った。
「悪かったな、五日もかかって」
「いや、助かったよ」
健太郎もささやき返す。黒木が、先に立って歩き始める。
「篠崎が待ってる」
ただ、頷き返して、二人とも歩調を上げる。
中央公園の中でも人通りが少ない場所を選んで、麻子は山本と一緒に立っていた。
健太郎は微笑みかけたが、麻子は目を見開いたままだ。
黒木が頷きかけると、山本もそっとその場を離れる。
二人っきりになってから。
やっと、麻子が口を開いた。
「痩せすぎだよ、健ちゃん」
「麻子こそ、痩せただろ?」
そっと、頬に触れる。
麻子は、しっかりと見据えるのを止めない。
「ご飯、ちゃんと食べているの?」
声が、険を帯びる。健太郎は、両手を上げて降参のポーズをしてみせる。
「ごめん、心配させようと思ったわけじゃないんだけど」
ゆら、と瞳が揺れて、どきり、とする。
どんなことがあっても、涙をみせたことのなかった麻子の瞳の中に、透明なモノがいまにも溢れそうになっている。
「麻子……」
もう一度、そっと手を伸ばす。
笑おうとするけれど、それは上手くいかない。
二人とも、知っている。
伸之介が、譲ることなどあるはずないと。
抜け出せるのは、今夜一回限りだと。
逃げるのならば、今しか無いのだと。
だけど、伸之介が大人しくしているわけも、ないということも。
自分が、世間から隠れつづけて生活するのは、ちっとも構わない。でも、誰よりも大切だからこそ、そんなことはさせたくない。
絶対に、誰よりも幸せにしたいから。
だからこそ、これが我侭なのだと知っていて、告げたいことがある。
「なにがあったとしても、俺には麻子だけだ」
まっすぐに見詰めながら、告げる。
「会えなくても、声が聞けなくても、絶対に」
必死で見開いている瞳で、麻子もまっすぐに見詰め返している。何度か、なにか言いたそうに動きかかった唇から、やっと微かな声がする。
「……待ってても、いいの?」
健太郎の顔に、痛いくらい切ない表情が浮かぶ。
「待ってて、くれるのか?」
瞳の中で揺れていた透明なモノが、はら、と一粒、煌きながら落ちる。
「私……私も、健ちゃんしかいない……絶対に、絶対に、よ」
ぽろぽろと、月の光を映しながら、透明な雫はとめどなく落ちていく。
思い切り、抱き締める。
「何年かかっても、なにがあったとしても、必ず迎えに行く」
「待ってるから、何年でも、ずっと待ってるから」
細い腕が、自分の背に回るのがわかる。
どのくらいの時間、そうしていたのか。
家路を辿る健太郎の手には、麻子の耳にあったイヤリングの片方が握り締められている。
絶対で永遠の約束の、証。

健太郎は、変わった。
あれほど逆らいつづけた伸之介の言葉に、逆らわなくなった。黙々と、言われたことをこなしてみせるようになった。
志願兵役についてすぐの副総司令官の就任と同時に、天宮財閥の一会社の経営を任され、目の回るような忙しさになっても、それをやってのけた。
もちろん、あれからすぐ、東城自動車経営者である東城家の娘、佳代と入籍した。もっとも、書類上だけの夫婦ではあったけれど。
伸之介も、その様子を見て健太郎の心がどこにあるのかを悟ったらしい。健太郎を海外研修の名目で体よく追い払い、二派で不仲が続いている茶道家元の藍崎家と篠崎家の間を取り持つと称して、麻子を藍崎家に嫁がせてしまった。
それでも、健太郎は顔色を変えずにいた。
ただ、黙々と目前の仕事を片付け、着実に実力を伸ばしていく。
麻子と引き離されてから二年経つ頃には、財閥内でも健太郎の存在は一目もニ目も置かれるようになり、総司令部でも切れ者の名を欲しいままにしていた。
その日も、健太郎はいつもと同じように財閥の仕事を片付けてから、再度総司令部に寄ろうと足を速めていた。そう距離はないのと、最近の大人しさから信用されてか、この道は一人で歩いてもいいことになっている。
もうすぐ総司令部、というところの人通りの少ない角に、見覚えのある人が立っている。
「天宮、久しぶり」
そう言った山本の声は、冴えない。再会を喜んでいる風には、とても見えない。
健太郎は足を止めて、首を傾げる。
「なにか、あったのか?」
総司令部の総司令官、副総司令官というのは、この頃は名誉職でしかなかったけれど、それでも狙う愚か者たちはいる。だから、健太郎は友人たちとは極力近付かないようにしてきた。
それを悟った友人たちも、健太郎にあえて連絡をとろうとはしなかった。
それが、わざわざ待ち伏せて待っていたのだ。
「少し、時間取れないか?」
健太郎が忙しいことは、よく知っている。だから、そう尋ねてくれたのだろう。
「ああ、今日は夜の予定はないし……」
いつもならば、誰かが主催しているディナーに呼ばれていることがほどんどなのだが。
「そうか、じゃあ国立病院へ付き合ってくれないか」
「国立病院?」
怪訝そうに、眉が寄る。病院に付き合えという意味がわからないわけはない。誰か、知っている人間がそこにいる。
「誰が……?」
「……篠崎が」
山本は、旧姓で呼んだ。
「難産で……」
結婚したことは、もちろん知っている。だが。
「子供、生んだのか?」
平静を装いきれない震えを帯びた声が、問い返す。
苦しげに、山本の眉が寄せられる。
「本人は、相当、嫌がったらしいんだけど……」
「じゃあなにか、藍崎は無理矢理に?!」
いままでの二年分が、一気に噴出しかねない形相になった健太郎が、掴みかからんばかりの勢いで乗り出す。
「落ち着けよ、篠崎はお前に会いたがってる………危ないんだ」
難産、と山本は言った。
健太郎は、その意味を正確に悟る。
目前が、真っ暗になった気がした。

病室は、明るかった。
まるで、対をなすかのように。
ベッドの上の麻子は、真白な顔で横たわっている。
そっと呼ぶ。
「麻子……?」
どこか虚ろな瞳がこちらを見上げ、そして色を取り戻す。
「健ちゃん?……私、夢を見ているの?」
健太郎は軽く首を横に振ってから、微笑む。
「違うよ、本当に、ここにいるよ」
痩せこけた頬に、そっと触れる。感覚が、本当だと告げた瞬間、麻子の瞳にはみるみるうちに透明な雫が満たされていく。
口元は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ずっと、ずっと会いたかった……待って……いたかった………」
語尾が掠れて、唇がわななく。
「私……可哀相な子を産んでしまったの……母親に、愛されていない子を………」
透明な雫が、真白な頬を伝っていく。
「わかっているのに……あの子はなにも悪くはないのに……なのに、愛せないの……私……」
自分の顔を覆う為に出された手を、健太郎は握り締める。
そして、ただ、首を横に振ってみせる。
「健ちゃんが、待っててくれって言ってくれたのが……忘れられないの……信じてる……」
握り締めている手の中のなにかが、健太郎の手へと落ちる。
それは、いつか健太郎が手にしたイヤリングの、もう片方。
麻子も、ずっとそれを持ち続けていたのだ。ずっと、握り締めていた。
「俺もだよ、麻子……」
それから、そっと耳元でなにかを囁いた。
少し眼を見開いて麻子は健太郎を見詰める。健太郎は、黙って頷く。
麻子は、微かに微笑んだ。
そして、そっと健太郎の耳元に囁き返す。
何度か、そうやって会話を交わしてから、健太郎が顔を離す。麻子が、もう一度口を開く。
扉の近くで見守っていた山本には、『ありがとう』と言ったように思えた。
健太郎が、そっと麻子の手をシーツの下へといれてやる。
「さ、もう、お休み」
麻子は、素直に瞼を閉じる。
健太郎はそっと、麻子の枕元までかがみこんだあと、背を向ける。
手ぶりで、山本に出よう、と告げる。
扉のところで、健太郎はもう一度、振り返る。
ブラインドでやわらげられた夕日に照らし出されて、微笑を浮かべた麻子は、とても綺麗に見えた。
いままでで、いちばん綺麗に。
そっと、扉を閉じる。
麻子は、それきり目覚めることはなかった。

病院を出た健太郎の顔つきが、すっかり変わっていることに山本は気付く。
「天宮……?」
「絶対に、許さない」
ぽつり、と声が漏れる。
どこかを睨み据えたまま、健太郎はもう一度言う。
「絶対に」
自分に言われているわけではないとわかるのに、背筋がぞくり、とする。
すさまじいまでの感情をその瞳だけに凝縮している。凄惨、という単語さえ、生温いくらいの光が、そこにはあった。



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