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 露白  サノツユシロシ

その朝は、リタの悲鳴で始まったといっていい。
ほとんど寝たきりのはずの少女の姿が消えていたのだ。母親であるリタの驚愕と悲嘆は想像するに余りある。
「メアリ!メアリ!」
名前を呼びながら半狂乱で飛び出してきたリタを最初に見つけたのは、ダン・ラスキンだった。
町で一番の馬の乗り手である彼は、リタを落ち着かせて何が起こったのかを聞き出すと、やっと追いついてきた町の代表格であり、リタの夫でもあるジェフリー・グラントの腕にリタを預け、ものすごい速さで捜索隊を繰り出した。
が、二箇所ある町の出入り口のどちらからも出入りしたものは誓っておらず、かといって街中のどこにもメアリの姿は見つからなかった。
誰からともなく、ぽつり、と言葉が漏れる。
「寂しい子供に連れてかれたんだよ」
「メアリは寝たきりだったからね……」
その言葉に、その日最大の悲鳴をリタが上げる寸前に、ダンが怒鳴り声を上げた。
「あるわけないだろう!そんなモノ、あってたまるか!」
寂しい子供。
それは、なんらかの事情で幼くして死にゆかなくてはならなくなった子供たちのことだ。
自分に訪れたモノが「死」であることがわからず、たださ迷い、寂しさに耐え切れなくなると、仲間を呼びに来るという。
呼ばれる子供は、なんらかの理由で臥せり続けている子供たち。
他の子供のように外を走り回ることも出来ず、一人孤独に沈んでいるのを感じ取って迎えに来るのだという。
ここ最近、寂しい子供が仲間を呼ぶことが増えている、という噂がある。
扉も窓も、人が出入り出来るところは内側から鍵がかかっていたのにメアリが消えたことと、寂しい子供の話は、あまりにもしっくりと来すぎていた。
リタは泣き崩れ、ダンは怒りに怒り狂った。
彼はその日から寝もせずに町の周囲一帯をひたすらに探し続けた。
寂しい子供などいないと言った手前ではあったかもしれない。だが、誰よりも熱心であったという点で意義を唱える人間はいない。
そして、誰もが疲弊し、どこかで諦めが入り始めた三日目に彼らが現れたのだ。
四頭立ての馬車の御者席から降り立った男は、色つきのレンズの奥で静かに微笑んで告げた。
「寂しい子供に連れ去られた子がいる、と伺って参りました」
何者だ、とグラントが尋ねると、男の口元の笑みは微かに大きくなった。
「ラオシア・マジック・サーカスと申します」
マジック・サーカスとはなにか、と人々が問う前に、彼は付け加えた。
「寂しい子供たちから、連れ去られた子を返してもらうことを生業としております」
誰もが、一様に目を見開く。
かろうじて感情を抑えた声で、グラントが尋ねた。
「では、貴方はメアリが寂しい子供に連れて行かれたとおっしゃる?」
「メアリさんは生まれてから人生のほとんどをベッドの上で過ごされているそうですね。どんなに物わかりが良くても、思いきり外を走り回ってみたいと思うことを止められるわけではありますまい」
リタが涙をいっぱいに溜めた目を大きく見開くが、男は全く構わずに続けた。
「姿を消した時、人が出入り出来る扉も窓も、しっかりと内側から鍵がかかっていたという状況も、寂しい子供を指し示しています」
「何でそんなことまで知ってやがる?」
睨みつけるような視線で口を挟んだのはダンだ。
「街の医者にも相談なさったでしょう?彼はこの一帯では顔が広いようですよ」
視線に全く動じることなく、男は穏やかな笑みを浮かべたまま言った。
「あなた方が相談された後、実にそっくりな子供の失踪事件に思い当たり、そして私共に声をかけてみることになさったわけです」
ダンの片眉が上がった。
「じゃ、何か?ここらにゃそんなに寂しい子供がウロウロしてるって言いたいわけか」
「医者という職にある以上、知り合う機会は多いようですね」
必死の祈るようなリタの視線を受け、グラントが再度口を開いた。
「じゃあ、先生の紹介と思っていいんだね?」
「私共はただ、寂しい子供に連れ去られた子供がいるようだ、と伺っただけです。本当にそうかを判断するのは私共の仕事になりますから」
男の返した答えに、ダンの眉が今度は寄った。
「さっき寂しい子供が連れ去ったと断言したな?何も見ずに何がわかる?」
口調こそ抑えているが、明らかに感情が高ぶっているとわかる顔だ。
男は、軽く肩をすくめた。
「さて、それは説明が難しいですね。断言することが出来るということは確かなのですが、貴方は私共を全く信用されていらっしゃらないでしょう?」
ダンは、いくらか言葉に詰まったらしかった。代わりに、身を乗り出したのはリタだ。
「あの子は、寂しい子供に連れてかれたんですね?あなた方ならば……」
思いつめた視線に、ダンもグラントもいくらか気圧されたようだ。が、先に口を開いたのはダンの方だった。
「リタ、お前、本当にわかっているか?本当に寂しい子供が連れてったんだとしたら」
リタが目を見開きはじめたのをみて、グラントが口を挟んだ。
「ともかく、中へ来ていただこう。詳しい話を伺いたい」

その後、どんな話がなされたのか、人々は知らない。
途中で激昂した顔つきで飛び出してきたダンは絶対に口を割ろうとしなかったし、グラントも「彼らにまかせることにした」としか言わなかったから。



近付いてくる気配に、最初に気付いたのはロブ・ギボンズだ。
「おい、なんか近付いて来やがる」
「こんな朝早くから?まさか」
物見台の反対面にふてくされたかのように腰を降ろしたまま、ダンが返す。
「疑うなら見てみろよ」
少々むっとしたように返してから、ロブはもう一度、気配の方へと視線を凝らす。
そして、その目を丸く見開く。
「ダン、おい、見てみろ、ダン!ありゃ、こないだ来た妙ちくりんなサーカスだか手品師だかの馬車だ」
「なに?!」
酷く驚いた顔つきで、ダンも身を乗り出す。
「くそ、あいつらのうのうと引き返して来やがった!」
警備用の長棒を手に、すごい勢いで駆け降りて行く。剣幕の凄まじさに、このままほっといたら血を見るかもしれないとばかりに、ロブも慌てて後を追う。
乾燥した大地に微かな土煙を上げて、馬車は近付いて来る。
ダンの目前で、手綱を握ってる男が、ごく穏やかに微笑む。
「おはようございます。朝からお疲れ様です」
「てめぇらに挨拶される覚えはねぇな」
すごんだ目つきで睨みながら、更に言う。
「てめぇ、どの面下げて戻ってきやがった?!あんだけむしり取ってって、まだ足りないって言いやがるのか?大方、あらん限りの努力はしてみましたが……とかなんとか……」
ダンの言葉は、そこで空中分解したかのように止まってしまう。
聞こえてきた声と言葉に耐えかねて顔を出した少女の名を、呆然と呟く。
「メアリ……」
「メアリ!」
声にも顔にも喜色を浮かべたのは、やっと追いついたロブだ。
「無事で良かった!おっかさんが喜ぶぞ!なあ!」
目を見開いたままつっ立っているダンの背を思いきり叩く。
「こうしちゃいられねぇ、皆に知らせて来なきゃあ」
ダンの返事も待たず、ロブは背を向けて走り出す。
まるで凍りついてしまったかのように目を見開いたままのダンに、馬車の手綱を手にした男は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべたまま声をかける。
「申し訳ありませんが、通していただけますか?」
機械的に体をどけてから、やっと我に返ったような顔つきになる。
「おい、グラントのところへ行くのか?」
「依頼人ですから」
さらり、と返事が返ると、馬車は遠ざかっていく。
「…………」
ダンは難しい顔つきのまま、馬車の後ろ姿を見送る。

ロブの前触れのおかげで、町の代表者であるグラントの家の前には小さな人だかりが出来ていた。
近付いて来たのがダンとわかると、一人が遠慮がちな笑みを向ける。
「よぉ、無事で良かったなあ」
が、ダンはその言葉には答えない。
「中か?」
声をかけたのの隣にいた若者が、思わず一歩引くほどに難しい顔つきでの問いに、皆はただ頷く。
そのまま、グラントの家へと入っていこうとする背へ、誰かが慌てて声をかける。
「素直に無事を喜んでやっとくれよ」
その言葉に、ダンの足が止まる。
「素直に喜ぶ?」
ふり返った顔には、酷く暗い笑みが浮かんでいる。
「ホント、めでてぇな」
「ダン……」
「帰って来たってことは、覚悟を決めなきゃならねぇってことだ」
また、グラントがあの不可思議な一団にメアリを探すのを依頼した時のように一揉め起こすのでは、と不安な顔つきで手を伸ばしかかった手は、中途で止まる。
「覚悟?」
「なんの、だ?」
口々に尋ねられて、ダンの口元に浮かんでいる笑みが皮肉に歪む。
が、答えは返さないまま、その後姿は扉の向こうへと消える。
残った方は、誰からともなく顔を見合わせる。
「ラスキンさん、やっぱり荒れてるなぁ」
ぽつり、と呟いたのは、先ほど思わず一歩引いた青年だ。
あまり口数が多い方ではないが、穏やかな人柄で通っているはずなのに、メアリが行方不明になったこの一件では人が変わったとしか思えないほどに荒れている。
青年の言葉に同意するように、同年代の者たちが頷き合う。
「……やっぱりメアリに帰ってきて欲しくなかったのかな」
「メアリが病気になってから、ずいぶん荒れたって親父言ってたし」
それを見た年かさの方の数人が顔を見合わせ、そっと言う。
「そりゃ、グラントに言われたからさ。ダンは身を切るような思いだったに違いない」
「え?!」
「なんだって?」
ざわっとその場がざわめく。
夫であったダン・ラスキンに捨てられかかって困惑していたリタとメアリを町の代表格であるジェフリー・グラントが救ったのは美談として通っている。
まっこうから否定されれば、誰だって驚く。
「どういうことなんだよ?!」
食って掛かるように尋ねる青年たちへ、年かさの一人はゆっくりと話し始める。
「私らはね、ダンとリタこそが理想の夫婦になるに違いないって言っていたもんさ。そして、現にそうだった……メアリが生まれるまではね」
メアリが、難しい病気であることは誰もが知っていることだ。
「ダンとリタにゃ、メアリを医者に見せてやるだけの金は出せなかったんだよ。困り果てた二人に、とある条件と引き換えに金を出すことを言い出したのがジェフリーさ」
吐き捨てる、という表現がぴったりの口調に、誰もがどういうことか悟る。
「まさか、リタさんを……?」
「ずっと、横恋慕していたからね」
年かさの者たちは、皆一様に不機嫌な表情をジェフリーの家の方へと向ける。
「でも、なんで大人しくそんな無体な条件飲んだんだ?!」
「ダンもリタも、それだけメアリが大事だってことさ。子供にはなんの罪も無い。病気だけでもツライってのに、それ以上に苦しませるこた無いって思ってるんだろうさ」
もう一人が、付け加える。
「ダンがああでもしなきゃ、新しい父親に懐けないだろうが」
「でも……」
「二人がそう決めたんだ、わしらになんの口が挟めようかね?」
やるせない表情で、誰もが顔を見合わせる。
一人が、腑に落ちないように首を傾げる。
「でも、じゃ、覚悟を決めるってのは、なんのことだ?」
「さて、それはのう」
いくらか困ったような顔つきで、年かさの者たちは首を横に振る。
おぼろげにわかってはいるのだろうが、そちらは口にはしたくないらしい。
最初に尋ねたのとは別の青年が問う。
「なぁ、メアリを連れてったのは強盗でも人攫いでもなく、寂しい子供だって言ってたよな?あれってどういうことなんだ?」
「そうだ、山向こうの街でも聞いたぞ?」
年かさの中でも、最も年老いた者が、重々しく口を開く。
「お前たち、その名はそう簡単に口にするもんじゃないよ」
「そうだ、名を口にすれば呼び寄せる」
もう一人も、深く頷く。
納得がいかないのは、青年たちの方だ。
「わからねぇもんを、言っちゃいけないって言われてもわからねぇよ」
「そうだ、わからない覚悟なんて、決められるもんじゃない」
青年たちが身を乗り出しているのに、年かさの者たちは皆首を横に振るばかりだ。
「知らん方がいいこととてある」
「知って呼び寄せたら、後悔してもしつくせん」
言って、頷き合う。
「でも、メアリを連れてったのはその、寂しい子供なんだろ?!」
「そうだ、正体がわからなけりゃ、また連れてかれるかもしれない」
「他の子供たちだって!」
「ああそうだな、今度は生きて帰ってくるって保証もねぇ」
加わった声に、誰もが振り返る。
「ラスキンさん!」
ダンだけでは無く、グラントも、目を真っ赤にしてしっかりとメアリの手を握り締めているリタも、そしてメアリを連れ帰って来た不可思議な一団もいる。
戸惑って出てきた人々を見つめる皆へと、家に入る前に見せた暗い笑みを浮かべたダンが告げる。
「せっかくだから、ここで白黒はっきり付けることにしたぜ。覚悟決めな」
誰もが、目を見開く。
年かさの者たちは恐怖で、青年たちは興味で。
「ラスキンさん、あんたの言ってる覚悟って、どういう意味だ?」
「俺たちのひいじいさんたちが、とてつもねぇ人非人かどうかをはっきりさせる覚悟って意味だよ」
はっきりと、ダンは言ってのける。
年かさの者たちが、慌てて身を乗り出す。
「ダン、早まっちゃあいけないよ」
「口にしちゃあ、いかん」
そんな必死の声が耳に入っていないかのように、ダンは続ける。
「百年前、ひでぇ飢饉の時に大人たちは食い物を探しに行くって街を空けた。子供たちだけを後に残してな」
「戦争もそこら中でしてて、そりゃあ酷い飢饉じゃったのよ」
年寄りの一人が、語るというよりは自分に言い聞かせるように呟く。
「それでも、大人たちはどうにか食い物にありついた。だが、食い物を手に村近くまで戻って来た頃には手遅れだった」
何に間に合わなかったのかは、言われずとも誰もが理解出来る。
残された子供達は、ほとんど何も無い村で、ただ待つしか無かったのだ。
幼い肩を寄せ合って、待てども待てども帰らない大人たちを。
いつか絶対に帰って来るという言葉だけを頼りに、ただ待ち続けた。
「子供達の姿を見ることに耐えられなくて、大人たちは逃げるように別の場所に新しい街を作った。それがここだ」
誰もが言うべき言葉が見つからないままにダンを見つめる。
大人たちに、死した後も見捨てられた子供達。
その子供達が寂しい子供になったのだとしたら、返してもらえるわけなど無いと言ったダンの言葉は根拠十分ということになる。
「でも、メアリは……」
「そうだ、帰ってきている」
誰かの戸惑った声に応えたのはグラントだ。
「確かに百年前の飢饉の時、大人たちは間に合わなかった。だからといって自分たちの子供を捨て去るようなことをするだろうか?」
いつもの朗々とした声を響かせると、メアリへと向き直る。
「メアリ、出会った子たちの名前を聞いてきてはいないかい?」
メアリが小さく、だがはっきりと頷くのを待って、グラントは手にしていた朱表紙の本のようなものを掲げながら、皆へ告げる。
「ここには、あの飢饉の時に犠牲になった者たちの名が記されている。メアリと出会った子供の名と照らし合わせれば」
「そこらでやめとけよ、グラント」
グラントの言葉を遮ったのはダンだ。
「飢饉の直後に、そんないいもんあるわけないだろうが?本物はこれだ。うちのひいじいさん、なんだかんだであんたんとこのひいじいさんに一杯食わせたらしいぜ」
綴った糸が古びて切れ掛かったボロボロのノートらしきものを手にするダンの口の端は、皮肉な形に歪む。
「それから、もうひとつ。こいつは残った子供の一人、ヴィキンズ・ラスキンが残した……」
古ぼけたノートを手にしたダンの手にメアリがすがりつく。
「ヴィキンズが残したものなの?!」
あまりに真剣な瞳と声に、ダンさえもが目を見開く。
「ヴィキンズのなの?!」
「おお」
思わずうめいて、年寄りの一人が膝をつく。
もう一人が、深いため息を吐く。
「視線を逸らしたからとて、事実は何も変わらんことを忘れてはならんの」
名を列挙しなくても、メアリを連れて行ったのは、かつてこの町の大人たちに見捨てられた子供たちだと、誰もが理解する。
ダンが膝をついて、メアリと視線を合わせる。
その瞳は、働き手になれぬ子供など知らないと言い切った時とはまるで違う。静かで、深い優しさと信頼に満ちている。
「ヴィキンズはおめぇの大伯父さんだ。飢饉の時、先に亡くなった子を食うことがねぇように、一人一人、残った子らにわからない場所に埋めてった。正気じゃねぇ時は生きる為ならなんでもする。でもそれは、正気に戻った大人たちの目にどう映るか、わかってたんだよ。それから、いつか帰ってくる親たちが墓作る時に困らねぇよう、こうして記録しといたんだ」
メアリは目を大きく見開いてダンに尋ねる。
「なら、皆のお墓作れる?みーんなのよ?」
「ああ、ちゃんと金もある。皆に立派な眠る場所を作ってやれるぞ」
その言葉に、す、と表情を変えたのは二人。
だが、その変化は対象的だ。
グラントは血の気の引いた顔で唇を噛み、いつもメアリの心配ばかりのリタの頬には朱がさす。
「ひいおじいさんのご悲願、やっと叶うのね」
「ああ」
はっきりと頷いてから、皆に向き直る。
「目ぇ逸らしたって何もならねぇ。どんな形になろうと、カタはつけなきゃならねぇんだ。俺は残された者たちの墓をたてに行く。もう二度と、寂しい子供になんてさせちゃあいけねぇ!賃金は出せるぞ、やろうっていう気のあるヤツぁいねぇか?」
ずい、と歩を進めたのは、ロブだ。
「ダン、水臭ぇよ。それに賃金なんていらねぇ、手伝えるのは仕事の合間だしな」
ダンがなにか口を開く前に、にやり、と笑って付け加える。
「だって、俺たちの生活がダメになったら、誰が作った墓の面倒みるんだ?もちろん、音頭取ってくれる人間がいなきゃあダメだけどな?」
ロブの言葉に、周囲がはっとした顔つきになり、それから笑顔になる。
「そうだそうだ、俺らのひいじいさんたちがやったことなら、俺らが責任とらなきゃダメだ」
「金もらう筋合いのコトじゃねぇよ、な」
頷き合い、そしてダンへと笑顔を向ける。
「さぁ、俺らの賃金の為にいくら貯めたんだ?今までのメアリの薬代、いくらだったんだ?」
はっとした顔つきになったのはリタだ。
グラントの顔色が、白から朱に変わる前にメアリを抱き締めるとダンの後ろへと後ずさる。
怯えたような顔つきだった老人たちの顔にも、笑みが戻る。
「ほれ、ダン。もう償いとやらを背負う必要はないじゃろう。むしろ、わしらにはカタをきちんとつける為に動ける代表が必要じゃ」
わっと沸いた人々の声に、水を差す声を上げたのはグラントだ。
「はっ、本気で墓を立てたくらいでカタがつくと思っているのか?!寂しい子供が、それくらいで諦めると?!」
「寂しい子供は、もう、どこにもいませんよ」
静かに口を挟んだのは、それまで黙って成り行きを見つめていた不可思議な集団の一人だ。
背が高く、色のついた眼鏡をかけた彼の表情は読めないが、その口調と声はどこか人を落ち着かせるものがある。
「メアリと思い切り遊び、そして彼らは天へと行きました」
「でも、彼らはメアリの中にいるわね」
そっと微笑んで、一人がメアリの顔を覗き込む。
メアリは、大きく頷く。
「私、約束したの。ずっとずっと、お婆さんになっても皆のこと忘れないって、約束したわ」
「彼らの望みは、ただ、忘れないでいて欲しいってことだけでした」
青年が、付け加える。
「あるはずだった命をメアリに預けて、彼らは行きましたよ」
目を大きく見開くダンを、まっすぐに見上げる。
「私、長生きするわ。とっても長生きするわ。そして、ずっと皆のこと忘れないわ。ねぇ、パパ、私もお手伝いしていいでしょう?皆が元気をくれたから、私、もう大丈夫だから」
「おお、神様!」
リタがメアリを抱きしめる。
いつも、どこか世をすねた顔つきばかりだったダンに、別種の表情が浮かぶ。
その決然とした視線に、たじろぐように後ずさりながらも、グラントは口の端を嫌な形に歪める。
「はっ!金でカタをつけるってわけか?じゃ、コイツらへの支払いも当然」
「私共が契約したのはジェフリー・グラント氏です。もう一度契約書をご覧になりますか?」
色付き眼鏡の男が、少々分厚い紙を取り出して広げる。
と、同時に今まで全く気配すら感じさせなかった二人が彼の両肩に姿を現す。
「小さい人……!」
人々の間から、驚きの声が漏れる。
「だぁから、あれだけ確認してあげたのにねぇ?」
片側の少女のような姿の小さい人が、大人の女そのものな仕草でもう片側を見やる。
反対側の少年のような姿の彼は、呆れたように肩をすくめる。
「もちろん、僕らとの契約を破るってどういうことかわかってるんだよね?」
「あんな法外な金を取っといて、こちらが契約違反だと?!だいたい、たった三人で何がサーカスだ!」
グラントの言葉に、ずい、と前に出たのはメアリだ。
「わ、私たちにとっては、とってもステキだったわ!」
小さく震えている両肩に、小さい人がやってくる。
「不思議なこともあるもんだ。病気だからって見捨てたはずの男にはパパで、親切に救ってくれたはずの男に楽しかったって言うだけなのに声が震えるなんて、ね?」
反対の肩を覗き込む。
「ばっかねぇ、察しなさいよ。これ以上ウラでどんな顔してるかバレちゃったら、いくらなんでも可哀想でしょお?」
含みのある笑みで返す。
楽しそうに反対側が返そうとしたのを、色付き眼鏡の男が止める。
「そこらへんにしておきなさい」
それから、グラントへと向き直る。
「最初にお会いした時にも申し上げましたが、貴方が契約されたのは一流のマジック・サーカスであって人探しのボランティアではありません」
ぐ、と詰まったような声を出した後、グラントは今までに皆の前で出したことのない怒鳴り声を上げる。
「払えばいいんだろう、払えば!払ってやるから、とっととここから……」
言葉は、そこで空中分解する。
その場にいる人間誰もが、じっとグラントを見つめている。
その視線は、今までの代表に対する尊敬を込めたものではない。
グラントは、胸ポケットの財布を叩きつける。
「これでいいだろう?!」
微苦笑を浮かべながら、青年が財布を拾い上げる。
憤怒で顔を真っ赤にしたまま、背を向けようとしたグラントへと青年は声をかける。
「丁度、きっちりといただきました。施しは必要ありませんのでね」
言葉と同時に、財布を投げ返す。
振り返るタイミングがずれて、思い切り顔面に財布が当たったのに、青年は軽く肩をすくめて頭を下げる。
「これは失礼いたしました」
失笑が漏れるのが聞こえたのだろう。床に落ちた財布を荒々しく拾い上げると、グラントの後姿は扉の向こうへと消える。
それを見送ってから、ダンは一団の代表であるらしい色付き眼鏡の男へと向き直る。
「失礼なことを山ほど言ったな。すまなかった。それから、メアリを連れ帰ってくれたこと、本当に感謝する」
頭を下げるのに、男は穏やかな笑みを向ける。
「急に現れて、子供を取り戻すと言われても信用出来ないのは当然でしょう。それよりも、ご自分のなさってきたことに感謝すべきですよ」
話が見えずに瞬きするのに、男の笑みが大きくなる。
「貴方が取り残されてしまった子供のことを忘れることなく、いつかの為の準備をし続けていたからこそ、あの村の子供たちは寂しいながらも待つことが出来、そして天へと向かうことが出来たんです。そうでなければ、こんなにあっさりとメアリを返してもらうことは出来なかったでしょう」
笑みを浮かべたまま、男はいくらか首を傾げて付け加える。
「ご信用いただけたようでしたら、寂しい子供がいるのではないかという噂など、ご存知のことを教えていただけると大変に助かるのですが」
「俺、聞いたぜ!」
人々の中の、一人の青年が声を上げる。
「山向こうの町でも、子供が一人いなくなったってよ」
「その話なら、俺も聞いたぞ!シェディントンだろ?メアリのこと探してたら、似たのがって」
もう一人も頷く。
「しかし、山向こうは遠すぎる。裾野回って相当かかるぞ」
「山は越えられませんか?」
青年の問いに、誰もが顔を見合わせる。それから、真っ先に首を横に振ったのは年寄りの一人だ。
「いかんよ、あの山を越えちゃあ」
「そうじゃ、ひいじいさまの頃よりもずっと前から、誰も無事に渡った者はおらんよ」
もう一人も、深く頷く。
「あの話もなぁ、たまたま早馬が走ったから聞いたくらいだしなぁ」
困惑気味に、皆顔を見合わせる。
その中で、ダンとメアリはどちらからともなく、顔を見合わせる。
それから、ダンがまっすぐに男へと向き直る。
「どの道を選ぶのかは、あんたたちの領分だろう。どこを通るにしろ、ここで装備は整えていった方がいい」
一団の顔に、一様に笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます」



翌日。
陽も人も起き出す直前の街から馬車が遠ざかっていくのを、二つの影が見送っている。
「パパ、無事に山を越えられるかしら?」
「お前の大叔父さんたちを天へと導いてくれたんだ、きっと」
どちらからともなく、顔を見合わせる。
それから、笑いあって手を繋ぐ。
鮮やかな光が、長い影を映し出す。
朝が、始まる。


Vespertin Masic 〜cao lu bai〜

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