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 始凍  ハジメテコオル

寂しい子供たちと共に魅入られたように拍手喝采していた観客たちが、一人、また一人と我に返り始める。
その様子に気付いて、すっかり明るくなったテントの真ん中に立ったのは、ディアマンテ・サーカス団長のダン・ウィルシュだ。
「皆様、至高の舞台を見せてくれたラオシア・マジック・サーカスに盛大な拍手を!」
その言葉で、自分たちを、いや、この街全体を消し去ろうとしていた寂しい子供たちが消え去ったのが現実とは思えぬようなマジック・サーカスのおかげだと気付いて、誰からともなく、また割れるような拍手が起こる。
自分たちの拍手で、起こったことが現実と実感したのだろう。
いくらかの虚脱がテント内を覆う。
舞台袖で、団員たちに順次客たちを帰すための指示を出し、ほぼ帰し終えたことを確認してから、ウィルシュはリフの手をしっかりと両手で握る。
「なんと礼を言ったらいいのか」
微苦笑が、リフの口元に浮かぶ。
「お役に立てたようで良かったです」
その表情に、ウィルシュが軽く眼を見開く。
「ミスタ・バーネット、まさか、本当に……」
「ええ、寂しい子供たちへの公演を行っております」
いくらか視線を落とし、ウィルシュは言葉を選んでいるのか、唇を湿してから顔を上げる。
「噂には聞いていたが、認識不足が多々あったようだ。本当に本当に、すばらしいものだった」
「ありがとうございます」
静かに返すリフの背後から、グレン・デンジルの悲鳴のような声が飛び込む。
「うわぁ?!先生!」
リフが振り返ると、ニールと一緒に観客たちを帰る為の手伝いをしていたアイリーンが、丁寧に頭を下げているところだった。
「キャヴェンディッシュ先生、ご無沙汰しております」
「ご覧になってくださったとは、ありがとうございます!」
デンジルも、慌てて頭を下げている。
頭を下げられていたのは、焼け爛れた子供たちが現れ、パニックに陥っても一人落ち着いて立ち上がろうとしたマントに帽子の上、色つき眼鏡をかけていた紳士だ。
今は、帽子と眼鏡を外しているので、いくらか白髪の混じった髪の下の整った顔がはっきりと見えている。
眼は切れ長で鋭さを先ず感じるが、アイリーンへと向ける視線はどこか柔らかい。
ゆっくりと頷いてみせる。
「たまたま立ち寄ったところでグレンの手品が見られるというので入ったのだが、アイリーン、君の演技をも眼にすることが出来たな」
「まだまだ勉強不足で……」
アイリーンが答えかかったのを、デンジルが止める。
「カンベンしてくれ、君が勉強不足だったら、僕は一から修行やり直しになってしまう」
心底情け無さそうな顔つきになるのに、キャヴェンディッシュは微笑む。
「グレン、君も日々の練習を怠ってはいないようだな。指先の動きが前よりも良くなっているよ」
「あ、ありがとうございます」
いくらか頬を染めて、デンジルが頭を下げる。
「だから、もう少し自信を持って大技に取り組んでみるのもいいね」
「は、はいっ」
もう一度頭を下げたところで、ディアマンテ・サーカスの誰かが呼ぶ。
「グレン!こっち手伝って!」
「ああ、いま行くよ」
背後に向って答えてから、
「すみません、失礼します」
三度キャヴェンディッシュに向かい頭を下げると、軽くリフたちにも頭を下げる。
最後にアイリーンへと向き直る。
「君の手品が見られて嬉しかったよ、本当に見事だった」
舞台に立った時とは違う、真剣な顔で言った後、返事を待たずに走り出す。ウィルシュも、誰かに呼ばれたのか姿を消している。
残ったのは、キャヴェンディッシュとラオシア・マジック・サーカスの面々だ。
デンジルの後姿を見送ってから、キャヴェンディッシュはアイリーンへと向き直る。
「久しぶりだね」
先ほどよりも、笑みはさらに柔らかくなったようだ。
「はい」
いくらか、アイリーンの方は硬質の表情になる。
「実に良く練習を重ねているようだ、随分と腕を上げたようじゃないか」
「恐縮です」
声もいくらか小さくなったが、視線も落ちてしまう。
ニールの胸元のベックが、そっと問う。
「な、ニール、ミスタ・キャヴェンディッシュがアイリーンの師匠ってこと?」
「師匠と呼ばれるようなものではないが、いくらか手ほどきをさせてもらったよ、小さいお人」
ニールが返事を返す前に、キャヴェンディッシュが笑みを浮かべて答えを返す。
決まり悪そうに、ベックはニールの肩へと移動する。
「バレてたんだ」
照れたように頭の裏をかくのに、にこやかにキャヴェンディッシュは告げる。
「私も、小さいお人と旅をしたことがあるからね」
眼を丸くしたのは、他ならぬアイリーンだ。
「先生も、ですか?」
「じゃあ、寂しい子供を知っているのね?」
ポリアンサスも、アイリーンの肩へと姿を現して首を傾げる。
人に『小さな人』と呼ばれる彼らと旅をする、ということは、何らかのカタチで寂しい子供に関わるということに他ならない。
「ああ、知っているよ」
にこり、と笑う。
「あの頃の私は、今日のアイリーンほど見事な腕前ではなかったけれどね」
いくらか、困ったような表情がアイリーンの顔に浮かぶ。
困った、というよりは、苦しそうな、と言った方が正しい。
「先生」
キャヴェンディッシュは、観客席から降りてアイリーンの側まで行くと、そっと覗き込む。
「望むと望まないとに関わらず、君の手には人の心を動かす力がある。その事実は、逃げようが逃げまいがなにも変わらない」
「逃げたりはしません、でも……」
こくり、と頷くが、その瞳には透明な液体が揺れる。
「でも、私が兄さんを殺したって事実は、絶対に消えません」
ほろり、と液体がこぼれ出す。
深々と頭を下げると、きびすを返す。
ぽかんと口を開けたのはベックだ。ポリアンサスは、転げ落ちそうになったのをかろうじて体制を立て直して降り立つ。
「ちょっ……」
思わず手を伸ばしたベックを、ニールがポリアンサスの隣に降ろす。そして、彼もきびすを返す。
「待てって」
もう一度声を上げるが、ポリアンサスもニールも振り返らずに姿を消す。
「お待ちなさい、小さいお人」
キャヴェンディッシュの声に、ポリアンサスとベックは振り返る。
柔らかな笑顔で二人を見つめながら、静かに言う。
「私と、少し話をしよう」
「ミスタ・キャヴェンディッシュ、アイリーンが言ったこと……」
いくらか血の気の引いた顔つきで、ベックが言う。
「ブライアンで構わないよ、小さいお人」
「あたしはポリアンサス、皆はポリーって呼ぶわ。こっちはベックよ」
胸元に手をやって名乗ったポリアンサスの目付きは、ひどく真剣だ。キャヴェンディッシュが何を話そうとしているのか、見極めようとするかのように。
ベックの顔つきは、怯えているようにさえ見える。
そんな二人に、キャヴェンディッシュはそっと手を差し出し、観客席と舞台となる場を隔てるフェンスへと上げて視線を揃える。
「君たちの言うところの大きな人が、ポリーやベックのお仲間と旅をするのには、なにかしら理由のあるものだというのは知っているかい?」
「なんとなくは、よ。別にあたしたちは理由を訊いたりはしないから。ただ、なにをしたいのか、それがホンモノなのかを見極めるのよ」
いくらか挑戦するかのようなポリアンサスの声に、キャヴェンディッシュは頷く。
「そうだね。君たちが旅に出る理由は、世界を知る為、そして学んで成長する為だ」
「そぉよ、ちゃんとした、と言われる為の儀式だわ」
もう一度頷いて、続ける。
「大きな人が君たちと共に寂しい子供に関わろうと決める時には、たいてい理由がある。悲しい理由がね」
「アイリーンは」
ベックが口を挟む。
「アイリーンは、お兄さんを殺したって……」
キャヴェンディッシュの柔らかい笑みに、いくらかほろ苦さが加わる。いくらか離れた位置に立ち、無言でいるリフと視線を交わす。
頷きあったのは、どちらからともなく、だ。
キャヴェンディッシュは、二人へ視線を戻す。
「君たちにも、知るべき時が来たのだろう」
静かに、物語は始まる。



その町にサーカスがやって来たのは、十数年ぶりのことだった。
だから、町中が祭りのような大騒ぎになった。
町にやって来たのは、フィンスターワルド・マジック・サーカス。イチバンの出し物は、今をときめくブライアン・キャヴェンディッシュのマジックだ。
その名に、誰もが眼を輝かせ、心待ちにした。
公演が始まるという朝、一人の少女がテント裏に立った。
「あのさ、そういうこと言われても、困っちゃうんだよ」
デンジルの言葉通りに困惑した声に、キャヴェンディッシュは足を止めた。
「どうしたんだい?」
「あ、先生!この子が先生にマジックを教えて欲しいって……」
少女は、デンジルの呼び方で相手が誰なのか悟ったのだろう。真剣な表情で頭を下げた。
「サーカスに入りたい、ということかな?」
首を傾げたキャヴェンディッシュに、デンジルが首を横に振って答えた。
「それが、手品だけ教わりたいって言うんです」
「ほう、どうしてか教えてもらってもいいかな?」
問いかけながら、キャヴェンディッシュは少女と視線の高さを合わせた。
澄んだ色の瞳が、まっすぐにキャヴェンディッシュを見詰めた。いくらか、躊躇いがちに、だが理由無しには教えてもらえないということは理解したのか、話し始めた。
「お兄ちゃんは病気で、ベッドの上から動けません。だから、せっかくのマジック・サーカスを見に来れないんです。ブライアン・キャヴェンディッシュさんのマジックは素敵だって皆言ってますし、本にも載ってるんだそうですね。お兄ちゃんも見に行きたいって言ってました。だから、ほんの少しでいいからお兄ちゃんに見せてあげたいんです」
理由を聞いて、デンジルをいくらか目を見開いた。
キャヴェンディッシュは問いを重ねた。
「お名前を、訊いてもいいかな?」
「アイリーン。アイリーン・ガードナーです」
こくり、と一つ頷いて、キャヴェンディッシュは首を傾げた。
「アイリーン、マジックというのは、どんなにささやかであっても見て下さるお客様にとっては、魔法でなくてはならないんだよ。そして、どんな人であろうと、マジックを見て下さる方はお客様だ。マジシャンがお客様の前で失敗することは、絶対に許されないんだよ。わかるかい?」
こくり、と大きく頷いてアイリーンは答えた。
「はい」
「だからね、すぐに、こうしてこうやるっていうのを教えて、お兄さんの前でやってみるというわけにはいかない。アイリーン、君は私のところで練習をしていく時間をつくることが出来るかな?」
アイリーンは、もう一度大きく頷いた。
「はい、今はお祭りだからって学校はお休みだし、お手伝いも午前中にやってしまえることばっかりです。午後なら、来ることが出来ます」
視線に必死さが加わった。
「あの、それじゃ、ダメでしょうか?」
キャヴェンディッシュの笑みが大きくなった。
「いいだろう、アイリーン、君をこのお祭りの間の特別な弟子として向かえよう」
「あ、ありがとうございます!」
アイリーンは、何度も何度も頭を下げた。
「では、さっそくだけど今日の午後からおいで」
「はいっ!」
満面の笑顔で帰っていくアイリーンに、デンジルも笑顔で手を振った。
出入りの為の許可と了承の為に、事情を聞いたフィンスターワルド・マジック・サーカスの面々も誰もが優しい子だと目を細めたものだ。
ハンカチが消えるとか、ボールが一個から二個に増えるとか、そういうささやかなものでいいから、二つくらい覚えて帰れるといい、誰もが微笑みながら言い合った。
が、そんな微笑ましさは、午後には吹き飛んでいた。
微笑ましいという単語は、アイリーンの腕を語るには失礼極まりなかったのだ。
天才という呼び名を欲しいままにするキャヴェンディッシュさえ舌を巻いた。
アイリーンは、まさに、神に祝福された、と言われるに相応しい才能と指先の持ち主だったのだ。
夕方には、本当に初歩の数個のマジックを人前でやっても良い、という許可さえ得てアイリーンは家路についた。
夜、町の人々が天才、ブライアン・キャヴェンディッシュの手品に酔いしれる頃、ガードナー家では、小さなマジシャンの公演に、家族皆が拍手を惜しまなかった。
アイリーンがイチバン見せたかった兄、サイラスも笑顔で何度もアイリーンの頭を撫でた。
「すごいよ、あのキャヴェンディッシュに教えてもらってきたなんて!その上、一日でこんなに出来るようになったなんてさ」
「先生が上手に教えてくれたからよ」
答えながら、アイリーンもにこにこと笑った。
「この町にいる間は、毎日少しずつ教えてくださるって約束してくれたの。出来るだけたくさん覚えて、たくさんお兄ちゃんに見せてあげるね」
「ありがとう」
サイラスの看病で疲れ気味の顔つきが多かった両親も、二人の笑顔に幸せそうに笑った。
誰もが、幸せな気持ちで一日を終えたのだ。

翌日。
そう大きくは無い町中は、噂以上の腕前だったキャヴェンディッシュと、その新しい弟子の話で持ちきりになった。
キャヴェンディッシュの腕は見た者が話したのだし、アイリーンのことは買い物に出たサーカス団員たちが話したのだ。
サイラスの病気のことは町の者なら誰でも知っていたし、アイリーンがサイラスに懐いていることも知らない者はいなかった。
兄のことを思う優しさと、その類稀な腕の話は、あっという間に広がったのだ。
アイリーンは、キャヴェンディッシュに昨日よりも少し複雑なマジックを教えてもらい、あっという間に覚えてみせた。
それを皆に見せても良いと許可をもらい、帰宅した。
その晩も、マジック・サーカスではキャヴェンディッシュが、ガードナー家ではアイリーンがその腕を披露して、誰もが楽しく過ごしたのだ。
拍手喝さいの後、アイリーンたちの母親が誇らしそうに言った。
「アイリーンはサーカスの人たちも感心するほどの才能なんですって。サーカスの人たちが言ってたって町の人たちに教えてもらったわ」

三日目。
その日もまた、新しい手品を完璧に自分のものとして帰途につこうとしたアイリーンを呼びとめたのは、フィンスターワルド・マジック・サーカスを率いる団長、ベンジャミン・ドーフマンだった。
無論、相手が誰なのかは、もうアイリーンも知っていた。
「こんにちは、ドーフマン団長」
「こんにちは、アイリーン。今日もまた、新しいのをお兄さん達に披露出来るね」
言われて、ぱっとアイリーンの顔が輝いた。
「はい、喜んでくれるといいなぁって思います」
「大丈夫さ、アイリーンの手品なら、皆喜んでくれるよ」
笑顔で答えてから、ドーフマンは膝を折って視線の高さをアイリーンと合わせた。
「ねぇ、アイリーン。君、お祭りの間だけじゃなくて、もっと長いこと、きちんとマジックを勉強してみるつもりはないかな?数年我慢すれば、君の腕ならどこのサーカスでも大歓迎になるから、ここにもいつでも帰ってこれる様になれるよ。君が本気でマジックを覚えたら、そりゃもうたくさんの人達が喜ぶと思うんだけどな」
びっくりして大きく目を見開いて聞いていたアイリーンは、ドーフマンが言い終わると、すぐに首を横に振った。
「本当に本当に、私なんかにはもったいないお話だと思うんですけど、私のマジック見せたいのは、お兄ちゃんだから。それに、お父さんもお母さんも仕事してるので、私がいなくなっちゃったら昼間にお兄ちゃんの側にいる人がいなくなっゃいますし」
ドーフマンも、アイリーンの言葉にすぐに頷いた。
「そうか、そうだな。お兄さんを大切になさい」
「ありがとうございます」
深く頭を下げて、アイリーンは歩き出した。
その晩もまた、前の二日間と同じ光景が繰り返され、ガードナー家では父親が嬉しそうに言った。
「本当にすごいって、工場でも言われたよ」

四日目。
誰が聞いていたものか、町は新しい噂で一杯になっていた。
アイリーンの腕は、マジック・サーカスの団長が引き止めるほどのものだ、と。
寄ると触るとその話になったのは、小さな町に今まであまり明るい話題もなかったことと、誰もが天才と呼ぶ人が認めているという事実に自分のことでもないのに浮かれていたからだろう。
いつも通りの光景が繰り返された後、ガードナー家では両親が口々に言った。
「アイリーンは、団長さんが引き止めたくなるくらいの腕なんですって」
「そうそう、なんでも本格的に学ばないかと声をかけられたんだそうだ」
聞いたサイラスは目を丸くし、それからアイリーンに尋ねた。
「本当?」
「うん、でもお兄ちゃんの側離れたくないもん、私。それに、私がマジック見せたいの、お兄ちゃんだし。だから断ったよ」
にこにこと笑うアイリーンを、サイラスは微笑みながら撫でた。
「ありがとう、本当に毎日、素敵なマジックを見せてくれて」
「ホント、アイリーンがこんなにマジックが上手だなんて知らなかったわ」
母親も、嬉しそうに頬を染めた。父親も、一緒に大きく頷いた。
「なぁ、団長が引き止めるほどなんてな」
それは、子供が誉められて喜んでいる親の罪の無い言葉だったのだ。
とある事情さえ無かったのなら、あんなことにはならなかったはずだった。
あんなことには。

五日目。
また、新しいマジックを覚えて帰ったアイリーンを待っていたのは。
サイラスの笑顔ではなくて、血まみれの骸だった。
その手に、ナイフと流れた血に染んだ手紙を握り締めて。
闇に包まれているのに灯りがついていない家に不審そうに帰宅した両親は、サイラスの手を握り締めたまま、呆然と宙を見詰めるアイリーンを見つけた。
手紙には、サイラスの命は病に蝕まれつくして、あと一ヶ月も無かったこと。
自分の為に、せっかくの未来を潰さないで欲しい、ということ。
アイリーンのマジックは、なによりも最高だったということ。
それが、サイラスらしい優しい筆致で書かれていた。
夜の公演が終わった後、ひそやかにこの事実が伝えられてキャヴェンディッシュはガードナー家へと急いだ。
もう、なにもかもが手遅れになってしまった中で、最後のヒトツが手遅れにならぬように。
まるで時を計ったかのように現れた、旧知の人物を伴って。
「アイリーン」
半ば機械的に振り返ったアイリーンの手には、血まみれの手紙を握り締められたままだった。
どこか虚ろな視線で、ぽつり、と言った。
「先生、私、お兄ちゃんを殺してしまいました」
首を横に振ってから、キャヴェンディッシュは膝をついた。一緒に現れた男も、同じようにした。
「彼は、リフ・バーネット、私の古い知り合いだよ。辛いと思うが、私たちの質問に答えてくれないか」
こくり、と機械的に頷くのを待って、キャヴェンディッシュが問いかけた。
「窓は開いていた?」
少し考えるように首を傾げたアイリーンの顔に、いくらか息苦しそうな表情が浮かんだ。
本能の方が、むせ返るほどの血の臭いを思い出したかのように。
ゆっくりと首は横に振られた。
「閉まっていました……カーテンも、分厚い方のが」
帰宅直後に目にした光景は、永遠にアイリーンの脳裏に焼き付いたままに違いない。
リフと紹介された男が、色つきの眼鏡の向こうから、真剣な瞳で尋ねた。
「お兄さんから、夢で女の子に会ったなんて話を聞いたことはないか?金色のふわふわした髪で、青い目をした」
「いいえ」
不可思議そうながらも首を横に振られて、リフは、また少し考えるように首を傾げた。
「窓はいつも閉まっているのか?」
「細くは開いてます。今日みたいに、天気が良かったら……」
語尾が、薄く消えた。
「アイリーン、よく思い出してみてくれないか?いつもと違ったことは、他になかったか?」
困惑気な表情になった後、どこか虚ろな視線で自分の手を見下ろした。
「手紙……」
「手紙?」
リフの問い返しが聞こえているのかいないのか、機械的に手を持ち上げた。
「花の匂いがしました」
軽く、鼻を近付けてみた。乾燥しかかった血の匂いはだいぶ薄れているので、アイリーンの言う匂いがなんなのか、リフにははっきりとわかった。
ほんの微かだ。
言われてなければ、わからないほどの。
だが、その匂いでリフの顔つきは相当に厳しいものになった。
小さく、頷いてみせたのをみて、キャヴェンディッシュがアイリーンの肩に手をかけ、瞳を覗き込んだ。
「アイリーン、よく聞いて欲しい。お兄さんを殺したのは、君じゃない。恐らくは、寂しい子供にそそのかされたんだ」
「でも……私がマジックなんてしなければ、あと……」
先ほどまで、アイリーンにだけは知らされていなかった事実だ。サイラス本人も、知っていた。
あと、長くて一ヶ月だったということを。
それでも、今回のことがなければ、サイラスはあと一ヶ月の命があったかもしれなかった。
奇跡が起これば、それ以上だってあったかもしれなかった。
サイラスが、アイリーンのチャンスを奪いたくないと思いさえしなければ。
痛いほどにアイリーンの思いに察しがついて、リフもキャヴェンディッシュも言葉を失った。
その時だ。
母親が、嗚咽と共に言ったのは。
「あの子が寂しい子供になるなんて……」
その言葉に弾かれたように、アイリーンの躰がびくっと震えた。
眼が、これでもかというほどに大きく見開かれた。
「お兄ちゃんは……お兄ちゃんは……」
子供のうちに、思いを残して死んでいかなくてならなかった者は、寂しい子供になると言われている。
そのことは、アイリーンでさえも知っていた。
下手な言葉は、気休めにしかならないとリフもキャヴェンディッシュも知っていた。
アイリーンの手を取り、ゆっくりと話し出したのはリフだった。
「アイリーン、私は寂しい子供を天へ送る仕事をしようと思っているんだ。つらい思いをしている子たちが、寂しい子供に誘われることが無くなるように。その為に君の腕をぜひとも借りたいと思っている」
「寂しい子供相手に、寸分たりとも思いが篭っていなかったり、手を抜いたりすればたちまちこちらの命すらが危うくなる仕事だよ。だが、もしもお兄さんが……」
キャヴェンディッシュの言葉が終わる前に、アイリーンの顔に血の気が戻った。
「やります、やらせて下さい!」
リフに、頭を下げた。
「お願いします、私にやらせて下さい」
父親が、隣から深く頭を下げた。
「至らぬことが多いと思いますが、どうかよろしくお願いいたします」
父親にも、母親にも、わかっていた。ここにこのままいたら、アイリーンはきっと壊れてしまうことが。
なにか、やらねばならないことと、そして、ここから離れること。
今のアイリーンにはそれが必要なのだ、ということを。



「それから、フィンスターワルド・マジック・サーカスでピエロの代役としていたニールも一緒になって、『森』へ向かったんだ」
話の最後を引き取ったのはリフだ。
『森』というのは、ポリアンサスやベックの仲間が住みかとしている深い森のことだ。
名を言わず、ただ『森』と言えばそれを指す。
そこから先のことは、二人共知っていることだ。
ポリアンサスとベックは、どちらからともなく顔を見合わせる。
ベックが、キャヴェンディッシュとリフを代わる代わる見つめながら、ぽつり、と言う。
「アイリーンのお兄さんに会ったことはないね」
「そうだな」
ごく簡単に、リフは頷く。
そんなを言ったって意味が無いことは、言ったベックが一番よくわかっている。ただ、なにを言っていいのかもわからないし、かといって沈黙に耐えられるような空気でもない。
「誰しも、大きな人は理由あって私たちと旅をすると言ったわね」
ポリアンサスが、大人びた仕草で首を傾げる。
キャヴェンディッシュは、薄い笑みを浮かべて頷く。
「理由なく命をかけることが出来る人は少ないだろうね」
「そぉね」
ぽつり、と答えて、珍しくうつむく。
ベックも、黙ったまま視線を逸らす。
このままリフを見ていたら、多分、問いかけたくなってしまうから。
リフが旅に出た理由は、と。
そして、リフの瞳は、今は語らないと固く告げていたから。

俯いたままの後姿が、やっと震えなくなったのを見届けてから、ニールは距離を縮める。
「アイリーン」
びく、としたように肩が揺れるが、大人しく振り返る。
月明かりの下でも、目が赤くなっているのがわかる。
「俺が言ってもなんの意味も無いのはわかってるけど、でも、アイリーンはサイラスを殺してなんかいないよ」
きゅ、と微かに眉根が寄るのを見て、ニールは微苦笑を浮かべる。
「それとも、サイラスはアイリーンがそんなことを言うのを口にしたら、喜ぶの?」
目が、大きく見開かれるのがわかる。
「サイラスは、君がこんなに苦しむようなこと、するような人だった?」
答えは返らないが、新しい透明な雫がアイリーンの瞳をいっぱいにしている。
ニールは、目前まで近付いて、そっと覗き込む。
「ね、寿命をつくさず亡くなった人は、無条件には天には行けないって言うから、多分、サイラスはこの世界のどこかにいるんだろう。どこで君の姿を見守って、言葉を聞いてるかわからないだろ?」
「いつか……いつか、出会えるかしら……」
ほろり、と涙が零れ落ちていく。
あの日からのアイリーンを知っているニールは、このことで涙を流したのが初めてのことを知っている。
「うん、こんな仕事してるんだから、いつかはね。その時までに、もっともっと腕を磨いとかないとさ」
こくり、と小さく頷く。
頬を伝うものを、ぐっと拭くと、ぎこちないながらも微かな笑みが浮かぶ。
「でも、その前に……二人に許可をもらわなくては駄目ね」
ニールは、軽く頷いてみせる。
「行こう」
歩き出したアイリーンの足取りは、今までのよりも、また少し力強くなっている。
少し後ろを歩き出したニールは、ちらり、と振り返る。
影が、微かに揺れる。

姿を現したアイリーンが口を開く前に、ポリアンサスが言う。
「アイリーン、ヒトツだけ約束してちょおだい」
「約束?」
いきなり何を言い出すのかというように、アイリーンは首を傾げる。
「殺すって単語は心臓がどきんってするの、亡くなったに言い換えてくれるわよねぇ?」
「そうそう、僕らの大事な寿命が縮まっちまうよ」
ベックも頷く。
驚いたように見開かれた目は、すぐに柔らかな笑みへと変わる。
「驚かせてごめんなさい、これからは気をつけるわ」
「そぉしてちょうだい」
頷いて、ポリアンサスも笑顔を浮かべる。
「アイリーン」
呼んだ声に、まっすぐな視線を向ける。
「はい、先生」
「前にあげたノートの中身は、全て自分のモノに出来たようだね。自分なりの応用も加わって素晴らしかった。もう一段腕を上げるのに、これがヒントになれば良いが」
差し出された手書きのノートに、アイリーンは頭を下げる。
「ありがとうございます」
キャヴェンディッシュは、柔らかな笑みを浮かべる。
「いつかまた、君と会う時には、また素晴らしい腕を披露してくれたまえよ」
「必ず」
皮表紙のノートをしっかりと手渡すと、キャヴェンディッシュは立ち上がり、また元のように帽子を目深にかぶって色付き眼鏡をかける。
「ちょぉっと怪しげな人に見えるわね」
アイリーンの側に戻ったポリアンサスの感想に、キャヴェンディッシュは苦笑を浮かべる。
「わかってはいるが、案外、私の顔を知っている人間が多くてね。こちらの方がまだ、自由に旅が出来るのだよ」
「貴方の旅路に、幸が溢れていますように」
アイリーンの言葉に、深く頷き返す。
「君たちの旅路にも」
マントの後姿が消えるのを待って、誰からともなく顔を見合わせる。
「さて、俺たちもひとまず宿にもどろうか」
ニールの声に、誰からともなく歩き始める。
「そういえばさぁ」
ベックが、ニールの肩からリフへと呼びかける。横目だけで、なんだと問うのに、首を傾げながら言う。
「今日の仕事って、タダ働き?」
「さてな、明日の交渉次第だろう」
くすり、とニールが笑う。
「押し売りだけどね」
「街の人は、本当のことがわかったら先生に頼んどくだったって思うわね」
アイリーンが珍しく乗ってきたのに、ポリアンサスが笑みを浮かべる。
「だぁいじょうぶ。だって、ミスタ・キャヴェンディッシュが寂しい子供に対処出来る人って知ってるの、私たちだけだもの」
「違いない」
リフの言葉に、皆が笑い出す。
月明かりが、そっと五人を照らし出す。


Vespertin Masic 〜di shi dong〜

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