[ Back | Index | Next ]


 雨時行  イウトキドキフル

人が言うところの森の中、ポリアンサスやベックに言わせれば林の中にそびえる、古ぼけた屋敷の前に馬車は止まる。
「へぇ、いっかにも出そうなお屋敷だねぇ」
リフの肩の上で、ベックが見上げながら言う。
首を傾げたのは、重々しく締められた門が動きやすいよう、油を差し始めたニールだ。
「出るって、何がさ?」
「そりゃ、古から伝わる、こう、なんていうの?本に出てきそうな」
くすり、と笑い声を上げたのは、リフの反対側の肩にいるポリアンサスだ。
「ベック、怖いんでしょお?」
「こ、怖いわけないだろ?!」
頬が膨らんで、いくらか赤く染まる。
「なんで僕が怖がらなきゃなんないんだよ」
「だぁって、いっつもこういう話しになった時には、さっさと寝ちゃうし?そんな都合よく毎回眠くなるものかしらねぇ?」
わざとらしくポリアンサスにうそぶかれて、ますますベックは頬を膨らませる。
「寂しい子供と、化け物はやっぱり違うものなのかしら?」
おっとりと首を傾げたのは、アイリーン。
手元が忙しく動いているのは、さび付いた鍵を開けようとしているからだ。
「そりゃ違うよ、寂しい子供はわけあって、ああなったんだから!」
すぐに返したのはベックだ。
「じゃ、化け物はわけもなく、ああなったの?」
手を休めることなく、静かにアイリーンは問い返す。
「今、こうして私たちが旅することが出来るのは、近くで戦争が起こっていないからだわ」
高く響く音が立ち、鍵は落ちる。
振り返り、アイリーンはまっすぐにベックを見上げる。
「とてもとても長い時を過ぎたら、その間、ずっと一人ぼっちにされていたのなら、人だって人で無くなるかもしれないわ」
ベックは、困った顔つきになる。
「わかってる、わかってるんだけどさ……」
いくらか弱気な声になりつつ、ちら、とポリアンサスを見やる。
その視線で、ポリアンサスには、ぴん、と来るものがあったらしい。
す、と眼が細まる。
「あぁあ、そぉいうことね」
ぎく、とベックの肩がすぼまる。
仕草で、ポリアンサスは確信したようだ。細まった視線に冷たい光が宿る。
「森奥の化け物に、ちょっかい出しに行ったことあるんでしょ」
「わ、悪いのかよ!」
強気に言い返そうとしたのだろうが。
「噛んでるよ」
片側の扉を開きながら、ニールが苦笑する。
「なんだかはともかく、実際に怖い思いをしたことがあるってわけだ」
「掟を破ったことはホントだけどさぁ、森の男なら皆やるよ」
まだ、悔しそうにベックは言う。
「たまたまさ、ドジった奴がいて、起こしちゃっただけでさ」
「死人が出なくて幸いだったわよねー」
相変わらず冷たい視線でポリアンサス。
「ホントにな」
素直に頷かれて、少々拍子抜け足した顔つきになる。ベックの視線が落ちてしまったのを見て、さすがに言い過ぎたと思ったのか、いくらか首を傾げる。
「そんなに、スゴイことになっちゃったわけ?」
「スゴイっていうかさ、言葉が通じないって怖いって思ったんだよ。僕らみたいな小さいのなんて、すぐに踏み潰せちゃうくらいでっかいんだよ?冷静になったらさ、ちょっと脅せば済むってわかりそうなもんだろ?そんな大きなモノをさ、ちっさいのが三人で倒しに行くなんて、あり得ないじゃないか」
周囲が頷くのを待ってから、ベックは続ける。
「でも、アイツにとっちゃ目前に現れる者はどんなものでも、敵なんだ。殺らなきゃ殺られるって思ってるんだ。そりゃ、そんなんにしちゃったのは、僕らの方なのかもしれないけど……でも、言葉が通じたならって、ちょっと思っちゃったんだよ」
「最も怖いのは」
ニールが両方の門を開け放ったのを見計らって、手綱をさばきながらリフが口を開く。
「言葉が通じるように見えて、通じない時だ」
「確かにね」
アイリーンに続いて、馬車に乗りつつニールが頷く。
「さて、『入る』ぞ」
「はぁい」
リフの言葉に、ポリアンサスがにっこリと応え、ベックは少し緊張の顔つきで頷く。
ニールと目が合うと、アイリーンはほんの微かに笑みを浮かべてから、視線を前へと向ける。
まっすぐに。
馬車は、ゆっくりと門の中へと入っていく。

扉を開けた少女は、立っているのが女性と気付いて驚いたようだ。
ほんの微かに目を見開いて尋ねる。
「どうしたの?」
「ちょっと、道に迷ってしまったの。この先にパドセイという町があるって聞いてたんだけど、今日中には辿りつけそうに無いし……一晩だけ、屋根を貸してもらえないかしら?」
アイリーンのすっかり困惑した顔つきを見てかわいそうになってきたのか、少女は小首を傾げて少し考えた後、
「ちょっと待ってて」
と言い置いて、奥へと入っていく。
ややしばしの後、明るい笑顔で告げる。
「お父さんたちは今日はいないから、ご飯もちゃんとしたべッドも用意出来ないけど、それで良ければ」
「助かるよ、ありがとう」
満面の笑顔で礼を言ったのは、アイリーンの後ろから顔を出したニールだ。
少女がいくらか目を見開くと、更に肩からベックが顔を出す。
「ホントホント、なんか薄暗くなってきたしさぁ」
「小さい、人……?」
驚いて呟いた声に応えたのは、最後に必要な荷だけを手に現れたリフだ。
「ああ、私たちは一緒に旅しているんだ」
それから、丁寧に頭を下げる。
「今晩は、世話になります」
その言葉は、目前の少女へというよりは奥からそっと覗きこんでいる二人へと投げられたものだ。
視線が合って、少年の方は戸惑ったように少女を見つめ、少女の方は強気の顔つきでつかつかとリフの前まで来る。
顔が最初に扉を開けた少女とそっくりで、気の強さが表れていなければ、並ばれてもちょっとやそっとでは見分けがつかないに違いない。
少女は、勢い良く言ってのける。
「エイダが言った通り、ここには今大人がいないけれど、かといって盗んで価値のあるようなものもなにもないわよ」
聞いて、ニールが思いきりの笑顔になる。吹き出すのをこらえている顔つきだ。
「残念ながら、価値のあるものを見分けるだけの目はなくてね。労力を費やしたところで、骨折り損になるのが目に見えてるから、そういうことはやらないことにしているよ」
「他で稼いでるしねぇ」
と、肩の上のベック。
反対側のポリアンサスも頷く。
「そうね、私たちにはちゃんと職があるもの」
三人ともが、不可思議そうな顔つきになる。
それはそうだろう、色付の眼鏡をかけた背の高い男が一人、敏捷そうで褐色がかった肌の青年が一人、まだ女性と呼ぶには早そうな、かといって少女でもないのが一人。
なんの仕事をしているのか、想像もつかないに違いない。
「なんのお仕事をしているの?」
いくらか恐る恐る尋ねたのは、エイダと呼ばれた少女だ。
「マジック・サーカスだよ」
にこり、とニールが答える。
「マジック……」
「サーカス?」
不可思議そうに首を傾げたのはエイダで、いくらか興味を覚えた顔つきになったのは気の強そうな少女だ。
「ゾーイ、すごいよ、マジック・サーカスっていったら、ただのサーカスよりもずっと人気があるんだって!」
はしゃいだ声を上げたのは、少年だ。
ゾーイと呼ばれた気の強そうな少女は、興味深そうな顔つきのままニールを見上げる。
「マジックもサーカスもやるってこと?」
「でも、三人で?」
エイダが、ますます首を傾げてみせる。
ベックが胸を張ってみせる。
「確かに僕たちは小さなマジック・サーカスだけど、出し物はそんじょそこらのには負けないね」
「小さいからって侮ってもらっちゃ困るのよねぇ」
ポリアンサスも肩をすくめる。
「確かに、三人でっていきなり言われても驚くわよね」
おっとりと首を傾げてみせたのはアイリーンだ。
「でも、嘘は言っていないのよ?」
言いながら、軽く膝を折り、エイダの顔を覗き込みながら肩のあたりに手を伸ばす。
触れられそうになって、びくり、と一歩ひいたエイダの胸元に花が咲く。
「え?!」
「あ!」
エイダとゾーイの目が丸くなり、少年の顔が輝く。
「スゴイや!魔法みたいだ!」
にこり、と微笑むと、アイリーンはゾーイへと手を差し出す。
「今晩一晩、よろしくお願いするわね?」
恐る恐る手を出してきたゾーイと握手した次の瞬間には、その小さな手にも柔らかな色の花が咲く。
「きゃ!」
小さな悲鳴を上げるが、どうにか取り落とさずに握り締める。
「泊めてもらうお礼にはならないけれど、ご挨拶代わりに」
アイリーンの笑顔につられるように、ゾーイの顔からいくらか険しさが消える。
「悪いんだけれど、きちんとした部屋が用意出来ないの。旅をしているのなら、大概のものは持っているんでしょう?ここなら広いから、好きなようにしてもらっていいわ」
と、玄関ホールを見回してみせる。
「ありがとう」
アイリーンに頭を下げられると、くるり、ときびすを返す。
「あの、お花、ありがとう」
エイダが、そっと言い、ゾーイの後に続く。
まだ、なにか出てくるのではというように目を輝かせている少年へと、ゾーイが呼びかける。
「ルーク、休むのの邪魔したら悪いよ」
「あ、うん……」
素直に体の向きは変えるが、数回、後ろ髪を惹かれるように振り返りつつ、少女二人について奥の扉の向こうへと消える。
五人は、誰からともなく顔を見合わせる。
「ふぅん、けっこうガード固いんだ」
ひそりとした声で言って、意味ありげに笑みを浮かべたのはポリアンサスだ。ベックが頷く。
「それに、ちょーっと嫌な感じの臭いがするよ」
ポリアンサス以上に音量を抑えた声だ。
ニールが、少し首を傾げる。
「嫌な臭い?」
「うん、なんていうか……」
言葉にする前に、アイリーンが小さく頷く。
「でも、間に合っているのよね?」
「うん、間に合ってるよ」
確信している声でベックが頷く。ポリアンサスもだ。
「だって、視線の方向がまるで違っていたもの」
終わらぬ死の世界にいる者にも、死の世界の中にいる生ある者にも、どちらか片方しか見えない。
死した者にはベックしか見えず、生きた者にはポリアンサスしか。
そして、それは歪んだ存在という、なによりの証拠。
「さぁて、どうするかな」
ニールが首を傾げるが、浮かんでいる笑みはどうすれば良いのかを知っているモノだ。
「どうするのさ?」
ベックが尋ねると、ニールの笑みは大きくなる。
「こうするんだよ」
リフが持ってきた荷の中からつややかな色の果物を取り出して、もう片方の手で取り出したハンカチで磨きつつ、思い切り息を吸う。
「ああー、お腹空いた。ここに来るまで、ずーっと食べてなかったもんなぁ」
言ったなり、がぶり、と齧る。
ふわり、と甘い香りがロビーいっぱいに広がる。
「ああ!ニールだけずるい!」
思わず、目的を忘れてベックが声を上げる。
ニールがしようとしていることを正確に理解したリフが、口の端を持ち上げる。
「剥くから、少し待っていろ」
ヒトツの荷の上に腰を下し、器用にナイフを操り始める。二つ目の果実から汁が滴り落ちると、あたりはもう香りでいっぱいだ。
灯かりが無いので、どの程度まで続いているのかはわからないが、暗い廊下の向こうにも、この香りは十分に届いている。
その証拠に、先ほどルークと呼ばれていた少年が、そっとこちらを伺っている。
隠れているつもりのルークへとポリアンサスが笑みを向ける。
「一緒に、どぉ?」
びくっと目を見開き、慌てて首を横に振る。が、お腹の方は小気味いいくらいの音を立てる。
ちょうど皮を剥き終わったリフが無言で差し出すと、ルークはふらり、と歩み寄る。夢遊病者を思わせる歩き方は、半ば無意識だったからだろう。
「ルーク!」
背後から鋭い声が飛んで、足は止まる。
決まり悪そうに振り返ると、ゾーイが目を吊り上げている。
つかつかと歩み寄ると、無言のまま、しっかりとルークの手を掴み、廊下の向こうへと戻っていく。
二人の姿が消えてから、いくらかうつむき加減のエイダが顔を出す。
「ごめんなさい。でも、私たちのことはそっとしておいて欲しいの」
くすり、と笑ったのはベックだ。
「そっと、ねぇ?」
真面目に心配そうな顔つきで首を傾げたのはアイリーンだ。
「ちゃんと、ご飯はあるのかしら?大人の人は誰もいないようだけれども」
「大丈夫よ、ちゃんとあるわ」
小さい声ながらもはっきりと返事を返すエイダに、今度はニールが問いかける。
「そうかな?ルークのお腹は、随分とはっきり空いてるって主張していたみたいだけど」
エイダは、一瞬詰まったような顔つきになるが、すぐに視線をまっすぐに上げる。
「本当に大丈夫だから。だからお願い、そっとしておいて。じゃないと、出て行ってもらわなきゃいけなくなるわ」
「ざーんねんながら、そういうわけにはいかないんだな」
あっさりとベックが言ってのけて、笑みを大きくする。
「あれだけお腹空いてるとなったら、あんまり時間が無いってことだしさ」
「時間が無いって、なんの?」
問いかける声が、ほんのかすかにだが震える。
「それは……」
「余計な詮索はしないでってエイダは言ったのよ。いい大人なのに、そんなこともわからないの?」
挑戦するような口調で割って入ったのはゾーイだ。ルークのことはどこかの部屋へと置いてきたらしい。
きっとベックを睨みあげる。
「小さい人だからって、なんでも言って許されると思ったら大間違いだわ」
むっとした顔つきになったベックを、ニールが手だけで止める。
「なにも言わないのも、フェアじゃないんじゃないかな」
「あんたに何がわかるのよ!」
冷静な口調で言われて、ゾーイはむっとしたらしい。その頬が、軽く紅潮する。が、ニールは軽く肩をすくめてみせるだけだ。
「なにがって、そうだな。どうやら君たちはあの子を食べちゃう気だってことくらいかな」
びくり、と二人の肩が同時に震える。
が、困惑したかのようにエイダは首を傾げる。
「どういう意味?」
にこり、とニールは笑みを浮かべる。
「君たちは、人を食べているんだね。ルークを呼んだのは、食べる為なんだ」
「その為には、ルークのお腹の中に人の食べ物があっちゃいけないんだ」
ゾーイは、いくらか引きつりつつも、むっとした顔つきになる。
「随分と失礼なことを言うのね。人を食べるなんて化け物じゃないの」
「化け物かどうかはともかく、終わり無い死の世界にいるってことは確かだな」
ベックがあっさりと返す。
「なんですって?」
に、と口元に笑みを浮かべる。
「なによりの証拠があるんだよ、君らには僕の相棒が見えてない」
と、ニールの反対側の肩へと視線をやる。
つられるように、二人の視線もベックがいるのとは反対側の肩へと移る。ゾーイの顔つきが、さらに不機嫌そうになる。
「いい加減なこと、言わないでよ」
「いい加減かどうか、ルークに確かめてみたらどうかな」
ニールが、静かに口を挟む。
その視線は、すでにエイダとゾーイを見てはいない。にこり、と微笑みかけた先には、ルークがいる。
「ルーク、君にも小さい人は見えているね?」
「あ……う、うん」
見つかってしまったことに小さくなりつつも、ニールの問いに頷き返す。
「そっちの肩に、女の子がいるよ」
遠慮がちに指してみせた方は、ベックがいるのと反対側だ。指されたポリアンサスが、にっこりと妖艶な笑みを浮かべる。
「そう、それは死の世界にいる生ある者という証拠」
「死の世界にいる……?」
ルークは、不可思議そうに首を傾げる。
「それって、僕が動けない病気だって意味?何も出来ないのに息だけしてるから?」
「違う、この場所そのものが死の世界という意味だ」
静かだが、はっきりと聞こえる声で口を挟んだのは、それまで黙っていたリフだ。
「動けないはずの君が動けるのは、死の世界へと足を踏み入れているからだ」
「そうよ、私たちはルークを動けるようにしてあげたわ」
「そう、一緒に遊んで寂しくなくしてあげたの」
リフの言葉に、ゾーイとエイダが口々に言う。
「あのままでいたって、最後は同じよ」
「そう、寂しい子供になってしまう」
ゾーイが、きゅ、と眉根を寄せる。
「だったら、皆がいい方が良かったのに」
「そう、私たちはちゃんと選んだのに」
エイダは、寂しそうな顔つきでさし俯く。
「知ってしまったら、もう食べられない」
「そう、恐怖を知ってしまったら、私たちには食べられない」
凄惨な笑みが、ゾーイの顔に浮かぶ。
「どうしてくれるの?私たちは食べずにはいられない」
「そう、このままでは見境なく食べるしかなくなってしまうわ」
エイダの言葉に、不可思議そうな顔つきになったのはルークだ。
「どうして?どうして、僕じゃいけないの?」
問われて、二人共が困惑した顔つきになる。
「なにを言われてるかわかってる?」
「私たち、ルークを食べちゃうって言ってるのよ?」
「うん、お腹空いてるんだよね」
あっさりとルークは頷く。
「エイダとゾーイの言うとおりだよ、僕、動けなくて、お父さんとお母さんにたくさんたくさん大変だなぁって思わせて、お仕事させて、でも、なんにも出来ないんだ。僕、誰かの役に立ちたいって、ずっと思ってた」
真剣な顔つきで言った後、まっすぐに二人を見つめ直して続ける。
「僕、エイダとゾーイのおかげで自由に動けたんだ、だから、二人の為に出来ることがあるんだったら、嬉しいよ。それに、寂しい子供になんかならないよ、エイダもゾーイもいるんだから」
困惑しきった顔で、ゾーイが言う。
「寂しい子供っていうのは、そういう意味じゃないよ」
「寂しい子供っていうのは、天に行けない子供のことなの」
「エイダとゾーイは、どうして天に行けないの?」
素直な問いに、困ったような顔は寂しそうな笑顔へと変化する。とうてい、子供では浮かべられないような表情に。
「ママに、殺されちゃったから」
「パパが死んじゃって、ママ、他の人が好きになったの。でも、その人のところに行こうと思ったら、私たちは邪魔だったの」
「悲しくて悲しくて、苦しくて苦しくて」
「気が付いたら、人を食べる化け物になってたの」
聞いたルークの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ出す。
「邪魔なんかじゃないよ、僕、エイダもゾーイも、大好きだよ」
こぼれ出した涙は、どんどんとルークの頬を濡らしていく。
「僕、大好きだよ、邪魔なんかじゃないよ」
「泣かないで、泣かないでよ」
そっと近付いて、ゾーイが恐る恐る手を伸ばす。ずっとあった気の強い顔はどこにもない。今にも、一緒に泣き出しそうだ。
「そんなこと言ってくれるの、ルークだけね」
やはり泣きそうな顔で、エイダが言う。
「ありがとう」
ゾーイが、呟くように言いながらルークの涙を拭こうとした瞬間。
ふわり、と風が吹く。
驚いた顔つきになったのは、ゾーイもルークもだ。
「もぉ、化け物じゃないわよ」
にこり、と笑ったのはポリアンサスだ。ゾーイの目が、大きく見開かれる。
「あ!小さい女の人!」
「おめでとぉ、もう、終わり無い死の世界の住人じゃなくなったってことよ」
ポリアンサスは、笑みを大きくする。
「どうして?」
呆然とした顔つきで、エイダが尋ねる。ベックがにこり、と笑う。
「そりゃ、ルークが心から二人を大好きって思った涙と、それからゾーイが『化け物じゃなくなりたい』って心から思ったからだな。願いは強い力になるから」
「エイダも……」
嬉しそうな笑顔で手を伸ばしてきたゾーイの指先から、逃れるようにエイダは後ずさる。
「私は……私はダメよ、だって、ゾーイを化け物にしたのは私なんだもの」
顔がゆがみ、その口元からは大きく伸びた犬歯がのぞく。
「ママが好きになった人は、お金持ちじゃなかった。でも、一人だけならどうにかなるって……ママは、ゾーイを連れて行くつもりだったの。私、聞いちゃったの。私、一人になるのが嫌だったの……だから、あの夜、寝てたゾーイを殺したのは、私なの……ママは驚いて、それで、私を……」
声は、小さくなって消えていく。
代わりに、のぞいた犬歯は牙のように伸びはじめる。
「ゾーイに嘘を言ったわ、ママに殺されたんだって。嘘を言ったわ。本当はママはゾーイを愛してたのに」
その声は、子供の声ではない。
いや、人間の声ではないと言った方がいい。深遠から聞こえる、おぞましいなにか。
「エイダ!エイダやめて!」
ゾーイが声を張り上げる。
その頬を、きらきらと光るものが伝っていく。
「ねぇ、私だって一人は嫌だよ!」
爪が伸び出した手を、しっかりと握り締める。
「私、一人で天に行ったりなんかしないから、ずっとエイダと一緒にいるから、だから!」
なにかが弾けるように広がった気配がして、異形になりかかった少女は、元の少女の姿へと戻る。
「ゾーイ……」
「ね、ずっと一緒にいよう」
きゅ、と二人で固く手を繋ぎ合う。
ベックたちの方へと振り返り、そして、エイダが眼を見開く。
「あ!」
「おめでと、ちゃんと見えるようになったのね」
にっこり、とポリアンサスが微笑み返す。
「じゃあ……」
「私たち……」
エイダとゾーイは、いくらか眼を見開いて、顔を見合わせる。
「そ、ちゃーんと二人一緒に天へ行けるよ」
ベックの言葉に、首を傾げて尋ね返したのはルークだ。
「じゃあ、もう、エイダもゾーイも、寂しくないの?苦しくないの?」
「そう、大丈夫よ」
アイリーンが、膝をおって視線を合わせてから答える。ふわり、とルークの顔に笑みが浮かぶ。
「そっかぁ、エイダもゾーイも、寂しくなくなったんだね、良かったぁ」
その声に、二人共がはっと振り返る。
エイダが左手を、ゾーイが右手を握り締める。
「ルークのおかげだよ」
「そう、ルークが来てくれて、話を聞いてくれたからだよ」
「私たちのこと、好きって言ってくれたからだよ」
二人共の目に、涙が浮かぶ。
「なのに、なのにルークだけが苦しいなんて」
「ルークだけが寂しいなんて」
ぽろり、とどちらからともなく、涙がこぼれる。
「お願いが力になるなら、どうかどうか」
「私たちが殺されてなかったら、生きられた分を」
「私たちみたいに、普通に動いて遊んで」
「たくさんたくさん、楽しいことがあるように」
涙と共に、願いはルークの両手へと注がれていく。
どこか、照れたような微笑がルークの顔に浮かぶ。
「あの、ありがとう。僕、動けなくても頑張るから、たくさんたくさん頑張るから。そしたら、寂しくなくて、ちゃんといつか、二人が行くところに行けるよね」
問いかけるようにリフたちへと向かった視線が、大きく見開かれる。
「あ、本当に二人だったんだ」
両側から、エイダとゾーイが飛びつく。
「ルークにも見えるようになったのね」
「ルーク、終わりの無い死の世界から、帰れるのね」
途端に、ルークのお腹が大きな自己主張をしてのける。
「あ……」
「これを食べるといい」
リフに、改めて果物を差し出され、ルークは照れた笑顔で受け取って口にする。
「美味しい!」
思わず声を上げたのを聞いて、エイダとゾーイが顔を見合わせる。
「すごい!」
「お願い、ちゃんと叶うのね!」
「え?」
驚いた顔で振り返るルークに、アイリーンが微笑みかける。
「終わり無い死の世界から戻ったら、元通りになるの。本当だったら」
「あ、僕、自分じゃ動けないのに……」
立って、歩いて、受け取って、そして果物をかじった。
満面の笑顔が浮かぶ。
「エイダ、ゾーイ、本当にありがとう」
首を振ったのは、二人共だ。
「ルークが助けてくれたんだもの」
「そう、ルークにお礼が出来て嬉しいよ」
それから、リフたちへと二人一緒に向き直る。
「ルークのおうち、パドセイにあるの」
「送ってあげてくれる?」
リフが、笑顔で頷き返す。
「もちろん」
「ありがとう」
声を合わせていった後、もう一度、二人は顔を見合わせる。
「じゃあ、そろそろ……」
「待って!」
ゾーイが言いかかったのを、止めたのはルークだ。
「あの、お花を」
懇願する瞳で、アイリーンを見上げる。にっと笑って、ニールがいつの間に荷から取り出したのか、シルクハットとステッキをアイリーンへとほおる。
「もちろんだよね?」
「ええ」
右手でステッキを、左手で帽子を受け取って被ったアイリーンは、はっきりとした笑みを浮かべる。
目を輝かせたのは、三人ともだ。
「マジックの前に、ヒトツだけいいか?」
口を挟んだのは、リフだ。視線を向けたエイダとゾーイに問いかける。
「ふわふわの金の髪で、青い氷の瞳をした子が来なかったか?」
「ううん、ここには来たことないわ」
「ああ、でもあちらの方に来たことあるって、誰かが言っていたわ」
指した方を確認して、リフは深く頷く。
「ありがとう」
ニールが、さっと両手を広げる。
「さぁ、魔法の手を持つ奇術の姫の登場です!」
言葉と同時に、アイリーンの手でステッキがキレイな円を描き出す。
くるくると空中で何回転もしてきたステッキが、いつの間にか左手へと戻っている帽子をさすと、ぱっと花が咲く。
それが宙に散ったかと思うと、今度は手からボールがあふれ出し、これも空中でみるみる花へと変わっていく。
ハンカチが、トランプが、花へと代わり、いつしかホール一杯が花で埋め尽くされて。
「ありがとう」
「本当に、ありがとう」
柔らかな声の二重奏と共に、エイダとゾーイの姿がかき消すように消える。
窓という窓から、一斉に光が溢れ始める。
朝の光が、屋敷の中まで届いたのだ。
まぶしさに目を細めるルークの肩に、そっとリフが手を置く。
「さぁ、行こう」
しっかりと頷き返すと、ルークは歩き出す。
開け放たれた、扉の向こうへと。
荷物を手にしたアイリーンとニールが出て、最後にリフが扉を閉ざす。
住人のいなくなった屋敷は、どこか寂しく、でも優しく佇んでいた。


Vespertin Masic 〜da yu shi xing〜

[ Back | Index | Next ]



□ 月光楽園 月亮 □ Copyright Yueliang All Right Reserved. □