『 桜ノ森満開ノ下 拾八 』



あの桜の傍に止まったのは偶然だ。
あの男に花を愛でるなどという情緒など、あるわけがないのだから。
見事なまでの大樹の中でも、ひときわの大木の枝が柔らかにしなる。
誰もが空をも染め上げそうな満開の桜を見上げている。
ただ無邪気に愛でる人々に、つい浮かびそうになった苦笑を堪える為に。
俺は、下を向く。
そして、そのまま凍りつく。
太い幹の下の、いくばくか盛り上がった土は、根がしっかりと張った証拠。
ただ、それだけのことであるはずなのに。
これは、生きている証なのに。
生きていない。
もう、どこにもいない。
なぜ、罪も無いのに殺されなくてはならなかったか。
こんな終わり方をする為に生まれてきたわけではなかろうに。
こんな、むごたらしい。
人に生まれた故に、この運命ならば。
次は、花となればいい。
なれずとも、花の近くにあれば、少しは心も慰められるだろう。
花は、桜が良い。
咲いたと思えば、あっという間に風に散る桜が似合いだ。
あまりに早く、命を参じた者たちには。
だから、桜の下には。
ふ、と俺の思考が途切れる。
まるで、何かから開放されたかのように。
我に返って、誰かの視線に気付く。
誰の視線か。
俺が顔を上げたずっと先に、彼女は立っていた。
皆が薄紅の天を見上げる中で。
彼女の視線は、ただ、真すぐに俺を見つめていた。
桜の大樹の根に魅入られた俺のように。
彼女も、視線を離せなくなってしまったのだろうか。
あの視線が、俺を大樹の根の呪縛から解き放ってくれたものらしいのに。
まるで引き換えるかのように、彼女が捕らわれてしまったのが皮肉に思えてきて。
我知らず、苦笑を浮かべる。
すると、彼女は。
笑みを返した。
俺と同じ苦笑ではなく。
同情でも、憐みでもなく。
かといって、なにも知らぬ無邪気なものでもなく。
少なくとも、俺の出逢ったことの無い笑みだった。
それが、彼女との出逢いだった。

あの男が娘をくれてやると言い出した時。
では、変わっていると伺った御方を。
そう返した。
後で、彼女はあの男の思い通りにならぬやも知れぬと思い当たったが。
それはそれで構わないではないか。
あの男に逆らえば、俺の望みは果たせなくなる。
いらぬ家族を、どうしても持てというのならば。
彼女がいい。
丁度いいではないか。
他の男のものになるくらいなら。
己が一言で亡き者になるのも。

失望したことには。
彼女は、俺の前に生きて現れた。
所詮は、あの男に命奪われるのが恐ろしいだけか。
それでも、一度は顔を拝まねばなるまいと、部屋へと顔を出した。
彼女は、あの日と同じく、真すぐに俺を見た。
一つだけ、お尋ねしたき儀がございまして、嫁いで参りました。
あの日と同じ、笑みが浮かんだ。
こうでもしなければ、一生お尋ねすることも叶いますまい。
その、問いとは。
問い返した俺に、彼女はさらりと言ってのけた。
なぜ、桜の木の根を見つめていたのか。
覚えていたのか。
あれが俺だと知っていたのか。
そのことを唯一つ尋ねる為に、彼女はここへ現れたのか。
俺は、答えの代わりに問いを返した。
桜の樹の下には、なにがあると思うか。
彼女は、静かに首を横に振った。
死体が、あるのだ。
俺の答えに、彼女の肩がかすかに震えた。
怯えたのではないと、わかる。
思ったとおりに、彼女は強く、そして聡い。
俺は、彼女の目前へと歩み寄り。
誰もがすくむと言う瞳で、覗き込んでやった。
したいことがある。
その為には、なんでも利用する。
お前であっても。
彼女は静かに頷いた。
怒りも、驚きも無い顔で。
ただ、笑みを浮かべて。

時はいつしか流れて。
世情は、すっかりと変化した。
もはや、あの男に先は無い。
あの男に率先して手を貸してきた、俺にも先は無い。
そのこと自体に、なんの感慨も無い。
全てを終えることが出来なかったのも、俺の力量が無かったのが悪い。
ただ、一つだけ。
許されることならば。
足早に向った先は、彼女の部屋。
いつもは現れぬ時間に姿を見せた俺に、珍しく彼女は眼を見開く。
それに構わず、俺は告げる。
北へ帰れ。
彼女の眉が、ひそめられる。
そうだろう、彼女は理由も無しに納得するほど愚かでない。
だから、俺も率直に全てを告げる。
聞き終えた彼女は、静かに首を横に振る。
あなたの志が遂げられぬのことが、残念だ。
あの男が、愚かであった為に。
彼女が、俺の目的を悟っていることには、別に驚きは無い。
だが。
最後まで、共にありたい。
なぜ、そんな言葉を口に出来るのか。
嫁いで来たあの日から、指一本たりと触れたことは無かった。
柔らかな言葉一つ、与えたことも無かった。
なのに、なぜ。
なぜ、俺と共にありたいなどと。
あの日、彼女が嫁いで来た夜。
ただ一つの質問だけを携えてきたのだと知り。
俺の言葉に怯えぬどころか、笑んでみせた時から。
もう二度と抱かぬはずの感情を、彼女へと抱いた。
同じ想いを、彼女も。
我に返った時には、彼女を抱き締めていた。
どうにもならぬほどに、強く。
誰にも告げぬはずの全てを告げた。
それから、たった一つ。
この部屋に向かう時以上に、祈ってしまっている、ただ一つを。
お前にだけは、生き延びて欲しい。
たった一人でも。
想った者に、生きていて欲しい。
覗き込むと、彼女は静かに見上げていた。
俺の、我侭な望みを、かなえてはくれないか。
彼女は、静かに頷く。
あの日と同じ笑みで。

いつの日にか、望みを果たしたなら。
お前と桜を見上げてみたかった。
そう、最後に告げたから。
だから、彼女は、北の地で。
天を覆いつくすように咲く、桜を見上げるだろう。
薄紅の花弁を散らす、桜の下で。
きっと、樹の根を見つめた後で。


〜fin.
2005.03.28 Under the full blossom cherry trees XVIII

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蛇足!
俺は李儒、あの男は董卓。
『桜ノ森満開ノ下 参』と完全呼応です。


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