『 桜ノ森満開ノ下 拾九 』



何かに頬を撫でられた感覚に、顔を上げる。
さらさらと舞う、雪よりも柔らかな。
薄紅の花弁たちが視界いっぱいに広がる。
今年も、桜の季節になったかと。
舞い散る今、気付いたことに苦笑する。
北へ。
兵を率いて北へ。
そのことばかりで、風が温かになっていたことにすら。
まるで気付いていなかった。
扇に舞い降りた、薄紅の花弁を手にして陽に透かす。
この桜を愛でた人がいた。
ただ一人、主君と決めた人。
桜は、心を更にと飛ばす。
北へ。
出来うる限り、長安の近くへと。
近くなればなるほど、相手は必死になる。
かの人が望み。
かの人が兄弟と呼んだ人々が望んだことを叶える為に。
どのようなことでも、してみせる。
後が、無いから。
もう、残された時間は少ないから。
一見、潔く見えるが。
咲く時をじっと待ち続けることを知り。
存分に咲いて、初めて風に身を任す。
そう言ったのは、かの人だ。
散るまでに時が無いのならば。
存分に咲いて見せねばなるまい。
だから、彼を嵌めた。
まだ、彼に出てこられては困る。
彼がいては、長安すれすれまで寄せることはかなわない。
ただし、そこまで寄せれば。
確実に、彼は戻ってくる。
自分に対抗しうるのは、彼しかいない。
長安が危ういとなれば、間違いなく。
彼を嵌めたのは自分で、呼び戻すのも自分。
きっと、彼は気付いているだろう。
誰が、彼を嵌めたのか。
自分が集めているように。
彼も自分の情報を集めているに違いない。
焦っては、おるまい。
彼を嵌めねばならぬと自分が判断したと知っているからには。
いつかの時を、彼も知っているということ。
そして、そうでなくては困るのだ。
真に自分の相手をする者は、賢くなくては。
長安近くまで寄せねばならない。
だが、抜いてはならない。
そのことに、気付けるほどに聡くなくては。
面と対峙すれば。
必ず彼は、悟ってくれる。
そうでなくては、意味が無い。
彼を生きて追い落とした苦労が水泡に帰してしまう。
自分が期することに、彼が気付いた後。
彼は、自分との駆け引きに応じるだろうか。
その答えも、すでに知っている。
是、だ。
今の彼には、考える時間が充分にある。
呼び戻された後のことを、熟考しているはずだ。
その後のことも。
彼はきっと。
いや、間違いなく。
別の駆け引きを、持ちかけてくる。
その駆け引きは、自分が持ちかけようとしているものと。
同じ結果を引き出すもの。
互いの利害が一致せねば、駆け引きは成立しない。
出すべき力の加減は、聡くなければわからない。
だから、彼が必要だ。
彼でなくてはならない。
そこまで思考して、ふ、と笑みを漏らす。
彼と対峙することを、楽しみにしているようではないか。
そうかもしれない。
自分と互角に渡る者は、彼しかおるまい。
かの人の望みを叶える為に。
彼と渡り合うのは、さぞ楽しかろう。
かの人と、かつて対峙した人のように。
腹を割って話す機会は無かろうが。
話は通じるであろうことも、また面白い。
だが、いくらか残念な気もする。
青いはずの空を、薄紅に染め上げる桜。
彼のいる地には、もう咲いたろうか。
彼もまた、自分のように見上げることがあるだろうか。
いつか、対峙する彼にも。
この桜を見せてやりたい。
時が違えば。
良き友人となったであろう、彼に。


〜fin.
2005.04.03 Under the full blossom cherry trees XIX

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蛇足!
自分は孔明、彼は仲達。
かの人は無論劉備で、かの人と対峙したのは曹操です。
『桜ノ森満開ノ下 弐』と呼応ですが、他にもいろいろと混じっております。


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