『 桜ノ森満開ノ上 弐拾 』



月の下、一人の男が、一本の若木を見つめている。
夜だというのに、この屋敷の主人たる彼が、たった一人で立ち尽くしていても、使用人たちが気にかけている様子はない。
なぜなら、彼は失った国すら思わぬ、冷酷で愚かな元君主、だから。
もっとも、劉禅が、世評を気にする様子は一切無い。
それどころか、それなりの値段がする着物を汚すのを全く気にかけず、延々と土いじりをし続けていた。
成果が、この桜の若木だ。
今年、やっと花開いた。
そして、今日が、満開だ。
近くで見つめていた劉禅は、そっと、一歩、後ずさる。
さわ、と、風が吹く。
冴え冴えとした月の下、花弁はほの白く光を帯びたようだ。
もう一歩、二歩。
三歩目を踏み込んだ、その瞬間。
ざ、と風が舞う。
突然の風は、劉禅の身体を攫うようにすくい上げる。
あまりのことに、顔を覆うことすら忘れていると。
若木が、月から何かを得たかのように、大木から咲き零れるような勢いで、次々と花弁を増やしていく。
いや、若木だけでは無い。
この庭にある木が、全て桜になったかのように。
目を見開いているうち、やっと足元が定まる。
すでに無いはずの城の、楼の上。
「こんばんは」
懐かしい声に、振り返ると。
にこり、と、孔明が微笑む。
「ああ、やはりそうだったのですね」
ぽつり、と呟く声に、孔明は頷く。
「ええ、そうです」
成都の城には、まともに咲く桜は一本しか無かった。でも、時折、妙にたくさんの花弁が落ちていることがあって。
驚いて、指を伸ばすと、まるで雪のようにとけて消えた。
あの日から、ずっと考えていた。
一人、楼へと昇るのは。
孔明の笑みが、深くなる。
「貴方様は気付かれた。ですから、見る権利がありましょう」
手にする白羽扇が、揺らめく。
誘われるかのように、桜がさざめき、舞い、そして。
笑顔のままの懐かしい人。
「私は」
揺らめく劉禅の声に。
「代表して、御礼申し上げに参りました」
静かで、柔らかい声が返る。
「そして、この景色をもう一度、見る為に」
白羽扇の先には、一面の花弁。
月の光を映して、ほの白い。
風にゆらめいて、さざめいている。
「こちらの立場になると、また美しさが増すものですね」
いつにもまして、柔らかい声の今なら。
劉禅は搾り出すように、問う。
「叔父上、私は、そうお呼びすることが許される甥でありえましたでしょうか」
「無論です」
視線を上げると、真っ直ぐに見つめ返される。
それは、父を失ってからこのかた、見ることが出来なかった柔らかな笑みで。
そう、だから桜を望んだのだ。
どんなに、愚かと蔑まれても構わないから。
「叔父上」
声が、掠れる。
ずっとずっと耐えてきた。
父が叔父たちが、どんなに苦しいか知っていたから。
なのに、今、こんなにも嗚咽がこみ上げてくるなんて。
「阿斗様」
柔らかい声と共に、暖かい手が頭に乗る。
視界が揺らぐのを止められない。
「本当に、ご立派にやり遂げられました」
幼い頃から、勝手な感情で泣くことは、あってはならないと決めていたのに。
今、子供のように涙が溢れて止まらない。
暖かい手は、笑みは、けして咎めることをしない。
大事な叔父たちが真実を知っていてくれるから。
これからも愚かな君主の汚名を被って生きていける。
だから、今だけは。
小さな少年は、大好きな叔父の腕の中。
「叔父上、お好きな桜が、咲きました」
「ええ、とても綺麗ですよ。ありがとうございます」
ふわり、ゆらりと、桜はさざめく。

満開の桜の海に浮かぶ楼には、星見をしている軍師がいた。


〜fin.
2010.04.02 Above the full blossom cherry trees XX

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蛇足
そして朝が来て、『桜ノ森満開ノ下 四』へと。


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