母親が泣いているのを見たのは、あの時だけだ。 ひどく、小さく見えたのを、よく覚えている。 彼女は、声もなく、ただ、泣いていた。 声をかけることができず、扉の向こうから、ただ、見つめるだけだった。 どうしようもない怒りがこみ上げてきたのは、それから少しして、だ。 いつも、入ってはいけないよ、と言われていた亮の部屋へ、怒りにまかせて飛び込んだ俊の見たものは。 人の、生活している部屋ではなかった。 そう、今の、総司令室そのもの。 そして、その部屋のたくさんのモニターには、全世界で流されているニュースが映し出されていた。 音と映像の洪水に、思わず、立ちすくむ。 その部屋の中央のいすに、小さな人影はいた。 「どういう、ことなんだよ?!」 返事は、返ってこない。 回り込んで、正面に立つ。 「俺たちを、だまして、なにしたんだよ?!」 表情のない瞳が、こちらを見つめ返している。 俊は、襟首をひっつかむ。 「どういう、ことなんだよ」 亮は、つい、と画面を指してみせた。 俊は、振り返りもせず、いらだたしげに怒鳴る。 「あんなたくさんあったら、わかんないに決まってんだろ!」 少しの間、亮は、俊のことを見つめていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。 いままでの、片言ではない。 母親に、終わりを告げたときと同じ、澄んでよく通る声。 「どうしても知りたいなら、夜、中央公園の樫の木の下に来てください」 それは、夏祭りの終わりの日。 そして、亮は、来なかった。 翌日、俊は、母親について家を出た。 「それ以来、会ってないな」 忍は、相変わらず窓の外に目を向けていたが、ゆっくりと視線を、亮へと動かす。 「あ」 思わずあげた忍の声に、考えに沈みながら運転していた俊は、我に返る。 「どうした?」 「髪が……」 亮の髪が、窓から入る風にあわせて、さらさらと揺れている。 透き通りそうな色だった肌も、うっすらと人間らしさを取り戻しているのが、暗い中でもわかる。 コールドスリープ状態から、解放されつつあるのだ。 忍は、苦笑を浮かべる。 夜道のせいで、俊には見えなかったようだが。 体重が、さっきより軽くなった。 はっきりと意識が戻ってきているわけではないが、人の気配、は敏感に感じ取っているのだろう。 自分で躰を支えようとしているぶん、こちらにかかってくる体重は少し、減る。 誰にも、頼らない。 頼るつもりもない。 無意識に、否定する他人の手。 人の手を否定するのは。 人の手を要求をしないのは。 「……で、おまえは、今でも、怒ってるワケ?」 「怒っては、いないな……多分」 多分、というのが、俊らしい素直さだ。 「もういちど、聞いて見るっていうテもあるよな」 「なにをだよ」 「どうして、来なかったのか」 俊は、視線をこちらにチラ、と向けた。 「いまさら?」 「いまだから、かもしれないよ」 今は、どうして亮が、対『紅侵軍』戦のとき、優のことを『村神さん』と呼び、俊のことを『俊』と呼んでいたのか、わかる。 俊が、ぜったいに夏祭りに行こうとしなかったワケも。 「……今年、会ったよ」 俊が、ぽつり、と言う。 言葉足らずなのは、それを忍が補えると知っているからだ。 「樫の木の下で?」 「ああ」 窓の外に広がる夜景が、華やかになってきている。 首都、アルシナドはもう、すぐだ。 体温もだいぶ戻ってきているとはいえ、ひとまずは医者にみせなくてはならないだろう。 車を国立病院につけると、忍は、仲文の元へと亮を連れていった。 コールドスリープ状態のモノを人目にさらすわけにはいかないので、特別な場所のエレベーターに乗る。 階を指定して、壁に寄りかかる。 亮に視線を落とす。 氷の彫刻から解放されつつあるとはいえ、その顔色はまだ、ロウ細工のように白い。 それでも、無意識の感覚は取り戻しつつあるは、体重のかかり方でわかる。 車で感じていたのよりも、さらに、軽く感じる。 その軽さが、あまりにも頼りない。 なぜ、こんなに、他人の手を拒否するのだろう? 無意識のはずの時でさえ、支えすら拒否するくらいに。 自分たちのほか誰も乗っていないエレベーターは、動力源であるモーターの小さなうなりしか聞こえない。 だから、なにかがはじけた、その音は、ひどく小さな空間に響きわたった。 「?」 どうやら、亮の左手にいつもしている、指なしで肘をすぎたとこまである手袋を止めているバンドが、急激な温度変化をうけて劣化したのか、切れたらしい。 押さえるモノを失ったそれは、ゆるんで手首まで落ちてしまう。 あらわになった腕の細さが、今は痛々しくさえ見える。視線を向けたのは、なんとなく、だった。 ぎくり、とした。 いくつもの、赤いスジ。 長短様々のそれは、傷、だ。 切れ味のよい、ナイフのようなもので、斬りつけた痕。 それから、突き刺したような痕。 バンドと同じように、温度変化に耐えられずに、うっすらと血を滲ませている傷がある。 それらの周囲は、透き通るほどな白さはない。傷が塞がるまえに、上から傷つけるから、皮膚がもとに戻れないのだ。 繰り返し、同じ個所につけられた傷は。 一樹につけられたモノでは、ない。 他人が、傷つけたのではないのなら。 気配をほとんどさせない、扉の向こうで、彼は。 あまりにも、鮮やかな映像が目に浮かんで、思わず瞳をそらせる。 静かだが、はっきりした音がして、忍は暗い映像の呪縛から、放たれた。 視線を上げると、エレベーターが、目的の階についたことを告げている。 忍は、ずりおちた手袋をあげ、落ちないよう工夫してから、出た。 仲文は軽く口をとがらせる。 「検査をごまかしたりするから、こういう罰が当たるんだよ」 軽口を叩いてるということは、たいしたことはない、ということなのだろう。 体温もだいぶ戻ってきたとはいえ、やはり、医者の保証があるのと無いのとでは安心感が違う。 忍は、ほっとため息をついた。 「気付くまでには、もう少し時間がかかるけどね」 にこり、として仲文は言う。 「明日には帰れると思うから」 「……はい」 返事をしながら、忍は亮から視線をはずせない。 「どうかしたかい?」 「いえ」 我に返って、視線を仲文に戻す。 「なんでも、ないです」 仲文の口元には、苦笑気味の笑みが浮かんだ。亮の左手首をとると、ぶらぶらさせてみせた。 「……やなモノ、見ちゃった?」 言いながら、仲文は忍があげておいた手袋を、さげた。微かに、眉をよせる。 「これは、あまり見たくないよなぁ」 血のにじんでいるトコを、慣れた様子で消毒しながら、 「どうも、確認したくなるみたいでね」 世間話でもしているような口調で、仲文は、こともなげに言う。 話が、理解できなくて聞き返した。 「確認……?」 「生きてるのか、どうか、ね」 消毒をおえて、忍に視線を戻す。 「わからなくなっちゃうらしくてさ」 「生きてないわけが……」 思わず言いかかって、そして、自分の思考能力が鈍っていることに気付く。 ああ、そうだ。 あの時、俊はショックだっただろう。障害を持っていて守られてるはずだったのが、大人をも欺いてみせたのだから。 でも、ショックを受けたのは、一人ではなくて。 おそらく、自意識は、最初から少なかった。半分は演技で、半分は真実。 そして、それすらも、消えるくらいの。 残ったのは、たったひとつの『疑問』だけ。 そして、それを確認することを、『傷つける』という行為でしか、出来ない。 あまりにも、痛くて。 「忍くんが、そんな顔することはないよ」 落ち着いた瞳が、こちらをのぞき込んでいる。 そして、にこり、とした。 「ちょっと疲れてるね、休んだほうがいい」 夜はかなり更けてきていたが、皆、寝ずに待っていたようだ。 部屋から出るな、といわれていた貴也も。 「明日には、帰れるって」 聞いて、皆ほっとしたようだ。空気がゆるむのがわかる。 安心ついでに麗花が言う。 「でもさ、明日って、今日のこと、明日のこと?」 「え?」 「だって、日付変更線、もう越えてるよ」 まったくもって、ご指摘の通りだ。そんなことまでは、考えもしなかった。 「あ……聞いてこなかった」 ぽかん、とした忍の表情に、思わず麗花は笑い出す。だが、なんとなく、声だけが上滑りしている。 短くなった煙草を揉み消しながら、ジョーがぽつり、と言う。 「はやく、休んだ方がいい」 その台詞は、仲文にも言われた。そんなに、疲れて見えるのだろうか? 忍は、思わず自分の顔に手をやる。 仕種で、なにを考えているのかわかったのだろう、須于が、自分の目の下を指す。 「クマが、できてる」 そう言う彼女も、どこか疲れた表情だ。 亮が無事なことがわかって、気が緩んだせいなのか、えらくそれが目に付く。 なんだかんだ無表情を装っていても、心配だったのだろう、皆。 コトの原因を作った貴也は、もう、泣き出しそうな顔つきだ。 視線をそらしたままの、俊も。 亮が無事、というのは、今回のコトの、『終わり』ではない。 それは、忍でなくても、よくわかっているだろう。 でも、今は。 休息が必要だろう。 それから、考える時間が。 |