□ 火と氷 □ whisper-3 □
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透弥の足はかなり速いが、追いつく気になれば駿紀にはなんてことはない。隣に並んで、不機嫌な顔のまま尋ねる。
「おい、どこ行く気だよ」
聞こえていないわけがないのに、透弥は無言のままだ。ついて来ればわかると言いたいのはわかるが、先ほどの命令口調といい、腹立たしい。
それ以上に腹立たしいのは、これだけの態度なんだからほっとけばいいと思うのに、行く先に何があるのか気になってしまっている自分だ。これでは、透弥の思う壺ではないか。
ともかく、行く先くらいはしゃべらせようと肩を掴もうとしたところで、先から他の人間が来るのが見えて、かろうじて留まる。
どうやら、今のところは思う壺とやらにハマるしかないらしい。
駿紀の様子を見てるのかいないのか、透弥は無表情のまま、ペースを落とさずに階段を下りていく。
地下まで来たのは階数を確認しなくてもわかるが、この方向は地上でも日当たりの悪い側だろう。うっすらとかびの臭いが鼻をつく。
こんなところにあるのは、資料保管室くらいしか思いつかないのだが、先に見える部屋には灯りが灯っている上、無造作に張り紙がされている。
思わず、軽く身を乗り出す。が、申し訳程度の小さな文字を駿紀が読む前に、透弥はおざなりなノックと同時に扉を開いてしまう。
部屋の中は、実に雑然としている。そこらじゅうに紙片が積み上げられ、そうでない場所には謎のケースが積み上げられている。段ボール箱も、小さなものの上に大きなものといった具合に、不安定極まりない置かれ方だ。
下手にぶつかれば、間違いなく紙かケースかダンボールの餌食になるのは確実である。
ついでに、得体の知れない臭いが漂っている。何かはわからないが、薬品だということだけはわかる。
駿紀は鼻を摘みたい衝動にかられつつ、警視庁内とは思えない状況の室内を見回す。
その間に、透弥はなにやら音のしている扉の方を開く。
「林原、ちょっと時間くれ」
林原という名は、最近聞いたことがある、と思う間に、のんびりとした返事が聞こえてくる。
「おやおや、相変わらず自分のペースだねぇ。何か新しい事件かなぁ?」
この、どこか間延びしたようなしゃべり方にも覚えがある。いくらか声の質が違って聞こえるのは、前回は受話器を通していたせいだ。
聞いたのは、先日の事件での唯一といっていい証拠品がアカショウビンの羽だということ。
とすると、林原とは、たった二人きりの警視庁のお荷物と言われている科研長の名だ。ということは、ここは科研ということになる。などと考えている間に、ひょろりとした青年が顔を出す。
「やあ、こりゃどうも。神宮司と一緒ってことは、隆南さんですね?」
背の高さは透弥とそうは変わらないから、自分とも同じくらいのはずだが、線が細いせいでどことなくアンバランスに見える。年も変わらないくらいだろう。
髪などはきちんとしているが、かけている黒太縁のやぼったい眼鏡と薄汚れた白衣のせいで、ますます警視庁内ということを忘れそうだ。
青年は、にっかり、と人懐こい笑みを浮かべてみせる。
「初めましてって言った方がいいんですかねぇ、こういう時は」
憎めない笑みに、駿紀も笑みを浮かべる。
「さて、どうでしょう?それはそうと、先日はお世話になりました」
ぺこり、と頭を下げる。
「あ、こりゃご丁寧にどうも」
ひょこり、と林原も軽く頭を下げる。
「こんなむさっくるしい所に、ようこそいらっしゃいました」
むさくるしいというか、胡散臭いというか表現はともかく、一応自覚はあるらしい。挨拶が済んだ、と判断したのか、林原は透弥の方へ向き直る。
「で、今日はどうしたのかな?」
「福屋の件にあたることになった」
のんびりと首を傾げた顔のまま、林原の表情が輝く。
「本当に?そりゃありがたいなぁ。やっと実地で試せるんだねぇ」
「実地で試す?」
駿紀が聞きとがめたのに、林原は笑みを向ける。
「ええ、ルミノール反応、結晶析出、場合によっては血色素血清沈降法ですねぇ。他にも……」
指折り数え始めたのを、透弥が手で止める。
「隆南は、それらを知らないんだよ」
「ああ、そういうことね。部署内で物別れてるようじゃ仕方無いもんねぇ」
林原は半ば独り言のように呟きながら、奥へと入っていく。正論ではあるが、物分かれているのではなく、透弥の物言いに大半の問題があると主張したいが、ひとまずは黙って成り行きを待つ。
ややして、この部屋のいたるところに積み重なっているのと同じケースに何かを山盛りにして、林原が戻ってくる。
ケースの中から一枚のガラス板を取り出すと、表裏にして見せてから、無造作に場所を空けた机の上へと置く。
「ひとまず、これを窓ガラスとでも思って下さい」
素直に頷いた駿紀に、林原はにっこりと微笑む。
「で、この窓がある場所で殺人が起こったとしますねぇ」
言葉と同時に、いつの間に取り出したのか刃物で指先をちょいと刺してみせる。駿紀が声を出す間もなく、林原の指から滲んだ血が、はたはた、と数滴、ガラスへと落ちる。
ぱたり、と血の滲んだ指をガラスの上に転がした林原は、南無阿弥陀仏、と刃物を持っていた手で拝んでみせてから続ける。
「犯人は、遺体を移動しました」
指を、どけたついでに舐める。どうやら、消毒のつもりらしい。
「血が残っていたら、ここで何かあったことがばれてしまいますから、犯人は、必死で痕跡を消そうとします」
言いながら、ケースから取り出した濡れタオルで、ごしごしとガラス板についた血を拭き取る。
「事件発覚後、隆南さんは犯人の目星をつけました。とすると、犯行現場はここしか考えられません。ところが、現場にはこの通り、一滴の血もついていなければ、争った痕も無い。これは困りましたねぇ」
林原はすっかり綺麗になったガラス板を持ち上げて見せながら、本当に困り顔で駿紀を見やる。
駿紀は、吸いつけられたようにガラスから目が離せない。何をやってみせようとしているのか、なんとなくわかってきた。が、それは、今までの捜査ではあり得ないことだ。
「そこで、コイツの出番ってわけです」
にこり、と微笑んで林原は、またケースから何かを取り出す。小さな薬ビンに噴霧器が付いている。それを軽く吹きつけ、様子を伺ってから、取り出した黒い布を広げ、いきなり放る。
駿紀の視界が暗くなるのと同時に、林原の声が耳に入る。
「神宮司、そっち持って」
「手を抜くな」
面倒くさそうな口調だが、透弥の声は駿紀の背後からだ。いつの間にか回りこんでいたらしい。ついでに、ひょろりとして見えて林原のコントロールは悪くないらしく、きちんと透弥の手に届いたようだ。
暗幕風の布が駿紀の頭に落ちてこなかったのは、周囲の障害物がうまい具合に柱になったからだ。一瞬にしてインスタント暗室の出来上がり、というあんばい。
その中で、はっきりと青白い光を発しているモノが存在している。
間違いない、それはガラス板のあった場所だ。タオルでこすられた形跡すら、うっすらとある。
「血痕、なんだな?」
声がうまく出ずに掠れる。あまりに驚いて、頭が真っ白になりそうだ。
「そうです、消し去ったはずの血がこうして確認出来るんですよ」
さきほどまでとは全く違う、自信に満ちた声での林原の返事の後、ふわり、と布が外される。
だが、まるで金縛りにでもあったかのようにガラス板から目が離せない。
「なかなかのモノでしょう?」
元ののんびりとした口調に顔を上げると、林原は笑みを大きくする。
どう返事をしていいのかわからないまま振り返ると、透弥が軽く肩をすくめる。
「二万倍程度に薄められたものでも反応する」
冷静な声で、自分を取り戻す。確かに、目前で血液が付けられるところを見ていたから血痕だと確信出来る。
が、そうでは無いとしたら?
「血液だというのは、どうやって証明する?」
「ルミノール試薬は生体に含まれる鉄分に反応する。この原理は、学会では発表されて認められているものだ。検事や裁判官の説得が必要なら、学会のその筋の人間を連れてこればいい」
「人間の血液だという証明は?」
「血色素血清沈降法を使う」
駿紀は、まっすぐに透弥を見る。透弥も視線を逸らさずに続ける。
「犯人は完全犯罪のつもりでも、顕微鏡レベルになれば、ほぼ必ず何かを残している」
科研の必要性を真っ向から否定し続けてきたのが捜査一課だ。この目で見た証拠で犯人を上げられると、そう教えられてきた。
が、目前にした事実は、あまりに鮮やかだ。
これが現場で使えるのなら、検証の意義は大幅に変わることになる。
「証拠として、充分に提示出来るレベルだな」
透弥は、口の端を持ち上げる。視線を戻すと、林原もにこやかに頷く。
「まだ試行錯誤のモノも多いし、いかんせん人数が足りないですけどねぇ。まともに立ち上げるなら、実効性の証明が必要なんですよ。なんで、福屋家の事件は不謹慎な言い方をさせてもらえば、おあつらえ向きというヤツです」
けっこう深刻な状況のはずだが、相変わらず林原の口調はのんびりとしている。
「ま、僕はこのくらいが向いてるって気もしてるんですがねぇ。ひとまず、神宮司が協力的なんで助かってますよ」
「目前に提示されているはずの情報を無視する手はないだろう」
感情のこもらない声で、透弥が返す。駿紀は、二人を見比べる。前回、二人で組まされるとわかったなり科研を動かしたのといい、今回の手回しといい、小耳に挟んでたレベルの知故ではあり得ない。
「どういう知り合いなんだ?」
「同期だ。のっけから科研が必要とか抜かして、親の七光りでどうにか偏狭配属で済んだアホだ」
酷い言われようだが、相変わらず林原はにこやかなままだ。
「父は政治家やってるんですよ。たまには役立ちますねぇ」
林原と言われて思いつくのは、次期首相候補と言われるやり手なのだが、その息子だとすると七光りでどうにか偏狭というのも納得がいかなくもない。上層部としては、そんな立場の人間を無下に首にすることも出来ないのだろう。
言っていることが、無茶苦茶としか思えないのだとしても、だ。
にこにこと笑いながら、林原は駿紀にコップを差し出す。
「ま、そんなのは置いといてですねぇ、とても驚いて下さったんで、喉渇いてませんか?お茶いれればいいんですけど、こんなところだと水の方が安心かなぁと思いましてね」
確かに、林原の言う通りだ。ついでに、水もありがたいことなので、素直に礼を言って受け取る。
一気飲みしてテーブルの隙間に置いたのを、林原は端を摘み上げるという、奇妙な持ち上げ方をする。
「やぁ、これはいい感じだな」
言ってから、扉のヒトツを叩く。
「東さん、サンプル採取しましたよ」
ワイシャツにマスクという、少々不可思議な格好をした東が姿を現す。駿紀と透弥がいるのを見ると、軽く頭を下げてから、林原へと向き直る。
林原は、コップを東へと差し出してから、飲み口を指す。
「ここから唾液が、こちらには指紋です」
「わかった。が、唾液の方はまだ人様のサンプルをいただける状況では無い」
淡々と返しながら受け取った手には、手袋がはめられている。
どうやら、ただ親切で水をくれたわけではなさそうなことはわかってきたが、唾液に指紋とは、どういうことだろうか。
そんな駿紀の思考を読んだかのように、透弥が口を挟む。
「サンプル採取にご協力した代わりと言ってはなんですが、指紋検出を見せていただけませんか?」
「ガラスなら、もうお手の物ですよねぇ」
林原も口を添えると、考えたような表情だった東が、微かに頷く。
「まだ、完全とは言えないこともあるが」
軽く手招くような仕草をして、東は部屋へと戻っていく。
それについて入り、椅子に腰かけた東を背後から囲むように覗き込む。
慣れた様子で、脇に置いてあるトレーから灰色のものが入った小ビンを手にすると蓋を開ける。
「近付きすぎないように」
愛想の無い口調に、林原がのんびりと付け加える。
「使うのが、微細粉末なんですよねぇ。吸い過ぎは、少々よく無いでしょう?」
言ってる間に、先ほどのグラスの一部は銀灰色で染められる。その具合を軽く確認して、東は小瓶を大きな絵筆のようなブラシに持ち替える。
軽く、弧を描くように動いた瞬間。
駿紀は、軽く目を見開く。銀灰色の曲線が、はっきりと残っている。
その表情を見て、林原は、にこりと笑う。
「コレが、隆南さんの指紋ですよ」
「指紋?」
「指先の紋様ですよ、よく見ると細い線があるでしょう?これは細かく見ていくと個人個人で異なるんですよ。正確を期すなら、ちょっと表現は変わるけど、まぁ気にし無くていいでしょう。それよりも大事なのは、プリラードでは、すでに証拠として機能し始めてるという事実ですよねぇ」
駿紀は、自分の指先とグラスの上の紋様を見比べる。証拠として機能する?この煩雑な紋様が?先ほどの血の検出とは、話が違う。
「拡大して、照合する。細かい点の特徴は」
静かに口を挟んだ透弥は、そこで言葉を止める。視線を受けた林原が、ヒトツ頷く。
「やってみた方が、早いですねぇ」
楽しそうな笑みが、大きくなる。

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