□ 光露落つるまで □ scintillation-5 □
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薄い隙間から、声が通る。
「何の問題も無いわ。隆南さんと神宮司さんの質問に答えただけだもの」
扉の向こうに控えている二人には、ある意味、鶴の一声だろう。紗耶香が質問に答えたということは、榊紅葉と海音寺寛臣もそうすべきという命令に等しい。
しかも、こちらにも聞こえていると、彼女はわかっていて言っている。
「海音寺、ここ最近の出張先と日程を先方を含めてまとめて頂戴。いつまでに仕上がるかしら?」
少々の間の後、また紗耶香の声がする。どうやら、彼女の声質は特別良く通るらしい。
「そう、榊、お二人に伝えて頂戴。次は榊よ」
ほどなく、榊紅葉が折り目正しい仕草で入ってくる。
「よろしくお願いします」
頭を下げてから駿紀は、先ほどまで紗耶香が座っていた椅子を指し示す。
「そちらにお願いします」
榊は、少しの間、考えてから腰を下ろす。それを見届けてから、駿紀たちも後に続く。
「先ほどは失礼しました」
「いえ」
軽くではあるが頭を下げた駿紀に、榊はほんの微かに戸惑ったようだ。
「職務上必要と判断されたのでしょう」
その言葉には、榊自身の行動の理由も含まれている。その点はお互い様ということだろう。
「先ほど紗耶香様とのお話があった出張の詳細の件ですが、二十分ほどお時間を頂きたいとのことでございます」
「わかりました、ありがとうございます」
駿紀は、質問に入ることにする。
「榊さんに、前回お話を伺ってから、日下部久代さんが倒れた日のことで思い出したことや訂正することなどはありますか?」
ややしばらく、榊は口をつぐんだまま考えに沈む。当日のこととどのように証言したのかを思い出しているのだろう。
当日のほとんどを仕切った彼の証言量は多いから、当然、思い返す時間も長くなる。時折、ほんの微かに視線が動く以外は何も変化しないのは、さすがとしか言いようが無い。
「はい、今のところ、思い当たるようなことはございません」
はっきりと言い切り、榊は、駿紀の目を見つめ返す。
現状の状況では、これだけ訓練された男の証言にブレが出るとは思えない。となれば、別の質問をすべきだ。
「今回の件の前から、天宮さんは警察に対してあまりいい印象をお持ちではないそうですが、理由をご存知ですか?」
ほんの一瞬、その眉がひそめられる。
「そのようなことは」
「理由になりそうなこともですか?」
ややの間の後、榊は静かに頷いてみせる。
「それでしたら、存じ上げております」
「では、それを教えていただけませんか?」
肯定した時点で、問われたことに答えると決めたのだろう。榊はまっすぐに駿紀の目を見たまま、口を開く。
「八年前の、事故の件です」
「八年前の事故というと、紗耶香さんのご両親が亡くなられた?」
「はい」
はっきりとした肯定に、駿紀は首を傾げる。根拠があるとすれば、それだとは思っていたが、やはり理由は見えない。
「それは、どうしてでしょう?」
あの当時、下世話だと思えるくらいの報道があったが、事件性の疑いというのは全く目にした覚えが無い。
「事故当時は、私はまだお仕えしておりませんでしたので、伝聞で申し訳ございません。紗耶香様は、直通様は睡眠薬を常用されていたことは無い、とおっしゃっておられたそうです」
さすがに、詳細の記憶は駿紀には無い。まだ警官になる前のことだ。が、そういう表現になるということは、だ。
「警察が、まともに取り合わなかったわけですか」
「日下部様と父の証言がございましたそうです。物的な証拠もあったとのことで」
厳然たる事実と大人逹の証言の前に、少女の言葉は希望に過ぎないと片付けられたのだろう。どんな言葉で否定されたのかは想像する他無いが、紗耶香の心の中に刺が残っていても不思議では無い。
証拠まで出たとなると、当時の捜査に落ち度があったとも思い難い。今のところ協力的であることだし、心にとめとく程度でいいはずなのだが。
ちら、と隣を見やると、透弥は手帳に視線を落としたままだ。それでいて、口を開く気配は無い。
まだ、訊くべきことがあると透弥も考えているわけだ。
「直通氏が睡眠薬を常用しているのを知らなかったのは、紗耶香さんだけだったのでしょうか?」
「いえ。直通様は、父にも隠していたそうです」
榊の視線が、微かに揺らぐ。
「では、どうやって睡眠薬を飲んでいたのを知ったのですか?」
「あの事故の日、書斎のごみ箱に空が捨ててあったそうです」
これ以上、伝聞での証言を取り続けても仕方あるまい。透弥もペンを置くのが視界の端に見える。
「そうですか、ありがとうございます。今のところは、ここまででけっこうです」
一緒に立ち上がった駿紀たちへと、榊は執事らしい控えめな視線を向ける。
「海音寺様をお呼びいたしますか?」
「はい、お願いします」
頷き返すと、過不足無い角度で頭を下げる。
「かしこまりました」
榊の姿が扉の向こうに消えてほど無く、規則正しいノックの音と共に海音寺が姿を現す。人好きのする笑みと共にテーブルのこちらへと歩み寄ったかと思うと、す、と小さな紙片を差し出してくる。
「天宮財閥の海音寺と申します。よろしくお願いいたします」
差し出された名刺と折り目正しい挨拶に、駿紀も相応のおじぎを返す。
「すみません、今は名刺を切らしてまして」
「それは残念です」
本当に心底残念そうだ。なるほど、木崎班の事情聴取の際、天宮紗耶香が一切口を開かなかったからくりが見えてきたような気がする。
悪意無く己のペースへと持っていってしまう海音寺に、場を持っていかれてしまったのだろう。ベテラン刑事たちがその調子なのだから、海音寺の力は推して知るべしというところだ。
透弥へと名刺を差し出した海音寺は、彼も名刺を差し出さないと気付いて、更に残念そうな顔つきになる。
「新しい部署に移動したばかりで、印刷が間に合っていないんです」
駿紀の言葉に、海音寺はにこやかに頷く。
「そうだったのですか。いや、半ば趣味なのでお気になさらないで下さい」
告げてから、反対側へと回る。どうすベきかは心得ているらしいので、先ほどまで榊が腰を下ろしていた椅子を示す。
「どうぞ」
相対すと、すぐに封筒を差し出してくる。A6サイズ用だが、妙に厚みがある。
「ここ最近の総帥の出張日程です」
榊から二十分との伝言はあったが、本当にしてのけたらしい。
「ありがとうございます」
早速、駿紀は中身を取り出してみる。
「手帳のコピーですので、悪筆は目をつむって下さい」
「いえ、十分にキレイですよ」
別にお世辞で言っている訳ではない。急いで証言や現場状況をメモした自分の字と比ベたら、ずっと読みやすいと目にしただけでわかっただけだ。
下半分を透弥へと手渡してから、駿紀は、ざっと目を通してみる。
「ものすごい過密スケジュールですね」
毎日、分単位で組まれているといっても過言ではない。それなりに予定変更もあったようだが、入れ変わりようは複雑なパズルだ。この全てを管理している海音寺という男は、相当な切れ者と言えるだろう。
それはそうとして、だ。
「この、時折、消してあるのは何でしょう?」
手にした紙自体では、ぽっかりとした小さな空間なのだが、形状からいって元のには修正液が乗っているはずだ。
視線を上げて海音寺を見やると、彼は肩をすくめてみせる。
「修正をかけた箇所のことでしたら、そこは個人的な所感です。ひとまずは勘弁してください」
今のところはどこで誰と会ったのかがわかればいい。本当に消されているのが個人的所感だけなのか、それが必要かどうかは、これを読み込んでみないことには判断不可能だ。
「読み物としては、あった方が面白いですが」
今はこのままで構いません、という言葉を飲み込んで、駿紀は隣を見やる。面白いという単語とは裏腹な平坦な声で言ってのけた透弥は、手にしていた一枚を駿紀へと差し出す。
手にしてざっと視線を走らせていくと、某国の首相の似顔絵が登場する。不謹慎といってしまえばそれまでなのだが、なんとも上手く特徴を捉えている上に脇に添えられているメモの辛辣さが面白い。思わず吹き出しそうになったのを堪えて、視線を上げる。
「なるほど」
「消し忘れてましたか、これは参ったな」
海音寺は、さほど困って無さそうに苦笑を浮かべてみせる。
「まぁ、さすがにそういうのを全て公にするのは辛いので」
「残念な気もしますが、そうですね」
笑みを返してから、軽く姿勢を正す。これだけの過密スケジュールの合間に、会った人物についての特徴を捉えられるのだから、かなりな人物鑑識眼を備えていると見ていい。
「海音寺さんからご覧になって、日下部徹という人はどんな人物でしょう?」
「日下部徹氏ですか?」
名前をおうむ返しにして、海音寺は少々困った顔つきになる。
「どうしました?」
「率直に申し上げると、お二方にどう思われるやら、とは考えてしまいますが、まぁいいでしょう」
小さく肩をすくめてから、一気に言う。
「私から見て、一言で申し上げるなら、厄介な人物ですね」
「厄介な、とはどういう意味ででしょう?」
「財閥を運営する立場から、という意味です。事業には興味はないが、金はあればあるほどにいいと知っている」
言いたい意味は、すぐにわかる。
「経営自体はどうでもいいが、その地位にいれば金が入ると知っている、というわけですか」
「そういうことです」
海音寺は、率直に頷いて駿紀を見つめる。
「だから、要職に就き続けていた、と?」
「あくまで、私個人の私見ですが」
もう一つ、確認を入れておかなくてはなるまい。
「日下部徹さんは、海外などには行かれていたのでしょうか?」
「行かなくてはならない時でも、避けていましたよ。付け加えるならば、国内でもですね」
苦笑とともに、海音寺は肩をすくめてみせる。経営に興味はないどころか、その職に居据わられるのは確かに迷惑な存在であったらしい。
「ありがとうございます。今日のところは、これで結構です」
実質、日下部徹のことしか尋ねられていないことに戸惑ったのか、数回瞬きをする。
「お仕舞ですか」
「ええ、お忙しいところご足労いただきましてありがとうございました。また、お話を伺うこともあるかと思いますが」
立ち上がりながら、海音寺は入って来た時と同じ笑みを浮かべる。
「いえ、色々とはっきりさせなくてはならないお立場なのは存じ上げてますから。必要となれば、いつでもお声をかけて下さい」
扉を開けると、見事なタイミングで榊を従えた紗耶香が姿を現す。
「お忙しいところ、迅速にご協力いただきましてありがとうございました」
駿紀たちが頭を下げると、紗耶香は小さな笑みを浮かべる。
「いえ、こちらの事情を理解していただいて、感謝しています」
言葉とともに、丁寧にお辞儀を返される。
連絡先等の確認を済ませてから、屋敷を辞して門を出る。
「さて、と?」
駿紀が透弥を見やる。
「隆南はどう思ったんだ」
先ずは自分の意見を述べてから人に訊けというのがありありとした口調で、透弥が返す。
「ありゃ、排除するのに自分の手を汚すタイプじゃない。やるなら、正々堂々と真正面から追い落とすな」
「本人がそうでも、周囲はどうなんだ」
「執事と秘書が絶対服従だってのは確かだけど、盲目的に手を汚すタイプじゃないだろ」
そこまで言ってから、透弥を見やる。
「で、神宮司はどうなんだよ」
「少なくとも、天宮紗耶香と日下部徹は二人の死に大なり小なり関わっている」
言うことを聞いていたのかいないのかわからない言葉に、駿紀は唇を尖らせる。
「どうして天宮紗耶香が自分の親に手をださなきゃいけないんだよ?」
前を向いていた視線が、駿紀へと戻る。
「どちらも彼女が手を出す理由が無いのなら、違う方だろう」
その見方は、駿紀と同じだ。が、それには大きな問題がある。
「おあつらえ向きだかなんだか、確かに日下部徹は前歴が看護士で、未だに病院と繋がりがある。でも、今回の死因をどうやって誘発したかの説明にはなってない」
結局のところ、何が要因で日下部久代が死んだのかがわからなければ、誰が犯人であろうと追い詰められない、という状況に変化は無い、ということだ。
「もう一度、扇谷さんに会ってみるしかないだろう。正岡さんもいれば、少なくとも今回上げられた三十五カ国から出てくる物質が関係する可能性があるかどうかは判断可能だ」
胡散臭いと向ける視線がずれかかってるとはいえ、それは必須だ。
「だな、まさにおあつらえ向きに」
曲がり角の先に見えた公衆電話を駿紀が指すと、透弥は軽く肩をすくめて先に立つ。
いくらかのんびりと歩いて、電話ボックスへと追いついて。
覗き込んだ駿紀は、いくらか目を見開く。透弥の口元が、なにやら早口に動いている。ただ、来訪を告げるだけのものではないのは、一目瞭然だ。
数分の後、出てきた透弥は、駿紀をまっすぐに見やる。
「日下部久代の遺体から、微細な出血痕が発見された。死亡前数時間内のモノだ」
一課出身の駿紀には、何が言いたいのかすぐにわかる。
「注射か、遺体のどの部分から?」
「いや、そこまでは。詳細は行ってからだ」
どちらからともなく、早足になる。
出血痕が発見され、毒薬の権威がいてくれるとなれば。
駿紀の足は、更に速くなる。

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