□ 光露落つるまで □ scintillation-7 □
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目前の警察手帳に驚いたのか、それとも不釣り合いな笑顔に飲まれたのか、受付の彼女の目は丸くなったままだ。
「ええと、あの?」
「お仕事中に申し訳ありませんが、少々お話を伺えるとありがたいのですが」
相変わらずの笑顔のまま透弥が言葉を重ねると、彼女はこくこくと何かに操られるように頷く。
さすが脊髄反射フェミニスト、などと手帳を取り出しながら駿紀は思ってしまう。昨日のカフェで注文する時に担当の女の子を別の意味で凍らせてるのを見て改めて効果絶大だと思ったのだが、案の定だ。
たいていの人に敵意を抱かせない自信はあるが、ここまで最初からこちらのペースに巻き込むのは透弥にしか出来ないだろう。無論、女性限定ではあるけれど。
昼休みに入ったばかりの診療所は他に外野はおらず、話を聞くにはうってつけだ。
「日下部徹さんがこちらにお勤めですよね」
確認の言葉に頷いてから、彼女は慌てて付け加える。
「あ、あの、正確にはアルバイトなんですけど。元々はここの看護士さんで、とてもいい人ですよ。お年寄りの相手がとっても上手くて」
「お年寄りですか」
透弥が柔らかく尋ね返すと、彼女は嬉しそうに頷く。
「ええ、透析の方とか糖尿病の方とか。とても優しく話を聞いてくれて」
「そうですか、ありがとうございます」
返す透弥の笑みが、少し大きくなる。
「院長にお会いしたいのですが」
「あ、はい。少々お待ち下さい」
弾かれるように立ち上がって奥へと小走りで行く彼女を見送ってから、駿紀は透弥を見やる。
「糖尿病、ね」
透弥は無言で、診察室の札を掲げた扉を見やる。
出てきたのは、初老の男性だ。どうやら、彼が院長という立場であるらしい。
「警察の方だそうですが……?」
戸惑いと警戒を宿した目が、二人を交互に見やる。
「ええ」
肯定しつつ、警察手帳を提示する。
「あの、どんな御用でしょうか?当院は警察の方がいらっしゃるようなことは何も」
「そういうつもりで来たわけではありません。ただ、少々、薬品管理簿を確認させていただけないかというお願いにあがりました」
透弥の静かな言葉に、院長は一瞬、口を引き結ぶ。
「それは、患者のプライバシー公開に繋がりますので、承服しかねます」
力強い言葉に、駿紀が苦笑を浮かべる。
「ええ、そのご心配はごもっともです。情報の取り扱いには充分に留意しますので、そこを曲げてお願い出来ませんか?」
建前上、病院の薬品管理は厳密に帳簿に記す、ということになっている。薬品名、使用量、処方箋発行者、薬剤師、患者と細々したこと全てをだ。
当然、医師の立場としては警察手帳を示されたくらいで開示出来るものではないのは、充分に承知している。が、その中身がわからないと、捜査が進まないのも事実だ。
「お断りします」
院長は、どこか頑なな口調で繰り返す。
駿紀と透弥は、どちらからともなく視線を見交わす。ただ患者のプライベートを守るというには、妙に頑な過ぎる。
「やましいことが無いのでしたら、必要部分だけを確認させていただくことに問題は無いのでは?」
「ですから、それが個人情報漏洩になると申し上げているんです」
先ほどよりも、少々大きな声だ。まるで駿紀の声に被せているような。
「日付限定でも、でしょうか?」
「日に何人の患者を扱ってると思っているんですか?捜査令状があるというのならともかく、そうじゃないのならお断りです!」
言い切った院長の顔を数秒眺めてから、駿紀は小さく肩をすくめる。
「捜査令状を提示して調べさせていただいた場合、どうなるかご存知ですか?こちらが必要としたものは押収というカタチにせざるを得なくなりますし、そこにこちらが探している以上の不備があった場合には……」
「言ったでしょう、捜査令状が無ければお断りです!」
微妙な雰囲気の沈黙が落ちる。
院長は、無言のまま自分を見つめる二人の刑事を、交互に見やる。諦めろ、と視線が告げている。
小さくため息をついたのは、駿紀だ。
「捜査令状が無くてはどうしてもダメですか?」
「何度言わせるんですか、先ほどから何度も」
駿紀が大げさなくらいに肩をすくめたのに、院長は言葉を途切れさせる。
「何がなんでも、捜査令状が必要だそうだ」
「そのようだな」
透弥も頷き返すと、無表情に胸ポケットへと手を入れる。
「薬品管理簿及びカルテに虚偽記載が存在する疑いで捜査させていただきます」
ひらり、と開かれた白い用紙に書かれた文字を示されて、院長は目を見開く。
「全ての薬品管理簿とカルテがある場所へ案内していただけますね」
静かだが、きっぱりとした透弥の冷たい目に射抜かれたように硬直している院長を見て、駿紀は微苦笑をうかべる。
「ですから、警告したでしょう?必要なものは押収させていただきますので、そのつもりで」
足が吸いつけられたようにいつまでも動かないので、透弥が先にたって歩き出す。
「あ、待って下さい!大事にはしないで下さい!」
先ほどまでとは全く異なる懇願の声に、駿紀は顔を逸らして舌を出す。
さっさと協力していれば、こういうことにはならなかったのに、と。

薬品管理簿とカルテを付き合わせていた駿紀は、眉を寄せる。
「とんだクソヤロウだ」
別の薬品管理簿に視線を落としていた透弥が、目で何事かと問う。
「やたらとインシュリンを紛失したことになってる患者が数人いるんだけどさ、皆、日下部徹の管理下なんだよ。しかも、少々の記憶障害、悪い言い方すりゃボケが始まってるのを狙って選んでる」
「少なくとも、日下部徹がインシュリンを多量に持ち出していることだけは証明出来るなら、問題ない。それよりも、死亡患者がいないかの確認が必要だろう」
冷静な返答に、駿紀の眉がますます寄る。透弥の言葉が気に食わなかったのではない。充分にその可能性があると思ったからだ。
天涯孤独な老人に取り入り、気に入られれば、何がしかを残してもらえるようになるかもしれない。そして、日下部徹が望む時に老人が亡くなっている可能性はゼロでは無い。持病のある老人が不意に倒れても、不審死を疑う人間はそうそうはいない。
ためらい無く日下部久代にインシュリンを注射したとしか思えない状況を考えたら、予行演習に類するものが存在いていない方が不思議かもしれない。
本音を言ってしまえば、検挙するほどの虚偽記載があると思っているわけではない。製薬会社の方でも厳しく在庫はチェックされている仕組み上、ほんの少量ならばともかく、そこそこの量になったら誤魔化しようが無いのだ。もしそんなことをしていれば、この診療所はとっくに摘発されている。
「そちらはどうだ?」
イライラと薬品管理簿をめくりながら、尋ねる。
かなり古そうな薬品管理簿を繰っている透弥は、平坦な声で返す。
「日下部徹は、天宮直道は睡眠薬を常用しており、それを頻繁に届けていた、と証言したんだな?」
「ああ、はっきりとそう証言してたよ」
診療所に行く前に、念の為捜査令状を取ると決めた時点で、事故調査にもあたっておくことにしたのだ。
特にその付近を詳細に読んできた駿紀は、今すぐならいくらか暗誦も出来る自信がある。
「榊紅葉は、っと先代の方だけど、当日にゴミ箱から睡眠薬の空き容器を見つけて、飲んでいたことを知ったそうだけど」
事故調査をあたって知ったのだが、天宮家の執事は代々榊紅葉であるらしい。理由はともかく、こちらにとってはややこしいことこの上ない。
「それで先代榊紅葉は、天宮直道が睡眠薬を飲んでいることを隠していた、と判断したわけだ」
駿紀の言葉に、透弥は皮肉に口の端を持ち上げる。
「先代執事は、己の主の子の言葉より、日下部徹の言葉を信じた、か。執事は、あの日以前に睡眠薬の痕跡を発見したくとも出来なかったようだがな」
「ってことは?」
「爪が甘すぎる。睡眠薬を持ち出したのは、事故の三日前一回だけだ」
日下部徹は、天宮直道の睡眠薬常用を証言しただけでは無い。それを渡していたのは自分だと、はっきりと言っているのだ。
あからさまな証言の矛盾が存在している。
「なんで裏取らなかったんだよ」
透弥に言っても仕方ないのだが、駿紀は、つい手にしていた薬剤管理簿を机に叩きつけてしまう。
「天宮直道の体内から睡眠薬が検出されたという動かせない事実の存在、看護士である日下部徹と忠実な執事の証言で、事実が出揃ったと判断したのだろう」
「天宮紗耶香の証言は完全に無視されたってわけか。見損ないすぎだろ?!事故という名の殺人で親を奪われたんだぞ!」
自分の両親だってそうだ。謀殺では無いにせよ、飲酒して逆走してきた車と正面衝突した。相手に反省があるとか、保証金の額とか、そういう問題ではないのだ。
薬剤管理簿に視線を落としたまま、透弥が返す。
「十五歳の深層の令嬢が口を開いて、いきなり信じられる人間はそうそういない、という証左だ。八年前の交通課に文句を言ってもどうにもならん」
冷静な口調はまるで冷ややかな水のようだ。駿紀は深呼吸をする。
「まぁな」
交通事故で両親を失った、という事実のせいで、どこかで自分と重なってしまったのだ。感情的になりすぎてしまったら、捜査にならない。
「悪い」
八つ当たりしたも同然なのに気付いて、謝る駿紀に、透弥はほんの少しだけ肩をすくめて視線を上げる。
「時間をかけるわけにはいかんが、裏は取らなくては」
「まぁな、これだけじゃ薬品管理簿とカルテの矛盾だけだ」
言いながら、いくつかのカルテを取り出す。
「日下部徹の担当患者で、突然死っぽいのは三人だ。でも、今更解剖する遺体も無いし、どうするよ」
「死亡時の状況がはっきり判明すれば良しとするしか無い。裏は日下部久代に取ってもらう」
透弥が言わんとしている意味は、駿紀にもすぐにわかる。
「先ずは、国立病院に戻る、だな?」
小さく透弥の口元に笑みが浮かぶ。



駿紀たちの報告を受けた扇谷と正岡は、どちらからともなく顔を見合わせる。
「症状と状況からいって、インシュリンによる低血糖というのは間違い無さそうだな」
「反対する理由は無いですけどね。でも、血液中からは何も取り出せず、右心室と左心室の血糖値は正常と来たら、どう証明します?」
会話の意味がわからず、駿紀は首を傾げる。
「それは、どういうことです?」
「低血糖ならば、最低でもどっちかの血糖値が低くなってておかしくないってことだよ」
扇谷が言って、眉を寄せる。
「これはかなり厄介だな。相手さんは血液中にインシュリンが残らないとわかってやっているのだろう」
「そうとしか考えられないですねぇ」
正岡も言って、くせっ毛をかき回す。無精髭が伸びているところを見ると、昨日は帰らなかったのだろう。それでも、インシュリンの存在は証明出来なかった、ということになる。
「ったく、症状以外はどこもかしこも正常な遺体なんて」
言いかかったところで、ぴたり、と止まる。
「ん?ちょい待って、オーギダニセンセ、ホトケさんは溺死ですよねぇ?」
「ああ、って、ああ!」
思わず目を見開いた扇谷に、正岡は力強く頷く。
「そうそう、かなり前のにありましたよ」
「そうだ、溺死なら、右心室の血糖値が異常に高い数値でなければ」
駿紀は透弥を見やる。
日下部久代が低血糖だったというヒトツの証拠が上がったように思ったのだが、イマイチはっきりと掴めなかったのだ。
透弥は、二人をまっすぐに見詰めたままだ。
「それは、糖尿病患者ではなく、ですか?」
「当然。統計取ったのがいたよ、そうだ、ソレだ。ホトケさんの左右心室の血糖値が同一ってのはオカシイんだよ」
興奮して、正岡はしきりに頷いている。駿紀は扇谷を見やる。
「こういうことだよ。健常者が溺死する際、身体は死と必死で戦う為に、肝臓からあらん限りの糖が分泌されるんだ。結果、溺死した人の右心室には大量の糖が残ることになる。ところが、日下部久代は溺死に関わらず、左右心室の血糖値が同一だ、ということは」
「低血糖だった」
駿紀の言葉に、正岡が大きく頷く。
「そう、タカナさん、その通り!」
「ですが、それは低血糖の証明にしかなりません」
ごく静かな透弥の声に、扇谷が難しい表情で頷く。
「そう、それが問題だ」
が、正岡は全く気にする様子は無い。
「いやいや、それは内臓やら血液の話でしょ?そう簡単に諦めるってことも無いと思うねぇ」
にい、と口が裂けるんではないかと思うほどの笑みを浮かべてみせる。

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