□ 光露落つるまで □ scintillation-8 □
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不気味なくらいの笑みを浮かべている正岡に、扇谷は難しい視線を向ける。
「筋肉組織は乳酸のせいで酸性だから、インシュリン残存の可能性があると言いたいのだろうが」
「わかってますよ。運良く残存物があったとしても、その組成がインシュリンと直接証明する方法は存在しないってんですよね」
相変わらず、正岡の顔には笑みが浮かんだままだ。
「比較実験しかないでしょ。上手くいけば、破壊検査も出来ますよ。限りなくインシュリンに近く、インシュリンと同等の働きをする物質ってなら、検事も文句無いでしょ?酸性中なら長期保存が充分可能なんだし、注射痕から何か抽出しろってより、ずっとタチがイイじゃないですか」
一気にまくし立てる正岡の強気の発言に、扇谷の顔にも笑みが浮かぶ。
「ぐずぐずしている暇があったら、抽出した方がいい。よし、ともかくやってみよう」
扇谷と正岡は、勢い良く立ち上がる。
「抽出後の比較までするから、時間は少しもらいたい」
「はい、よろしくお願いします」
駿紀と透弥は、頭を下げる。



駿紀は、隣を横目で見やる。
「詐欺師の才能あるよ、ホント」
下らない、というように透弥は眉を寄せたまま、口を開く気は無いらしい。
「三軒とも、いともあっさりだぞ」
信じられない、と駿紀は呟くように続ける。
先ほどまで回ってきた、日下部徹が関わった患者のうち、状況が怪しまれるような突然死をした老人のヘルパーたちの反応のことだ。
捜査に向かう前、いきなり、お宅が面倒見ていた方が殺された可能性があります、なんて言ったら物騒極まり無い、と駿紀が言うと、透弥は、無駄に煽る必要は無い、と同意した。
そして、さらりと付け加えたのだ。
聞き取り調査とでも言えばいい、突然死の状況把握を進めています、でもなんでも、言いようはいくらでもあるだろう、と。
目と口を丸くした駿紀は、他にいい案を思い付くことが出来ず、そのままそれでいくことになった。
で、結果はこれだ。
あっけないくらいに、どの相手も納得してくれ、可能な限りの情報を提供してくれた。
「手帳あるからったって、簡単過ぎだろ」
あまりの効果絶大さに、半信半疑だった駿紀は乾いた笑いを抑えるので精一杯だったのだ。
「言っておくが、実際にやったのは隆南だ」
透弥が、面倒そうに口を挟む。
「それじゃ、俺に詐欺師の才能があるみたいじゃないか」
いくらか唇を尖らせて返してから、はた、とする。
「いや、思い付かないから無理だけど」
いつまで、聞き出した方法にこだわっていても仕方が無いし、このままではまた、一人漫才と言われそうだ。
「ともかく、カルテには瞳孔散大としか無かったけど、死亡前には皆、脱カなり嘔吐なりの症状が出てたってのがわかったわけだ」
それは、日下部久代と同じ症状だ。
「皆、多かれ少なかれ日下部徹に世話になったと感じており、少なくない額の金銭を残した」
平静な声で、透弥が付け加える。
遺体が残っていない以上、何の証拠も出すことは出来ない。ただ怪しいだけだ。
「でも、今回の件が無けりゃ、疑いすら抱かれなかったよな」
小憎らしいとしか言いようが無いのは、日下部徹が慌てた様子が無い、という点だ。患者たちは、十分な間を開けて亡くなっている。
それだけ慎重を期していたということの現れで、持病持ちの老人が突如倒れたことに、病人の相手には慣れているヘルパーたちすら、不審に思わなかった。
「そうとう掴まなきゃ、びくともしなさそうだよな」
「落ち着ついているのは、尻尾を掴まれないという自信があるからだ」
駿紀は隣を歩く透弥を見やる。
「でも、疑いをかけられてるってわかったくらいでは、揺さぶられない」
「挙げるには、確実な証拠が必要なことに、変わりは無い」
前を見たまま、あっさりと言い切る透弥に、駿紀は肩をすくめる。
「お説ごもっとも」
視線を前に戻した途端、視界に入ったものがある。
「アレがそうかな?」
指差した方を、透弥も見やる。純和風の住宅にしか見えない門の前に、喫茶の看板が出ている。
「そのようだな」
住宅にしては大きめの扉を開くと、中はコーヒーショップそのものだ。
「いらっしゃいませ」
カウンター向こうから静かに声をかけてきたのが店主らしい。それへと軽く頭を下げてから、視線を走らせると、奥の席から立ち上がり、丁寧に頭を下げる人がいる。その物腰と目元で、昨日会った榊紅葉の血縁者と一目でわかる人物へと、駿紀たちも頭を下げ返す。
待ち合わせと理解した店主は、注文をいただければ、お運びしますよ、と声をかけてくれる。
其々に選んでから、先代天宮家執事の前へと行くと、再度、深々と頭を下げてくる。
「ご足労いただきまして、申し訳ございません」
「こちらこそ、急なお願いを快くきいていただき、ありがとうございます」
頭を下げ返してから、名前を名乗って腰を下ろす。
初老の先代執事は、ほとんど感情を感じさせない瞳で二人を見つめる。
「直道様と恵美子様の事故の件と伺いましたが」
「ええ、榊さんがご存知のことを、伺えないかと思いまして」
駿紀の言葉に、榊の顔に、ほんのかすかに戸惑いが浮かぶ。
「私の知っていることでしたら、調書に全て書かれていると存じますが、何かご不明な点でもございましたでしょうか?」
「ああ、いえ。そういうつもりではないんです。ただ、調書はどうしても文字なものですから。もう一度、榊さんの言葉で伺いたいんです」
引退したとはいえ、主からの命にも等しい依頼だ。榊にとっては、その点に否やは無いのだろう、静かに頷き返す。
「はい、そういうことでしたら」
「では先ず、事故当日のことをお話いただけますか?目にしたことなど、事実に絞ってお願いします」
八年前とはいえ、忘れようの無い出来事だったのだろう。隅々まで、丁寧に再現されていく言葉は、調書で読んだ通りだ。
先代総帥夫妻にとって随分と久しぶりの休日だったこと、客には会わないと周囲に告げてあったにも関わらず、日下部夫妻が朝も早くから姿を現したこと、ややしばらくの話の後、どうにか帰って行ったこと。
その直後、夫婦だけでドライブに出かけたまま、帰らぬ人となったのだ。
事故の連絡が入った時間まで、先代執事は正確に思い出してみせる。
「ありがとうございます。ところで、記憶力には自信がおありですか?」
問われて、榊はほんの小さく口元に笑みを浮かべる。
「自信を持ついうほどではございませんが、仕事上、記憶力は良いに越したことはございませんでした」
「特に、主の生活習慣などは、ですね」
重ねての確認に、先代執事は目を伏せて頷く。
「そのように努めたいと思って参りました」
「榊さんの記憶する限り、事故前日までに、天宮直道氏が睡眠薬を口にするところをご覧になったことはあったでしょうか?」
視線を上げた榊は、駿紀の質問の意味を正確に受け取る。
「ございません」
「恵美子さんから、直道氏が薬を飲んでいると聞いたことは?」
「ございません」
揺ぎ無い、はっきりとした返答だ。
「秘書や、使用人からは」
「ございません」
「睡眠薬を飲んだという形跡を見つけたことは?」
「ございません」
あれから、何度も思い返したはずだ。形跡を見逃さなかったか、誰かの言葉を聞き漏らさなかったか。
当時よりも、この点の記憶は整理され、再確認されていても不思議は無い。
「では、事故当日、直道氏が睡眠薬をお飲みになったのを、ご覧になりましたか?」
「いえ、見ておりません」
微動だにせず、まっすぐにこちらを見つめたままの榊に、駿紀は一呼吸置いてから質問する。
「朝から、直道氏が出かけるまでに、口にした飲み物を覚えておられますか?」
榊は少し考えてから、訊ね返す。
「それは、グラスやカップに注ぐものに限定されますでしょうか?」
「先ずは、それでお願いします」
駿紀の答えに、思い出そうとしているのか、いくらか榊の視線が遠くなる。
ややの間の後、す、と息を吸う。
「起きられてから、すぐに水をグラスに一杯、朝食の時に緑茶を小さめの湯飲みに二杯、それから日下部様と書斎でお話された時に、コーヒーをカップに一杯でございます」
よく、これだけすらすらと出てくるものだと駿紀が感心してしまっているところへ、頼んだコーヒーが運ばれてくる。丁寧にいれられたそれは、いい香りだ。
何かを加えてしまうのはもったいないな、と思いながら駿紀は口にする。
カップを置いてから、思いついて訊ねる。
「コーヒーには何か加えましたか?」
「あの日はお運びした後、辞しておりますので正確なことは存じません」
「通常は何か?」
「お疲れの時に、少々砂糖を加えることがございましたが、普段は何も入れずに飲まれていらっしゃいました」
ここらは執事ならば絶対把握している範囲だ。
「事故当日は、榊さんからご覧になって、直通氏の疲労はどうだったでしょう?」
「前日の夜にもコーヒーをお飲みになりましたが、砂糖を入れるほどではございませんでした」
何となくだが、奥歯に何か挟まったような煮えきらないモノが含まれたように感じて、駿紀は首を傾げる。
「当日は?」
重ねて問われて、先代執事は、少し困ったように眉を寄せる。
「あくまで、私の主観でございますが、日下部様方がいらっしゃった時に、お疲れが増したようにお見受けしました」
「どっと疲れる、という感じですか?」
「はい」
榊は、相変わらず困ったような顔のままだが、はっきりと頷く。事実をと告げられたにも関わらず、主観が伴う質問をされたからだろう。が、日々の観察というのは馬鹿に出来ないものだ。たった一度の事実から類推してモノを言うのとは次元が違う。
「直道氏ですが、当日は朝以外は水は口にしていないんですね?」
「はい、ございません」
「薬を、水以外で飲む習慣は?」
一瞬の間の後、榊の目が驚愕に見開かれる。
「ございません」
いくらか掠れた声だが、答えは明瞭だ。
駿紀は隣を見やる。透弥が、静かに手帳を閉じる。
「今日のところはこれで充分です。ありがとうございます」
頭を下げられて、先代執事も我に返ったようだ。
「いえ、お役に立ったのなら幸いでございますが」
「充分に。申し訳ありませんが、今日質問させていただいたことは他言無用にお願いします」
榊は、軽く頭を下げてみせる。何か問いたそうな目だったが、口を開くことはしない。
駿紀たちの問いが、どういう意図でなされたのかは理解した。が、それが事実かどうかと、今尋ねてもせんないこととわかっているのだろう。
挨拶と精算を済ませ、外に出る。
先代執事が去っていく後姿を見送ってから、駿紀たちはどちらからともなく歩き出す。
「こっちも、クロだな」
駿紀の言葉に、透弥は目を細める。
「動機は?」
「そりゃ、なんか金絡みじゃないのか?そうだな」
言いかかって、目を丸くする。
「もしかして」
透弥を見やると、不機嫌そうな視線と目が合う。
「恐らくな」
運転する直前の人間に睡眠薬を飲ませたなら、明確な殺意があると見ていい。その要因となりそうなことといえば。
「八年前に先代総帥が行おうとしてたことを、天宮紗耶香がやってのけたってか?」
「類推でしかないが、近いだろう」
駿紀は、思わず降参のポーズだ。
「次は先代秘書ってか?それやったら、絶対」
「洗い直していると、誰もが確信する」
「でもま、やるしかないな」
ここまできたのだ、はっきりさせなくてはなるまい。



財閥の方に連絡を入れると、海音寺は楽しそうな声になる。
「先代総帥の秘書室長ですか。ええ、すぐに連絡をお取りすることが出来ますよ。場所などのセッティングはご入用ですか?」
立て板に水で、あっさりと請け負ってくれる。執事と違って血縁ではないからどうかと思われたが、問題なく相手は見つかりそうだ。
場所は指定した先に行くということ、時間は出来うる限り早い方がいいということ、そして再度の連絡は三十分後にこちらから入れることを伝え、駿紀は受話器を置く。
「そっちはどうだ?」
国立病院に連絡を入れていた透弥が、ほぼ同時に隣の公衆電話から出てきたのだ。いくらか細くなった視線が、駿紀へと向けられる。
「インシュリン、もしくは同等の作用がある薬品と言い切れるだけの結果が出た」
駿紀は、低く口笛を吹く。
「じゃ、また行きますか」
「ああ」
あっさりと透弥も頷き、二人は足早に歩き出す。

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