□ 光露落つるまで □ scintillation-9 □
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昨日までの雲の厚さが嘘のような晴天を見上げて、駿紀は唸る。
「なんだって今日、梅雨が明けるかなぁ」
「夏空だというだけで、梅雨が明けたとは決まっていない」
妙に平坦な声で返してきたところをみると、透弥もこの暑さに閉口しているらしい。
なんせ、ネクタイをきっちりしめて、上着までも着込んでいるのだから、どうしようもない。
「何だってこんなことになったかなぁ」
「隆南が動物だからだ」
透弥にきっぱりと返されて、駿紀は眉を寄せる。
「何で俺が動物」
「変だと判断したのは隆南だ」
「たまたま電話に出たのが俺だっただけだっつうの」
駿紀は唇を尖らせる。
昨日、再度海音寺に連絡を取ってみると、今日の午後に天宮邸で、と指定された。
扇谷と正岡は比較実験と破壊実験で日下部久代にはインシュリン、もしくは同等の効果のある薬物を投与された、というところまでは証明してくれていたが、細かいツメはまだだった。
なので、予定としては国立病院の扇谷研究室に寄ってから、天宮の屋敷に行くことになっていた。
が、今朝、榊紅葉から急に電話が入ったのだ。
「今すぐにしていただけないかと、主が申しております」
今すぐへの予定変更はともかく、話をする相手は先代総帥秘書だ。天宮紗耶香自身が言ってくるのは筋違いではないかとか、場所を提供してくれているのだから彼女の意見が最優先なのかもしれないとか、そういうのを通り越しておかしいと感じたのだ。
背後から何か聞こえたわけではないし、執事の声がおかしかったわけでもない。
でも、変だと思った。
それを透弥に告げた結果、夏空にスーツをかっちり着込んだまま歩く、ということになったわけだ。
「仕方ないだろ、おかしかったんだから」
言い訳するように、もう一度言ってから、駿紀は隣を見やる。
「神宮司、本当に暑いのか?」
何を当然のことを、という視線が、駿紀へと向く。
「だって、汗、かいてない」
顔をちょいと指差すと、不機嫌そうに眉が寄る。
「顔にかいていないだけだ」
「本当かぁ?」
疑わしそうに駿紀は目を細めてやるが、透弥は面倒そうに視線を前にやってしまう。今、上着を脱ぐわけにはいかないので、駿紀にもそれ以上なにか言えることはない。
「肩こるなぁ、もう」
ともかく、なんかしゃべってないと頭が朦朧としそうだ。透弥はしゃべるのも面倒そうに口をつぐんでいる。
「もう、渡したらダメか?」
「断る」
きっぱりと否定されてしまい、駿紀は肩をすくめる。
「まぁ、そりゃそうか」
視線の先のアスファルトが、まだ朝だというのにゆらゆらとし始めている。

来訪を告げると、執事自ら扉を開く。血の気が引いているように見えるのは、気のせいではあるまい。
駿紀の、おかしい、という勘に間違いは無かったようだ。
「日下部徹様が、いらっしゃっています」
告げてから、少し逡巡して付け加える。
「お二人がいらっしゃったら、ご案内するようにと言われております」
どうやら、駿紀たちに連絡を取ったことを、日下部徹に知られているらしい。
駿紀と透弥は、どちらからともなく顔を見合わせる。状況はあまり芳しく無さそうだ。が、今のところ、あちらに主導権がある。
「わかりました」
頷き返すと、二階の一室の前へと案内される。
ノックをして、榊が告げる。
「リスティア警視庁の方が、お見えでございます」
「入っていただきなさい」
ごく静かに、天宮紗耶香の声が返る。
が、扉を開いた向こうにあるのは、歓迎しかねる光景だ。
日下部徹が、ぎらぎらとした目で、こちらを睨み付けている。口元に浮かんだ、どこか残忍な笑みは本性が現れた証拠だろう。
そして、その手にはメスらしいモノが握り締められており、見事なくらいにきっちりと紗耶香の喉元に突きつけられている。
「お前は、もういい」
という日下部徹の言葉は、榊へだ。ほんの小さく唇をかみ締めた後、執事は頭を下げて扉の向こうへと消える。
きっちりと扉が閉まったのを確認してから、日下部徹は再び口を開く。
「余計なモノは、そこで捨ててもらおうか」
駿紀と透弥は、どちらからともなく視線を合わせる。視線を、日下部徹へと戻したのは駿紀だ。
「お断り、と言ったら?」
「目前の状況を良く見てからたわ言を言うんだな」
面倒そうに肩をすくめて、透弥が上着の下から銃を取り出して床へと放る。
反応しない駿紀へと、日下部徹は目をいからせる。
「おい、お前もだ!」
「何も持ってないよ」
言っても信じない、という目なので、駿紀は上着を脱いで放ってみせる。ついでに、ぐるり、と一周体を回してもみせる。
「ほら、仕込んだりもしてないだろ?」
本当に何もないとわかって、いくらか日下部徹は拍子抜けしたようだ。が、すぐに気を取り直したように、刃物を握り直す。
「ようし、こっちに来い」
「何の為にさ?」
面倒そうに返されて、むっと日下部徹は眉を寄せる。
「いいから、言うことを大人しく聞け!」
「いや、なんでそっち近寄らなきゃいけないかくらいは、教えてくれてもいいだろ?だって、アンタにだって不利だよ?大の男が二人、距離縮めるってのは」
駿紀が肩をすくめてみせると、言うことはもっともと納得したのかどうか、すぐ側のテーブルを顎で指す。
「その、書類にサインをしろ」
「書類?」
「いちいち訊き返すな、大人しくサインすりゃいいんだ」
駿紀は、不満そうに唇を尖らせる。
「俺、内容のわからないものにサインするのは嫌だなぁ」
「詐欺を防ぐ、最も基本的な方法だ」
透弥が同意するのに、駿紀も大きく頷く。
「スクールの子供でも知ってるよな」
「お二人の主張は、至極もっともだと思いますけれど」
なぜか人質にしているはずの紗耶香にまで平静に言われてしまい、日下部徹は怒鳴るのをどうにか堪えたらしい。
「お前が説明しろ」
言われて、紗耶香は面倒そうに視線を上げる。
「天宮財閥の全権委譲と、天宮家の財産の委譲、それから捜査の一切の打ち切りの了承、以上三点に同意するという文書です」
「貴女はサインを?」
ほんの微かに、紗耶香の口元に笑みが浮かぶ。
「書面は作成しましたけれど、サインは最後に」
どうやら、駿紀と透弥がサインしたら、ということらしい。
駿紀は、首を傾げる。
「財閥やら財産はともかく、どうして捜査の打ち切りを?何もやってませんと、警察で証言されていたじゃないですか?」
「俺を疑ってないのなら、どうして俺の周りを嗅ぎ回ってるんだ?!」
透弥が、ほんの小さなため息をつく。
「死因がわからない以上、全てにあたるのは警察として当然の務めだが」
「現に、天宮さんにも色々とお話を伺ったしな」
「やましいことがないのなら、堂々としていればいい」
「う、うるさい!」
黙っていればいつまでも続きそうな二人の会話を、怒鳴って途切れさせた日下部徹は、足で床を大きく蹴る。
「お前らが余計なことをするから!診療所からもう来なくていいと!俺には、看護士しかないのに!」
「優しくすると、年寄りがお金残してくれるから?」
「感謝された上、生死を握れるのならば、言うことないだろう」
「ま、そんな看護士、診療所に置いときたくは無いよな」
日下部徹が、また床を蹴る。
「根も葉もないことを!」
「あれ、状況証拠だけじゃダメだってさ」
「では、日下部久代のことならば構わんだろう」
駿紀が肩をすくめたのへと、透弥が平静に返す。
「え?臀部から四箇所も注射によるものとしか思えない出血痕が見つかったこととか?」
「死亡前数時間内の、というのを忘れては困る」
す、と日下部徹の顔から、血の気が引く。それを横目に見ながら、駿紀はさらに言葉を重ねる。
「溺死したのは、強烈な低血糖に見舞われたからとか」
「健常者にインシュリンを注射したなら、そのような症状もあり得る」
ははは、という乾いた笑いが日下部徹の口から漏れる。
「何を馬鹿なことを。インシュリンは体内に残らない!」
「それって、内臓にはだろ?筋肉には残るんだよな?ええと」
「内臓は死後アルカリ性でインシュリンを分解してしまうが、筋肉は乳酸を発生するので酸性になる。ある程度の長期保存が可能だ。医学の一端を担っているつもりなら、物事は正確に記憶した方がいい」
とぼけたのはわざとだが、透弥の記憶の正確さには感心しつつ、駿紀はうそぶく。
「重症の糖尿病患者に投与する量の四倍だもんなぁ」
「はっ、いくら言ったところで無駄だ!」
蒼白な顔になっていた日下部徹の顔に、笑みが戻る。
「書類に署名したところで、お前らの捜査も全部おじゃんだ」
駿紀は、透弥を見やる。
「だってさ」
「やむをえん、まだ生きている人間の命がかかっているとなると」
透弥が、ほんの小さく肩をすくめてみせる。
紗耶香は、日下部久代の体内から多量のインシュリンが検出されたとわかっても、いまの言葉を聞いても、眉一つ動かさないまま、人形のように大人しい。ただ、瞳が、じっと二人を見つめ続けている。
日下部徹の笑みが、大きくなる。
「そう、わかりゃいいんだよ。大人しくこちらに来い」
比較的ゆっくりとした速度で、日下部徹が指定したテーブルへと駿紀たちは近寄っていく。
「ほら、コレに署名しろ!」
顎でしゃくられた先には、丁寧な文字で綴られた便箋がある。駿紀が手にしてみると、確かに先ほど紗耶香が言った通りの内容だ。
が、駿紀は首をひねる。
「何か、難しったらしい言い回しだなぁ、よくわかんねぇよ」
と、突き出されて受け取った透弥も、さっと視線を走らせる。
「先ほど聞いた内容と違わないのには間違いない」
「ふうん?」
「とっとと署名しろ!」
日下部徹が、再び床を蹴る。
「じゃ、俺、神宮司が署名したらする」
「何だ、それは」
「だって、内容がよくわからんもんよ。神宮司があってるというなら、先にしてくれよ」
自分の存在を半ば無視して会話が続くので、再び足を振り上げたところで、透弥がペンを手にする。
「そういうことなら、仕方ない」
と見下ろしてから、眉を寄せる。ややして、便箋を持ち上げて、日下部徹へと向き直る。
「署名の欄が無いが」
「ここにすりゃいいってんだよ、空いてるだろうが!」
イライラと指差された先を、透弥は慌てた様子も無く覗き込む。
「ここか」
と指差そうとして、手にしていたペンを取り落とす。
「うわ、カッコわる」
駿紀の言葉を背に、透弥は無言で腰を低くする。

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