□ 露結び耳の歌 □ dewdrop-7 □
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走り寄るにつれ、影は小さな男の子へと変じていく。
玄関先の壁に寄りかかったまま、微動だにしない。いくらか、その首は落ちている。
目前に行き、膝をつく。
駿紀は、その小さな肩に、恐る恐る手を伸ばす。
触れるか触れないかのところで、くたり、と駿紀の方へと倒れ掛かってくる。
「ッ!」
全く力が入っていないのは、確かめなくてもわかる。
間に合わなかった。
あれだけ速く走ったことも、この近くで足を緩めたことも、何の役にも立たなかった。
唇を噛み締めながら、小さな身体を抱きしめる。
まだ、ぬくもりが残っている身体を。
「……って、え?」
腕にかすかに感じる、いくらか湿った温もりは。
口元に、手をやる。
間違いない、まだ、息をしている。
「?!」
目を見開いたところで、走る足音が近付いてくる。
視線を上げると、透弥が走ってくるのが見える。
「隆南?」
いくらか眉を寄せて近付いてくる視線は、駿紀の腕の中にまっすぐに向かっている。
多分、数秒前の自分と同じことを思っている。
「神宮司、生きてる」
やっと目前まで走ってきた透弥は、駿紀の言葉の意味を一瞬取りかねたらしい。次の瞬間、大きく息をつきながら、膝をつく。
「それなら気道確保だろう」
「あ、うん、悪い。頼む、神宮司」
返事を待たずに透弥の腕に男の子を預けると、駿紀は跳ねるように立ち上がる。
そして、自分の来た方と反対側へと走り出す。
が、すぐに十字路へと辿り着いて、左右を見回す。
どちらにも、まっすぐ先にも、人影は無い。気配があった形跡も無い。
耳を澄ましても、足音も無い。
駿紀は、ぐ、と唇を噛み締める。
どうやら、犯人はまんまと逃げおおせたようだ。今は、どちらへと走っても影すら拝めまい。
いつまで、一人でうろうろとしていても仕方が無い。駿紀は方向転換して、元の場所へと走り戻る。
足音に視線を上げた透弥は、静かに告げる。
「手刀で落とされただけで、首は絞められていない。捻挫も無いようだ。意識が戻れば、大丈夫だろう」
「そうか」
駿紀は、膝をついて子供の顔を覗き込む。命に別状が無いのだ。
「良かった」
「救急車を呼んでくれ」
「ああ」
頷いて、再度立ち上がって。
「神宮司」
駿紀の、ぽつり、とした声に、透弥の視線が上がる。
どこか奇妙な沈黙が落ちる。
直前と言っていい間に犯罪が行われたのだ。本来なら、非常線を張るべきだろう。
だが、それをすれば、犯人に告げることになる。
先ほどの足音は、お前を追うモノだった、と。
警察では無い人間なら、どうするか。
子供が倒れていると気付けば、救急車は呼ぶだろう。だが、首の後ろに打撲傷があるかどうかは、医者でなくてはわかるまい。
そこから通報が入り、警察が動く。
駿紀が引き返してきた時点で、この近くに犯人はいないというのは透弥にもわかっている。
今から非常線を張って、網にかかるか。
万が一、網にかかったとしても、犯人かどうかを見分ける術があるのか。
一問目の答えは可能性は非常に低い、で、二問目の答えは現状存在しない、だ。
と、いうことは。
「救急車を、呼んでくれないか」
透弥が、もう一度、繰り返す。
それが、透弥の出した答えだ。そして、駿紀の答えは。
「わかった、呼んで来る」
非常線は、張らない。それは賭けだが、二人の答えは一緒だ。
走り出しかかった駿紀の後姿へと、透弥の声が飛ぶ。
「それから、林原たちも」
軽く手を振ることで、駿紀はわかったと告げる。
あたりは、急速に夕闇に包まれていく。



木崎の眦が、裂けるほどに釣り上がっている。
「お前ら、非常識にもほどがある!」
いくらか声が抑えられているのは、ここが病院だとわかっているからだろう。一応は自制が働いているらしい。
怒りは、もっともだと駿紀たちもわかっている。
なんせ、子供を病院へ運び、両親に連絡を取り終え、本人の意識が戻って、それから木崎たちへと連絡を入れたのだから当然だ。
「すみません。連絡が遅くなったことは、この通りです」
素直に詫びを述べる駿紀と一緒に、透弥も頭を下げる。
「扇谷先生に診ていただくまでは、同一犯という確信が持てなかったものですから」
少々ずるい言い訳だが、手刀で落としたという事実を特別捜査課に伏せていたのは木崎たちの方だ。
その点では、これ以上責めることも出来ない、と木崎も思い直したのか、口をつぐむ。が、納得のいった顔ではない。
じっと睨みつけるように駿紀を見つめたまま、ぼそり、と言う。
「どうして、わかった」
「え?」
怪訝そうに返す駿紀の襟首を掴みそうな距離に、木崎は顔を近付ける。
「あそこが狙われると、どうしてわかったのか、と訊いている」
「勘です」
駿紀は、きっぱりと返す。
嘘ではない。実際、三箇所のうち、一箇所に絞ったのは勘でしかないのだから。
「何?」
また、眦がつり上がってきたのを見つめつつ、言葉を重ねる。
「俺の勘のことなら、木崎さんは良くご存知でしょう」
「お前の勘は、根拠無くは働かん」
食い下がる木崎に、駿紀は言葉を捜そうとして上手く見つからず、透弥を見やる。
「過去にも同様の事件があったのではないかと考え、洗い直しました。その結果から、可能性のありそうな場所を探していて、偶然通りかかりました」
透弥は、簡潔にまとめてみせる。
不機嫌そのものの顔つきで透弥を見やると、木崎は噛みつくような口調で言う。
「では、なぜ洗い直した結果を言わない」
「まとまったのは今日です。本日の捜査会議に入れるつもりでした」
全く動じない、冷静な声だ。しかも、嘘ではないから説得力もある。
それが癇に障るのか、木崎は視線を逸らす。
「非常線を張るのも思いつかないとは」
「人命が最優先と判断しましたので」
聞きようによっては馬鹿にしてるとも取れそうな平坦な声に、木崎はぎろりと音がしそうな視線を向ける。
が、何か言おうとした口は、背後の扉の音に気付いて閉じる。
現れたのは、扇谷だ。
「少しなら、話してもいいですよ」
医師としての言葉に、駿紀たちの視線も動く。
「あまり大挙されるのは困りますが」
言外の意味がわからぬほど、木崎も愚かではない。彼が望む形では無いにしろ、犯人に狙われた子供を救ったのは駿紀たちだというのも動かせない事実だ。
「今日のところは、預ける。捜査会議は、明日の朝に変更だ」
半ば吐き捨てるように言うと、駿紀たちに背を向けて歩き出す。扇谷への挨拶は忘れなかったので、冷静さは残しているのだろう。
扇谷も医師らしい挨拶を返し、早足で歩いていく後姿を見送る。
完全に足音が消えてから振り返った顔には、見慣れた暖かい笑みが浮かんでいる。
「今回のこと、間に合ってくれて、私からもお礼を言うよ」
「いえ、お礼を言われるようなことじゃないです」
駿紀は、慌てて手を横に振る。透弥は冷静に見つめ返す。
「様子は、どうですか?」
「頚椎への衝撃で落とされたけれど、今日のところの検査では脳に後遺症が残りそうな結果は出ていない。明日から、もう少し詳細に検査をして見る必要はあるけどね」
事故担当らしい、迅速な対応をしてくれたのが伺える言葉に、駿紀はほっと息をつく。
「ひとまずは良かった」
が、透弥の視線は動かない。まっすぐに扇谷を見つめたままだ。
扇谷は、その視線にほんの微かに頷き返してから、口を開く。
「何があったか覚えているかと、一応は訊いてみた。どうやら、ほとんど覚えていないようだね。もちろん、じっくりと問いを重ねれば別かもしれない」
「そうですか」
感情のこもらない声で、透弥が返す。
駿紀も、一瞬ためらう。
が、自分たちが止めたとしても、木崎たちがするだろう。なら、自分たちで話を聞いた方がいい。もしかしたら、何らかのヒントを握っているかもしれない。
少年は、唯一の目撃者なのだから。
「では、行ってきます」
軽く頭を下げた駿紀たちへと、扇谷は付け加える。
「研究室の方に戻っているから、もし何かあれば、そちらにね」
「はい」
頷き返して、法医の窓口となっている部屋を後にする。
歩き出しながら、駿紀は口を軽く尖らせる。
「思い出さなくていいよって言えれば、いいんだけどな」
殺されそうになった記憶など、思い出せないのならその方が幸せだろう。
「自分が証言しなかったせいで、他の犠牲者が出たとなったなら、無理矢理にでも思い出せば良かったと思うことになる。どんなに時が経ったとしても、余計な事を吹き込む人間は存在するものだ」
透弥の声は、相変わらず平坦なままで感情が篭っていない。が、言いたいことは駿紀にもわかる。
「そうなんだよな。でもやっぱ、無理矢理聞き出すことになるとしたら、気が重いよ」
ふ、と透弥の口元に笑みが浮かんだのを見て、駿紀はまともに横を向く。
「何だよ?」
「刑事らしからぬことを言う、と思っただけだ」
また、いつもの毒舌か、と駿紀ははっきりと眉を寄せる。
「人として当然のことだろうが」
「悪いと言ったわけじゃない」
珍しく透弥から素直に詫びるような言葉返ってきたので、軽く目を見開いてしまう。
「だが、刑事としての立場を貫こうと思うのなら、時に鬼にもならねばならないかもしれない」
それは、半ば独り言のようだ。
何を思って言っているのだろう、と駿紀は思う。が、あえて問うことはしない。
「そりゃそうだろ、犯人相手にホトケになってなんかいられないことはあるさ」
わかっていて、論点をずらす。透弥も、視線を前へと戻す。
「当然だ、特に今回のような件の相手には」
ずらした方の話題へと乗ってみせてから、少年の病室の扉の前で足を止める。
駿紀が軽くノックをすると、返事が返る。救急車を呼んでるうちに帰って来た母親の声だ。
すぐに扉が開いて、顔が覗く。
「ああ、刑事さん。どうぞ、お入り下さい」
命の恩人だ、と思ってくれているらしく、笑顔だ。子供が検査を受けている間、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も何度も礼を言ってくれたのを思い出す。
駿紀たちも、笑みを返す。
「お疲れだとは思うんですが、少しだけ話を伺いたくて」
「よろしいですか?」
母親は、すぐに頷き返す。
「ええ、先生からも伺っています。どうぞ」
招き入れながらべッドの上の子へと声とかける。
「お兄ちゃんたちが、来てくれたわよ」
「直樹くん、こんばんは」
声をかけると、笑顔が返ってくる。
「おにいちゃんたち、たすけてくれてありがとう!」
母親がそう教えたのだろう。まだ五歳そこそこの無邪気な笑顔を見ると、改めて間に合って良かったと駿紀は思う。
穏やかな笑みを浮かべた透弥が、駿紀を指してみせる。
「このお兄さんが、韋駄天みたいに走ってくれたからね」
子供相手に小難しい言葉を、とツッコもうとしたところで、少年に遮られる。
「ありがとう、てんのおにいちゃん」
「あっ、ほら変な覚え方しちゃったじゃないか」
「いいじゃないか、個別認識してもらえるようになった」
思わず素に戻ってしまった駿紀に、透弥はしれっとした顔で言ってのける。
会話の意味はともかく、楽しそうに見えたらしく、子供はにこにことしている。
子供がリラックスしてくれてるのはありがたいか、と駿紀は思い直して、膝を折る。
「直樹くん、少し、お話してくれるかな?」
「うん」
小さな首が縦に動く。念のための包帯が痛々しい。が、駿紀は笑みを大きくする。
「ありがとう。じゃあね、夕方になったら、門のところに行くのは、毎日なの?」
「ううん」
返事と一緒に、首も横に振られる。
「きょうはね、ママ、はやいよっていってたから」
まだかまだかと待ちくたびれて、出てしまったということだろう。
「そうか、ママ待ってたのか。どんなふうに待ってたのかな?」
「うんとね、おすわりしてたよ」
あの姿勢は、最初から自分でしていたわけだ。
駿紀は、軽く息を吸う。
「座ってたら、誰か、来た?」
少年は、首を傾げる。
「んーとね、ねむりんころりだったの」
「あ、ごめんなさい。童謡なんです。眠くて寝ちゃったって歌で……」
母親が困惑顔で注釈するのへと頷き返してから、透弥を見上げる。透弥は、ほんの微かに首を横に振る。
少年へと視線を戻した駿紀は、にこりと笑う。
「そっか、ねむりんころりだったんだ。わかった、ありがとう」
笑顔につられるように、少年も笑みを浮かべる。
「また、会いにきてもいいかな」
「うん、おにいちゃんたち、たすけてくれて、ほんとにありがとう」
どんなことを親が言ったのかはわからないけれど、嬉しそうに言う少年の瞳に嘘は無い。
もう一度笑みを返してから、母親にも礼を言い、病室を後にする。
完全に病室を離れたとわかってから、駿紀が口を開く。
「生きててくれてありがとうって、むしろこっちが言いたいくらいだよ」
一瞬、何か言いかかったように見えた透弥の口元は、なぜか、そのまま閉じてしまう。
ややの間の後、透弥は、ぽつりと返す。
「そうだな、今は間に合ったことに感謝すべきだろう」
その視線が、銃を選んでいた時と同じ、どこか別の場所を見ているように感じて駿紀はヒトツ、瞬きをする。

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